三上治のバカ

松岡祥男

 先日、吉本多子(ハルノ宵子)さんからお便りがあり、「吉本隆明生誕100年祭」のイベントについて、全く知らなかったとのことです。北海道の写真家中島(博美)さん(『開店休業』の写真を手掛けた人)から聞いて、事後初めて知ったとのことです。
 長いつきあいなのに、三上治からは電話の一本もなかったそうです。それなのに、いろんな人を巻き込んだようで、それにも怒り、《とりあえず、味岡(←三上の本名)のヤロウのSM(ショートメール)に書き込んでおきましたが、ウンでもスンでもありません。この憤り、どこにぶつけていいのやら》と結んでありました。
 それで次のような返事を出しました。

 お手紙を読んで驚きました。
 「吉本隆明生誕100年祭」の世話人代表三上治を筆頭に〈無節操にもほどがある〉と思いました。
 多子さん(著作権継承者)に一言の挨拶も無しに、よくもこんなことができるものです。まあ、ある時期から徒党左翼は信用しないことにしていますけれど。しかし、決して無関心でも放置しているわけでもありません。
 わたしのところへは、兵庫県のM氏からパンフレット類が送られてきました。【東京の「吉本族」の一人で、元ゼンガクレン中執、中大出のMという評論家でモノ書きが仲間に声をかけ、「吉本隆明生誕100年祭」をやりたいとあたしの友人にも言ってきた。/「手伝ってくれ」とあたしに回ってきた。「政治集会っぽいのはご免こうむる」ということでウオーキングプランを提案し、本日各所に公表した。詩の朗読と室内楽のライブを真言宗寺院でやるプランも企画したが、カネがかかるので実現しなかった。/吉本族の貴君にお知らせと思って一式を送ります】という通信文も同封されていました。
 この人は3年くらい前に突然年賀状を送ってきました。それが交信の始まりです。彼のいうところによれば、元編集者で、宮下和夫の後輩とのことです。
 M氏の資料提供によって、三上治や高橋順一らの動きを知ったのですが、「4、総合テーマ いま、吉本隆明を問う」(2024年11月23日開催)のイベントの後援には「晶文社」も連なっていますので、当然、多子さんは御存じと思ったしだいです。どうやら甘かったようです。

 三上治は11月23日の集まりで、じぶんが基調講演をすると同時に、「吉本隆明生誕100年記念号」と銘打った主宰誌『流砂』第26号を会場で販売したようです。わたしはこういう徒党左翼の利用主義、便乗主義が嫌いです。
 この雑誌は一般書店では入手できません。それで摸索舎に注文しました。一応見ておこうと思って。しかし、わたしにはなんの魅力もない、必要の無いものでした。それでも捨てるよりは、「吉本隆明年譜」を手掛けている山梨の宿沢(あぐり)さんにプレゼントした方が役に立つだろうと考え、ダブらないことを確認のうえ送りました。
 まあ、三上治はあの東京・品川の24時間連続講演と討論のイベント(「いま、吉本隆明25時」1987年)において、主催者の一人になったのは良いとしても、吉本隆明がゲスト講演者として提案した寺田透、堤清二との交渉に当たっています。寺田透には全く相手にされず、堤清二には連絡をとることさえ難しいので、当時西武の仕事をしていた糸井重里の名を騙り、接近しようとしたのです。そんなことは知らない糸井さんはびっくりして、吉本さんに「どういうことでしょう」と問い合わせてきたと聞いています。
 それで二人ともボツになり、吉本さんは任せておくことはできないと判断し、じぶんで交渉し、大原(富枝)さんと前(登志夫)さんを招いたのです。
 三上治がじぶんで連れてきたのは、後にあの屑本『吉本隆明という共同幻想』を出した呉智英です。なによりも他者の名を騙るという行為が卑劣で、破廉恥です。

 ネットで検索したら、だいたいの感じが分かりました。
 亡くなった前川藤一(日本酒「横超」の販売者)の呼び掛けで、吉本さんの命日には旗を掲げて、墓前祭を毎年のようにやっています。特に2023年は参加者多数で三上、高橋、菅原則生、友人の金廣志などの姿もみえます。
 後日、「猫屋台」にも行ったのではないでしょうか。(「前川藤一ブログ」や「吉本隆明生誕100年祭」の記事などを参照)
 三上治はいまや新左翼の大物OBのうえ、やり放しが徒党左翼の属性ですから反省などしないでしょう。むしろ「集会屋」としては「ヨシモトリュウメイ」の名を称揚するためにじぶんなりに尽力したと思っているでしょう。それに対しては「馬鹿!」といえば終わりです。
 それでも始末がつかない場合は徹底的に叩く(批判する)しかありません。

 これとは別に、月村敏行提唱の「横超忌」の方は、神山睦美が主催者になって、小さな集まりを続けているようです。
 こちらも多子さんにはなんの挨拶もないものと推察します。

 わたしは基本的に岩波文庫『吉本隆明詩集』も角川文庫『国家とは何か』も、その刊行の意義を認めています。だって思潮社をはじめとするセコい、じり貧の詩壇の枠からはみだした方がいいに決まっているからです。この2冊が新しい読者との出会いの契機となれば言うことなしです。
 ただ不満をいえば、吉本さんは海(を愛する)の詩人です。それは『記号の森の伝説歌』でも変わりません。蜂飼耳の編集はそんなことには全く考えが及んでいません。愛着を持っていないからです。
 また先崎彰容の『共同幻想論』理解は表面的です。でも『国家とは何か』はいまでは入手不可能な『吉本隆明全著作集14』(勁草書房)の講演をベースにしていますので、古い読者でもある程度納得するのではないでしょうか。

 最近、萩尾望都『一度きりの大泉の話』を読みました。お読みになっていると思いますが、竹宮惠子との邂逅と訣別を語った痛切な回想記です。
 どうしても黙っていることができない時は、やっぱり萩尾さんのようにすべきでしょう。今回の場合はショートメール(警告)でじゅうぶんではないでしょうか。効き目はないとしても、一応釘を刺したということで。


 いい話もありました。《角川の若い編集さんによると、今61刷位までいった『共同幻想論』や『心的現象論序説』も、買ってくれているのは、20代、30代の人たち》とのことです。

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 高知も寒いです。7日連続、最低気温は氷点下でした。
 お便り、届きました。
 その後も、三上治からはひとことの詫びも言い訳もないようですね。きっと、そんなふうに平気な顔をしてやってきたのでしょう。
 昔、三上治の雑誌『乾坤』の発行人になっていた黒井(彰義)さんは「味岡さんは安保ブンドを総括できる人かもしれない」と、お会いした時に言っていました。それでずっと援助してきたのではないかと思います。
 雑誌の発行だって、今回のイベントだって、お金が掛かります。いろんな方面に呼び掛けてやったのでしょう。そういう意味では顔が広く、多くの人脈を持っているに違いありません。裏返すと、無責任な野合でしかないとしても、です。
 『吉本隆明が語る戦後55年』というシリーズ本をみれば分かるように、三上治や高橋順一は山本哲士とつながっています。それなのに、あの愚劣な「『吉本隆明全集』リコール」騒動については、なんのコメントもないのです。
 また「生誕100年祭」には叛旗派分裂・解体以来、反目していた神津陽も参加したとありました。まあ、みんな先がないのでここらで手打ちにしましょうということかもしれませんが、やれやれです。

   同じ元・叛旗派の菅原則生も困った人です。昨年の暮れに宿沢さんと電話で話をしていたら、宿沢さんが菅原さんと連絡がつかない。彼の携帯の留守録に吹き込んでも、手紙を出しても返事が無いといいました。前川氏が亡くなったこともありますので気になって、わたしは伊川龍郎に菅原則生の消息を訊ねました。しばらくして伊川さんから連絡が取れたという知らせがあり、菅原さんは宿沢さんにはじぶんが連絡すると言ったそうです。
 年が明けて、また宿沢さんと話をする機会があり、「菅原さんから連絡はありましたか」と聞きました。そしたら、《ありました。次の『続・最後の場所』第16号用に送った原稿を「無意味」と言われました》と宿沢さん。???です。
 わたしは菅原則生に誰か書き手を紹介してほしいと乞われて、彼を推薦しました。宿沢さんは第4号(2017年5月発行)からじぶんの入手した資料を提供するとともに、それに伴う文を寄せてきました。
▼増補改訂『吉本政枝 拾遺歌集』(4・5号)
▼吉本隆明の父・順太郎が参戦した「青島戦」のことなど(6号)
▼吉本家の掛軸の句について(7号)
▼軍人・木村千代太と日中戦争のことなど年表的に(8・9号)
▼吉本隆明が宍戸恭一に宛てた書簡+吉本和子が宍戸弘子に宛てた書簡(10号)
▼吉本隆明講演年譜(11・12・13号)
▼荒井和子の小説「女の方法」に関わって(14号)
▼荒井和子の小説「雨の降る日」解題/「吉本隆明『真世界インタビュー』付記(15号)
 今回は吉本隆明「アジア的ということ」の引用文に関する資料らしいですが、宿沢さんは「掲載しなくてけっこうです」と返信したとのことです。
 わたしは〈またかよ〉と思いました。
 菅原則生は第11号において、吉本隆明に関する著書をもつ二人の人物に原稿依頼し、寄せられた原稿をボツにしました。この一件を思い出したからです。この件ではわたしは直ぐに次のような手紙を出しました。

 菅原さん、ダメです。
 依頼した原稿は、じぶんの意に添わなくても、どんなに稚拙なものであっても、掲載しなければなりません。
 それが原理・原則です。

 依頼した原稿を受け取り、それが思わしくなかった場合は、もう一度推敲してください、あるいは原稿量(字数)を絞り込んでください、ということはできます。それに沿って書き直されたら、当然掲載します。
 またそういう申し出をして、筆者が「できません」といい、「取り下げる」と言った場合は、それなら「最初の原稿を載せます」と言わなければなりません。

 投稿の場合は、主宰者の判断で採否を決定できます。
 また同人誌や仲間内の雑誌ならば、メンバー同士の相互了解のうちに採否を決めることができるでしょう。それによって仲違いになったとしても。
 また、わたしのような寄稿者の時は、冗談ではなく、今回は出来が悪いのでボツにしますというのは可能ですし、具体的に指摘し書き直してくれということもできます。依頼ではないからです。

 商業誌の場合でいっても、原則として依頼原稿のボツはありえません。どうしても紙(誌)面に不都合で掲載できない時は、理由を述べて謝罪のうえ、原稿料(労賃)を支払うことになっています。

 この鉄則を崩し、依頼したにも拘らず、原稿の出来不出来で判断しますと、専制主義・能力主義・機能主義に堕することになります。
 これは少なくともわたしの流儀には反します。

 どんな場合でも、依頼した以上は掲載するしかないのです。なぜなら、その人の文章を読んだうえで、原稿を依頼しているからです。(この節、一部削除)

 わたしも『吉本隆明資料集』の挿入の「猫々だより」で、原稿依頼してきました。ごく稀に、気乗りしないものもありましたし、批判や反感を持ったものもありました.。それでも、全部掲載しましたし、ある段階まで(経済的に逼迫していなかった時まで)は、同等に原稿料を出しました。

 わたしは、菅原さんにどうしろと言う権利はありませんけれど、この原理・原則は大切ですので、お伝えするしだいです。


 これに対して、まっとうな応答はなく、事実上の絶交通告がありました。
 こんな利用主義的な、恣意的編集が通用するはずがありません。じぶんの政治的主張(立場)を前面に出して、思うままにやりたいのなら、誰も誘うことなく、一人でやればいいのです。こういう所業を〈徒党左翼〉というのです。一般大衆よりじぶんは偉いという思い上がりから脱することができないのかもしれません。わたしたちは客観的には大衆の一人であっても、それぞれが人生の主人公なのです。

 一方、月村敏行・神山睦美・脇地炯・齋藤愼爾・高橋忠義・田村雅之を発起人とする「横超忌」は、脇地さん、月村さん、齋藤さんが亡くなり、神山睦美が続けているようです。2024年度は米沢慧がなんと『隆明だもの』についてレクチャーしたようです(笑)。

 ロシアのウクライナ侵攻の長期化、イスラエルのガザ大虐殺、強欲トランプ大統領復活という〈逆行の時代〉にあって、オープンな姿勢と透徹した世界認識が求められているのに、残念なことに〈なんじゃ、そりゃあ〉という振舞いが横行しているのです。


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「三上治のバカ 松岡祥男」 ファイル作成:2025.03.01 最終更新日:2025.03.01