「ネギ弁当」にはじまる

松岡祥男

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 ひとの生涯は、とても困難な時期がもっとも充実しているというようにできているのかもしれない。吉本隆明は講談社の『われらの文学』という文学全集のためのアンケートで、《戦後、最も強く衝撃をうけた事件は?》という質問に対して、「じぶんの結婚の経緯。これほどの難事件に当面したことなし」と答えている。ここでは、その難事件そのものについては触れない。つまり、困難自体ではなく、充実ということについて言ってみたいのだ。
 吉本隆明は「わたしが料理を作るとき」という一文を書いている。そのなかで、第一に挙げているのは、ネギ弁当だ。

 一 ネギ弁当
  イ カツ節をかく。カツ節は上等なのを、昔ながらの削り箱をつかってかく。
  ロ ネギをできるだけ薄く輪切りにする。
  ハ あまり深くない皿に、炊きたての御飯を盛り、ロのネギを任意の量だけ、その上にふり撒き、またその上からイのカツ節をかけ、グルタミン酸ソーダ類と、醤油で、少し味付けをして喰べる。

 一のネギ弁は、職なく、金なく、着のみ着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰べた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった。

                 (吉本隆明「わたしが料理を作るとき」)

 初めての同棲生活。「着のみ着のまま」というのが、その事情を語っている。一九五六年後半のことだ。
 わたしの実感からすると、同棲が脚光を浴びたのは、ずっと時代が下り、一九六〇年代末から七〇年代前半である。林静一の『赤色エレジー』、上村一夫の『同棲時代』のマンガのヒットもあり、林静一の作品をあがた森魚が歌にし、それを契機に「神田川」をはじめ亜流作品がたくさん生まれ、流行した。そういう時代だった。
 その当時、市役所の臨時職員だったわたしも、東京に出て下北沢の喫茶店で働いていた彼女を迎えにいって、同棲をはじめた。貧乏だったけれど、それでも同じ下宿の石井さんと近所の漬物屋から白菜の漬物を買ってきて、毎日のように酒盛りをしていた。高校時代につるみ、学校や教師たちに敵対したT兄弟やYなど、人の出入りも激しかった。それは「ひっそり」した、まるで夏目漱石の『門』の夫婦のような吉本隆明とは様相が違うけれど、その頃は愉しかった。
 これは高度成長期の最後の光芒といってよく、石油ショックを契機に時代はきびしく転換していった。石油ショック以前がどんなふうに牧歌的であったかといえば、四国の西端の宿毛湾に原油基地を設置するという計画が持ち上がり、これに対して漁民を主体に反対運動が起こった。これを支援するため、現地へ下見に行った。わたしたち(鎌倉、小松、石川、松岡)一行はいろんな地区をめぐったけれど、大月町の安満地の漁港に着いた時には夕方になっていた。安満地は深い入江の湾で、低い山に囲まれた夕凪の海に陽が沈む光景は穏やかで美しかった。泊まる場所を探していると、地元の人々は親切にも小学校の体育館を提供してくれた。さらに獲れた魚の差し入れまでしてくれたのである。いまや、こんな話は夢物語である。第一に見ず知らずの来訪者を、学校の施設に寝泊まりさせるなんてことはありえないからだ。
 ついでにいえば、林静一の『赤色エレジー』はアニメーターの一郎と幸子の暗くて切ない同棲生活を描いた作品だが、アニメの平面画法を導入し、大胆な場面転換を駆使することで、マンガの表現方法を飛躍させた傑作である。その最後のほうで、ザ・モップスの「朝まで待てない」が使われている。最初のシングル盤A面作である「朝まで待てない」こそが作詞家阿久悠の出世作なのだ。
 吉本隆明は一九五五年六月に東洋インキを退職、再就職のあてもない失業状態にあった。そんな中での同棲だったのである。

 子どものころ、卵はめったに口にはいらない貴重な食べ物だった。親たちが島育ちで魚好きだったこともあったかもしれない。ゆで卵を一つか二つ食べられるのは、春と秋の二回だけの遠足のときだった。昼食ののり巻きと、制限つきのお菓子と一緒に、白か茶色の紙袋に包んだゆで卵と塩が、遠足にもって行けた。のり巻きよりもお菓子よりも、ゆで卵のほうが遠足の日の大事な食べ物だった。殻をとんと叩いてひびを入れ、むきはじめると光沢のある白身があらわれてくる。塩をつまんでふりかけ、ひと口かぶりついて白身と黄身の一部が口にはいったときの、口のなかの乾いた微粒のある感じと、塩味のついた蛋白の味は何ともいえない。この感じは、卵が貴重で病人の栄養のためか、遠足のときしかお目にかかれないものだという固定観念と一緒に、ずいぶんわたしの思春期までを支配してきた。そして何日かゆで卵をたくさん作って思う存分に食べてみたいものだという願望をいだいた。この願望を遂げるにはふたつの条件がいる。ひとつはもちろんそんなことができるお金があることだ。もうひとつは、そんな馬鹿気たことが許容される、「よしきたやろう」という雰囲気がつくれることだ。親たちにせびっても何て馬鹿なことを考えている人だいと言われるにきまっている。だが遂にその機会はきたのだ。それは奥方と一緒になって、しばらく経ってからのことだ。或る日、二人で鎌倉へ行ってみようよということになった。一度、ゆで卵を思う存分食べてみたいとおもってたんだ、明日作って行っていいかなあというと、いいわ、わたしもやってみたいわと賛成した。十五個か二十個か忘れたが、鍋にいれて充分にゆであげた。そして片瀬の海岸を橋ぞいに江の島へ渡り、海に面した岩場に腰を下ろして食べはじめた。わたしのイメージでは少なくとも十個や十五個くらいはペロリと平らげられるはずだった。だがみよ、六個か七個ごろには、口のなかの乾いた感じは極限に達し、何やらこめかみのうえのあたりが痛いような、口のなかのものを押しだすような感じになり、どうにもならなくなってきた。美味いという感じも消えうせ、辛いという感じにちかくなってきた。もちろん水筒のお茶も呑み、塩もふりかけたのだが、それでもおさまってゆかない。なあんだ、こんなものかと気落ちがした。あるいは狐が落ちたといっていいのかも知れない。奥方のほうは三個ぐらいが限度だった。
                      (吉本隆明「卵をめぐる話」)

 これはおそらく特許事務所に隔日勤務を始めた一九五六年八月以降のことだろう。これが新婚生活というものだ。初々しい雰囲気と弾んだ気分で溢れている。そして、それはだんだんと内化されてゆく。

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 『追悼私記』の完全版が講談社文芸文庫として刊行されることになった。先に挙げた「増補リスト」(『脈』九八号)の一三篇に、岸上大作の『歌集 意志表示』(白玉書房)に寄せられた帯文と、高知県本山町にある大原富枝の墓の碑文のふたつが追加されることになった。岸上大作の帯文は、姉の死に際して身内の想いを綴ったものとは違って、最初のパブリックな追悼文である。この収録によって、一九六〇年一二月に自殺した岸上大作に対する追悼文は、吉本政枝(一九四八年没)と岩淵五郎(一九六六年没)の間の〈本来の位置〉に置かれることとなった。
 追悼文は死者に対する哀悼の念や喪失感とともに、客観的な要素が滲入しなければ成り立たない。
 『吉本隆明全集』第三七巻を読んで初めて分かったことがある。それは『共同幻想論』の雑誌連載の中断が、父親の病気によるものだったことだ。切迫した情況では執筆活動など二の次なのだ。それは母親の死に際しても変わらない。「死にちかい母親の病院のベッドの傍で、はじめの二日ほど、ときどき実朝論の校正刷りをながめる余裕があったが、そのあとはもう死の足音が不可避的に近づいてくるのを、余裕をなくしてきくばかりであった。医師に水分を禁じられた母親は、その場かぎりのいい逃れを云って水を与えないわたしの方を視て、子供のとき叱りとばしたときとおなじ貌をときどきした」(「実朝論断想」)。
 ここでは痛切な思いでなく、吉本隆明が追悼文をしたためた、吉本政枝から梶木剛にいたる四四名それぞれの生没年度、代表的な著作、対談や座談会の記録など、〈客観的な関わり〉をとらえておくべきだと考えた。それが追悼文の背景をなしているからである。
 それをこの連載のために準備していたけれど、出稿直前に今度の文庫本に「解題」として掲載されることになったため、割愛した。ただ、その作業の過程で判明した、旧版の『追悼私記』の「初出一覧」の間違いについては指摘しておきたい。旧版を所持する読者に寄与するかもしれないからだ。

▼岩淵五郎
 「ある編集者の死」(『週刊読書人』一九六六年三月一四日号)→「一編集者の死と私」
▼橋川文三
 「告別のことば」(『ちくま』一九八四年三月号)→『ちくま』一九八四年二月号
▼昭和天皇
 「昭和天皇の死」(『TBS調査情報』一九八九年二月号)→「天皇の死とテレビ」
▼手塚治虫
 「手塚治虫論」(『TBS調査情報』一九八九年三月号)→「テレビ的事件」
▼美空ひばり
 「美空ひばりU」(『TBS調査情報』一九八九年八月号)→「天才だけが演ずる悲劇」
▼今西錦司
 「「棲み分け理論」の射程」(『産経新聞』一九九二年六月一七日)→「今西錦司とのただ一度だけの出会い」

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 生れてから間もなく重い肺炎にかかって死にそこなったと親たちからよく聴かされていた。そのせいか小学生のころ、いつもレントゲンの検診でひっかかっては精密検査をさせられた。河蒸気の渡し船に乗って川を渡ると、築地明石町のあたりを歩いて聖ルカ病院(子どもはセイロカといっていた)の付属になっていた保健館へ出かけていった。
 病人扱いにされるのが嫌だったが、ほとんど年ごとの検診でかならずひっかかり、精密検査で異常なしということになった。またか、と思うのだが、子供のことで説明もできないし抗議もできない。しまいには保健室の看護婦さんと顔なじみになった。廊下ですれちがっても、街路で出あっても「おい、ヨシモト」(なぜか聖ルカ病院派遣の看護婦さんは生徒を呼び捨てにする慣わしであった)と呼びとめられては、二こと三ことかまわれるのだが、それが恥ずかしいし、ほかのガキどもの手前照れくさくて仕方がなかった。しかしそんな風なかまい方をする女性は周辺にはいなかったので、女先生には感じたことのない優しさの匂いを感じとっていたかもしれない。

                   (吉本隆明「小学生の看護婦さん」)

 わたしも学校の身体検査は総じて嫌だった。検便でマッチ箱にうんこを入れて持っていったことも含めて、あのツベルクリン注射のただれた痕がそれを象徴しているような気がする。それに加えて、色盲や難聴の検査などで異常があるわけではないけれど、少しだけ機能的に劣っていたのか、一発では済まず、次の段階の検査を受けるケースが多かった。勉学(知力)だけが落ちこぼれを生むわけではない。リズム音痴にはじまり、運動能力、造形力(絵が描けない、図形が画けない)など、みんな連結している。自意識が強くなるにつれて、じぶんは欠陥人間なのかもしれないというコンプレックスになるのだ。
 ひとは困ったもので、背が高ければそれを気にし、低いと嫌がる。女性の場合もおっぱいが大きい小さいは重要なことのようだ。それに公準があるわけではないので、どちらであっても気に病むのだ。むかしは男なら屈強、女なら美貌というのが通り相場だったのだろうが、そんなもの、もはや通用しない。そうであっても、自我の根底はおのおのの〈身体意識〉に基づくといっても、間違いとは言えないような気がする。むろん、ひとはそれぞれに社会的な場所を得て、時代の中に生きることになるから、そんな身体意識は内的なものに潜在化する。
 吉本隆明に決定的な影響を与えた今氏乙治は一九四五年三月一〇日の東京大空襲で亡くなっている。その東京大空襲に関連して、高野慎三『東京儚夢』(論創社)で次のような記述に出遇った。

聖路加病院の向かいの中央区立郷土天文館で、竹久夢二の恋人であった笠井彦乃の展覧会が催された。その帰り道に明石町や築地周辺をゆっくりと歩きまわった。勤め帰りには気付かなかったが、錆びて緑青色に変色した銅板建築の家がそこここに認められた。そして、ここは空襲にはあわなかったのか、という感慨を抱いた。後日、聖路加病院が存在したゆえに爆撃目標から外された、という説明を何かで読んだことがある。
                        (高野慎三『東京儚夢』)

 ここで驚いたのは、そういう都市の細部まで、米軍は調査し空爆計画を立案して実行したということだ。米国は、東京を空襲するために、ユタ州の砂漠地帯にあった陸軍試験場に、東京の街並みを再現して、新型焼夷弾を開発し、実験を重ね実用化。東京の気候、風土、住環境まで徹底分析のうえ、火災の被害が大きくなる時期を空爆に最適と決定したのだ。
 ここまで用意周到な米軍に比較して、真珠湾奇襲くらいでなんとかなると思っていた日本の軍部は歯が立つはずはない。戦争は総合力である。それに対抗するのは、言うまでもなく戦争の全否定だ。米軍は三月一〇日の十万人にも及ぶ人命を奪った大殺戮の大空襲をはじめ四度の爆撃を実行し、さらに全国の都市へと拡大した。その多くは軍事的拠点を持たない、ただの地方都市である。完膚無きまで打ちのめすことだけを目的としたジェノサイドといっていい。それは終戦までつづいたのである。
 そのあと、NHKの「ブラタモリ」の「豊洲」をみていたら、東京湾岸の多くは米軍の接収地になっていたことを告げていた。キリスト教関連の病院があったことも考慮されたかもしれないが、それ以上に、進駐するに際しての接岸場所や駐留地の確保として、戦略的な観点から除外したようにおもえた。
冷徹で冷酷な連合軍に対して、日本はアジア的劣勢意識まるだしで、「滅私報国」とか「一億総玉砕」という号令のもと、実際は、天皇家は敗戦の前年じぶんたちの延命のために皇后の名義でスイスの赤十字に多額の寄付をし、磯田光一『戦後史の空間』によれば、一九四五年八月一五日の「終戦の詔書」の三日後には、内務省警保局長は秘密の無電で、占領軍向けの売春施設を設営するように全国の警察署に命令を発している。警察署長は、積極的に指導をおこない、施設の急速充実をはかり、性的慰安施設、飲食、娯楽場、営業に必要な婦女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦などを優先的に之を充足するものとし、さらに戦争未亡人などもこれに加えようとしたのである。これが日本の支配層の卑劣な〈本性〉なのだ。
 敗戦からと言わずに、明治維新から数えてもたったの一五〇年。わたしの生きてきた年月からいっても三倍に満たない。日本人の意識も体質もそんなに変わっていない。吉本隆明の思想はそれとの必至の闘いであり、その原理的解明と超克への基礎を形成していることは疑いない。

                   『脈』100号2019年2月発行


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「「ネギ弁当」にはじまる 松岡祥男」 ファイル作成:2023.07.16 最終更新日:2023.07.19