三つの指摘

松岡祥男

     (1)
 吉本さんの書物を読んでは忘れまた読みかえしながら、吉本さんも尊重されておられた南島語研究者村山七郎の跡を追い、細々と南島語とアイヌ語と原始日本語の関わりを尋ね歩いておる小生ですが、アイヌ語に関わることで、「心的現象論」のなかに一箇所気になる点がありまして、とても馬鹿らしいほど細かな点なのですが、お聞きいただければ幸いです。この件、「試行」および『母型論』『心的現象論』(文化科学高等研究院版)にもあたり、また各種アイヌ語辞書にもあたってみました。次のような事の次第になります。
《問題の箇所》
●「試行」No.74 心的現象論 112 民族語の原了解(3)末尾に近く
「たとえば、宮城県の「気仙沼(けせんぬま)は、アイヌ語で類似音にほぐして「kes-en-nu-ma」と仮定すれば「尻がー光っているー豊漁のー峡湾」ということで、『おもろさうし』とおなじ語法とすれば、「気仙沼」は旧日本語時代には「尻がー光っているー豊漁のー峡湾」という意味で呼ばれていたことになる。また「白石」は「sir-o-us-i」で「山のー尻にーついているー所」と呼ばれていたことになる。」
とあります。
●『母型論』「原了解論」学習研究社1995・11・7 p267(上と同文)
●『心的現象論』112民族語の原了解(3)2007・6・1初版 p868(上と同文)

  【▽『母型論〈新版〉』(思潮社2004年4月刊)▽『心的現象論 了解論III』(「吉本隆明資料集72」猫々堂2008年2月刊)▽『吉本隆明全集』第26巻「母型論」(晶文社2021年8月刊)▽『吉本隆明全集』第30巻「心的現象論」(晶文社2022年12月刊)。すべて(上と同文)←松岡追補】
 ここでアイヌ語で問題になるのは、〈kes-en-nu-ma〉の〈en〉です。
《アイヌ語辞書》
(1)知里真志保『地名アイヌ語小辞典』(北海道出版企画センター 1956年初版 1984年復刻2004年七刷)
 これには次のようにあります。
en えン  《完》とがっている;つき出ている;するどい。
       〜-keとがらす。
e-en エえン 《完》するどい;先がとがっている;刃がきれる。
       [e(頭)en(とがっている)]
e-en-iwa   エえニワ 尖り山。イブリ国チトセ郡エニワ(恵庭)岳の原名はこれである。
       [頭が・とがっている・山]
などと説明があります。

  【以下、▽『知里真志保著作集別巻II(分類アイヌ語辞典人間編)』▽『北海道蝦夷語地名解』永田方正 明治24年初版 昭和47年復刻 国書刊行会▽バチェラー『アイヌ・英・和辭典』岩波書店 第四版1938年第1刷 1995年第3刷▽『アイヌ語方言辞典』岩波書店1964年 服部四郎編からの引用による掲示がありますが、割愛しました(←松岡)】
 これらの記述により〈en〉は「とがっている」という語意を持つアイヌ語詞と判断されます。
《校正の問題か》
 そこでわたしが考えるに、〈en〉が、(勝手にわたしが思っているところの)「尖っている」から「光っている」となった理由は
   A「尖」っている (「光」っている)
 Aを筆録された場合、形状類似の両漢字「尖/光」の区別が付けにくい場合がある、ということだったのではないでしょうか。かつてアイヌ語はいっぱんには見捨てられている言語ですので誰もが筆記文字の見分けを外部から検討出来るわけではなく、結果校正を免れた、と考えます。
 吉本さんは「脱音現象論」で参照文献として宝田清吉「アイヌ語と東北」(自家版)をあげておられます。知里地名辞書も参照して居ないはずはありません。前記知里地名辞書にも「尖り山」という表記がありますが、おそらく宝田氏の書には「気仙沼」があってまた「尖っている」という表記があるかも知れません。残念ながらわたしはこの書を参照出来ませんでした。この「尖り」は気仙沼の湾奥または海上から古代人が見た(古往時比較的平坦な広がりを持った)湾地の、特徴ある一端の高地を指していたかも知れません。

   (「東北のEさん」の松岡祥男宛書簡2023年6月30日)

(1)への返信など
▼「心的現象論 民族語の原了解(3)」の件ですが、わたしはアイヌ語に関する知識が皆無なので、全く分かりません。
 わたしの手には負えませんので、もし不都合でなければ、このことを『吉本隆明全集』の版元(晶文社)に伝えたいと思います。
 不都合な場合はお知らせください。
 お便りを拝読して、身が引き締まるような気がしました。
 ご活躍を祈ります。(7月4日)

▼「心的現象論 民族語の原了解(3)」のことですが、わたしは『全集30』『母型論』をみて、返事を書きました。
 その後『試行』を取り出し、ご指摘の箇所を確認しました。そしたら、「心的現象論 民族語の原了解(3)」は『試行』第73号(1995年5月発行)が初出でした。
 ご指摘が『吉本隆明全集』の読者に伝わることを願っております。(7月6日)

 わたしはその後、発信者の了解を得て、手紙をコピーして、晶文社などに送りました。そしたら、宿沢あぐりさんから宝田清吉『アイヌ語と東北(改訂版)』(1966年8月20日初版 1970年7月1日改訂版発行)の複写が届きました。それには次のようにありました。

   気仙沼(ケセンヌマ)kes-en-nu-ma 尻がー尖っているー豊漁のー峡湾

 コピーなので断定的なことは言えませんが、手書きもしくはガリ版印刷と思われ、「尖」と「光」の違いを見分けるのは通常の視力でも難しいような気がしました。

     (2)
 お世話になっております。
 恐らく全集等も含めて、いまだに未収録だと思うのですが、かつて吉本隆明が北海道大学新聞に寄せた短文を添付します。「腐食しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」という標題で、昭和35年4月25日付けです。
 よろしくお取り計らいください。

    (京都・三月書房宛メール2023年8月1日)

(2)への返信
 お申し越しの「読者からのメール」ですが、「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」は『吉本隆明全集』第6巻(2014年3月刊)に収録されております。また、宿沢あぐり「吉本隆明年譜」が詳しく記述していますので、ここに呈示します。

[1]一九六〇年三月一六日
 「あいさつ」
 全学連第一五回臨時大会(一六日?一七日)
 会場・東京目黒公会堂(一六日)、新宿会館(一七日)
 他には黒田寛一、松田政男たちも出席。
 このあいさつについて、四月一日付共産主義者同盟機関紙『戦旗』(発行所・東京都文京区元町一の七 世界労働運動研究所 編集 発行人・鏑木 潔)第一〇号では、つぎのように記している。

      平和的ムードのなかで
        腐蝕しない思想を!  吉本隆明氏の挨拶

 第十五回全学連臨時大会に当り、学生運動が現在おかれている状況と、しかるが故に学生運動がになつている特殊に現在的な課題について、私は述べようと思う。
現象的なものではない本質的な思想闘争のない現在の状況は絶望的である。したがつて未来への希望は、本質的な思想対立とたたかいをまき起すことによつてのみつながれうるだろう。
 十五・六年も現象的な平和が続いていることは、明治以降の近代のなかではあめて(ママ)のことであろう。この中で平和的にして大衆的な規模で『転向』が行われている。だからわれわれはまつたく新しい思想的な課題に直面している。学生諸君が権力からの強圧にたえうるだろうことは、うたがいない。しかし、世をおおうこの平和的なムードの中で、思想を腐蝕させないで保ちつづけることは、またきわめて困難なことであり、これから以後、諸君に課せられている、大きな問題でじだ。(ママ)
 こゝから、いわば現在の社会的な情勢における必然として、学生運動が、あるときは前衛的な役割を、あるときは学生運動固有の役割を、またあるときは労働運動の役割を、負わねばならないという現在のありかたが生れてくる。
 これに耐えよ。その時、未来への希望は諸君のうちにある。
 これに耐えぬなら、諸君も腐り、崩壊してしまうのる。(ママ)

 これは、四月二五日付『道学新共同デスク』の「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」とほぼ同一内容。

[2]一九六〇年四月二五日
 「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」 『道学新共同デスク』(札幌市北八条西五丁目(北海道大学新聞会内))第三号
 これは、『戦旗』第一〇号に掲載されたものとほぼ同一内容(削除箇所あり)。

   (宿沢あぐり「吉本隆明年譜(3)」『吉本隆明資料集146』所収)

 [2]は『吉本隆明資料集47』(2005年7月発行)にも収録しています。
 その経緯をいいますと、川上春雄の遺した資料の中に指摘の新聞があり、間宮幹彦氏から提供されました。それで『資料集』に収録したのです。その後、宿沢氏の調査により、[1]が原型であることが判明しました。

     (3)
 松岡さんの文章において、沢清兵=内村剛介という話を吉本和子さんから聞いて、松岡さんもその説をいちおううべなっているように拝察いたしますが、二人は別人です。
 私が1973年から日本読書新聞に4年間在籍していたおり、沢さんに「論壇時評」のようなものをお願いして、担当し、彼とは確か阿佐ヶ谷のガード下で、酒を飲んだこともあります。剛介氏と同じく商社マンで、太った恰幅のよい方でした。私は、沢さんの『褪色』は今でもラーゲリ文学の傑作と思っており、当時も沢さんに原稿をいただきたいと思っておりました。今は手元に資料がないので記憶でしかないのですが、沢さんには石原吉郎の本の書評も書いていただいたように記憶いたします。年賀状もいただいた記憶あります。もちろん、「沢清兵」は筆名で、本名は今や失念しました。「試行」への寄稿は、もちろん剛介氏の紹介ということでした。シベリアでは、剛介氏はエリートでレーニンだけ読んでいれば良かったんだが、俺は下っ端だったから、といった話が記憶に残っています。

    (京都・三月書房宛 スガ秀実メール2023年8月24日)

(3)に関連する松岡の発言
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
 それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
 たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合せた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた(内村剛介本人はインタビューで別人としているらしいが‥‥‥。言うまでもなく内村剛介は「政治犯」として長い間ソビエトに拘留された。帰国後も、その方面の追跡や監視は続いていたことは想像に難くない。また、日本のその筋からも要注意人物扱いだったろう。訪ねるたびに、内村家の表札の名字が変わっていたという話もあるくらいだ)。
   (松岡祥男「瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」批判」)

 そういうことを言うなら、『VAV(ばぶ)』の陶山幾朗・成田昭男との間で問題になった『試行』に「褪色」という作品を発表した沢清兵は、内村剛介のペンネームということに関連して、内村家の表札がよく変わっていたというのは脇地さんから聞いた話だ。陶山幾朗は内村剛介については、じぶんがもっとも打ち込んでいるので、誰よりもよく知っていると思い込み、「沢=内村」という意見を頭から否定し、これは「なんらかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する」などと言ったんだ。それが専門家がはまる陥穽のひとつだ。異説に接したら、それを検討するのがほんとうなんだ。陶山幾朗は脇地さんとも交流があったから、いろんなことを聞くことができたはずだ。そうしたら、別の角度からの人物像が得られただろう。ソビエトに抑留されたことが内村剛介の決定的な体験であることは疑いないけれど、帰国後の動きも重要なのに、陶山幾朗は抑留問題に深入りしていった。
 浮海啓さんの大学の後輩にあたる名古屋の六〇年安保世代のHさんから直接聞いた話では、当時の学生仲間では「沢=内村」説は通り相場になっていたそうだ。どうしてかというと、内村剛介の筆名で『日本読書新聞』に発表した文章が「褪色」の文体とそっくりだったからだ。陶山幾朗はプロの編集者で、『内村剛介著作集』も編んでいるんだから、文体は人格であるという側面も考慮したら、よかったとおもう。まあ、内村さんも吉本さんも、陶山さんも亡くなった。確かめるとしたら、もし『褪色』の原稿が残っていれば筆跡鑑定でもやるしかないだろう。おれは『試行』の発行者である吉本さんの証言は信憑性が高いと思っているけど、べつに固執するわけじゃない。
    (松岡祥男「コロナ状況下、脇地炯さんを追悼する」)

(3)への返信など
▼FAX、ありがとうございます。
 スガ秀実さんに「ご教示、ありがとうございます」とお伝えください。
 わたしはつねづね自由でオープンな姿勢に優るものはないと思っています。
 それはいろんな人の意見を尊重することにもつながっています。
 これも宍戸さんがお店を閉められてからも情報発信されているお陰です。(三月書房宛)

▼本日、京都・三月書房から同封のFAXが届きました。
 発信者のスガ秀実氏は元「日本読書新聞」の編集者ですから、きわめて信憑性は高いと思います。「内村剛介」と「沢清兵」とは別人であるという陶山幾朗さんの説を裏付けるものです。
 「日本読書新聞」の該当文章を参照すれば、スガ氏の今回の証言を確認することができるでしょう。ご活用ください。(成田昭男宛)

      (『風のたより』第29号2023年12月発行掲載)


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「三つの指摘 松岡祥男」 ファイル作成:2023.11.14 最終更新日:2024.01.09