宮下和夫さんのことなど

松岡祥男

 宮下和夫さんが二〇二二年二月一〇日に亡くなったと、論創社の森下紀夫さんが伝えてくれた。
 いろいろあったけれど、川上春雄さんと宮下さんの存在なくして、今日のおまえはないだろうな。
 うん。おれが吉本隆明の読者になる決定的な契機となったのは、『吉本隆明全著作集1 定本詩集』と『敗北の構造』(一九七二年一二月刊)だ。それと同時に、宮下さんの存在も大きく迫ってきた。それで吉本隆明『言葉という思想』(一九八一年一月刊)まで、弓立社の本は全部購入していた。本に挿入されていた「風信」という通信も、出版に関するいろんなことが分かって、とても啓蒙された。いまでも手許にあるよ。
 小山俊一『EXーPOST通信』や松岡俊吉『吉本隆明論』といった一般の出版社は手掛けないようなものを出していたからな。
 憧れの出版社だったね。いつかじぶんの本が出るような奇蹟的な事態が起これば、弓立社がいいなあと思っていた。最初の齟齬は、吉本さんが一九八〇年に高知へ講演に来られた時だった。宮下さんも同行していて、わたしたちの集まり(「吉本隆明さんを囲む会」)に参加させてくれという申し出が間接的にあった。でも、この時いろいろトラブルつづきで断わってしまったんだ。それをおれはずっと申し訳なく思っていたよ。でも、一九八七年の東京・品川の「いま、吉本隆明25時」あたりから、ちょっと違うんじゃないかと思うようになった。 猫 おまえは「高知」でも「25時」でも見掛けただけで、話をしたことはなかっただろう。
 一度だけ、会ったことがある。会社を訪ねたんだ。一時間くらい話した。それから、交流がはじまった。四国の宇和島から清水幾太郎のいた学習院大学へ入学したことを誇りに思っていて、結構プライドが高かったような気がする。徳間書店を経て、一人で弓立社を立ち上げた。
 それまでもさまざまなことがあっただろうな。広島のデモで逮捕されたり、会社で孤立し精神的に不安定になり入院したり。
 宮下さんは手前勝手の人で、「勤務中の会社には電話はしないでくれ」と言ったけれど、全く無視で、じぶんの用件がある時はいつでも会社へ電話してきた。もちろん、その都度ちゃんと対応したけれど、困った人だとおもったよ。電話ということでいえば、詩人の山本かずこさんからかかってきた時、電話を取り継いでくれた事務のTさんが駆けつけてきて「あの人は、松岡さんのなんですか」と聞いた。どうしてかというと、山本さんの声がとても魅惑的で、素敵だったからだ。
 おまえ、なんと答えたんだ。
 「友達の奥さんです」と言ったよ。宮下さんは晩年、だんだん認知症の傾向が強くなっていった。いろいろ助言しても、その時は分かりましたというんだけど、それが更新登録されず、元の考えとやり方に戻ってしまう。思い込みの強さもあったんだろうけど。例えば筑摩書房の『吉本隆明〈未収録〉講演集』や論創社の『吉本隆明質疑応答集』でいえば、おれは「テーマ別の編集でなく、編年体にすべきです」と何度も言ったけれど、結局は聞き入れなかったからね。
 どうしようもねえな。宮下和夫・築山登美夫による『質疑応答集』(全七巻)は築山の死去によって三巻で中断したんだけど、おまえが新たな校閲者に菅原(則生)さんを推薦し、年代順の『全質疑応答』(全五巻)として継続刊行されることになったんだよな。
うん。おれは宮下さんのことで、いまでも怒っているのは『「反原発」異論』の巻頭に副島隆彦を起用したことだ。これは五〇年以上、吉本隆明に伴走しながら、肝心なことが分かっていなかったんじゃないかと疑わせるものだ。あの中で副島隆彦は、糸井重里を吉本思想の背反者のごとく言っている。冗談じゃない、副島の口先だけのおもねりと違って、糸井重里は物心両面に渉って応援し、交際してきたんだ。副島などの出る幕じゃない。
 糸井重里の凄いところは、後を振り返らないところだな。じぶんのやってきたことに依存しない。つねに現在に立っている。ふつうなら、じぶんにはこういう実績があり、その蓄積によって、いまのじぶんがあるというふうに振舞がちなのに、そんなことはおくびにも出さず、いまやりたいこと、いま出来ることに専念してきた。それは吉本隆明とも根底で通じるものがある。吉本隆明はじぶんが書いたものなど手許に残していなかった。著書に未収録のものは雑誌を破り取って、段ボールに放り込んであったらしいけど、本に収録されたら終わり。原稿も無ければ、いつどこで講演をしたかも分からない。
 それを宮下さんは追跡し蒐集して、本やCDにしてきたんだ。その恩恵は吉本隆明の読者にとっては量り知れないものがあった。糸井重里のことをいえば、彼もさすがに七〇代半ばとなり、日本経済新聞(二〇二二年二月六日)の取材記事で、過去を振り返っていたよ。漫画家になりたくて上京し、法政大学に入学。学生運動に巻き込まれて、佐世保のエンタープライズ寄港反対闘争などに参加したけれど、「人を脅して動かす」運動のやり方が嫌になり、大学を中退し、その関係者から身を隠すため帰郷した、と珍しく回顧していた。
 なにごとも足を洗うのは大変だからな。新左翼のセクトも所詮、大学の自治会のあがりと、カンパ、ゆすりとたかりで、活動資金を得ていただけだからな。あとあとまでつきまとわれる、よく振り切ったと思う。ここが糸井重里の決定的な結節点だろうな。
 特に印象に残っているのは、村上春樹との共著『夢で会いましょう』、NHKの「YOU」の司会、萬流コピー塾、ほぼ日、『となりのトトロ』の父親の声も良かったね。インタビューアとしての力量は他の追随を許さないくらい優れていて、多彩だ。
 「ペンギンごはん」なんていうのもあったからな。『ガロ』二〇年史である『木造モルタルの王国』だって、かなり寄与している。稼ぎになろうとなるまいと、気乗りすることは率先してやってきたに違いない。そこが渋谷陽一との違いだろうな。渋谷のインタビューってのは、皮肉が混じりじぶんの思惑に引き込もうとするところがあるからな。渋谷陽一がもっとも輝いていたのは、NHKのFMで一日ぶっ通し、ジョン・レノンの追悼番組のDJをやった時だ。また高知で親鸞についての講演会もやっている。二人は関心の共通性もあり、競合することが多いけれど、微妙に異なる。それが「ほぼ日」と「ロッキング・オン」の差異といえるんじゃないか。二人ともおまえとは掛け離れた存在だ。
 ただ、器量の乏しいおれが言うのもおかしいことだけど、堀江貴文がライブ・ドア事件で叩かれたとき、あるインタビューで吉本隆明は疑義を呈して、ほんとうに法を犯したといえるのか疑問だといい、堀江貴文のところには人が集まる、それがライブ・ドアの他の幹部とは器量の差だといい、投獄された堀江貴文の復活を予見していたからね。宮下さんは学生の頃、深夜叢書社(齋藤愼爾や尾形尚文)と交際したけれど、「近づくほどに、出鱈目さが分かり、喧嘩別れをし、いくつもいやな記憶が残った」って、書いた。こういうところが宮下さんの独善的なところだ。そんなことは、たぶんお互い様で、人さまざまだ。おれは妻を連れて、東京へ出て、物書きみたいものを目指す体力も知力もないから、そんな考えは初めから持たなかった。上京して生活の糧を得るのは、誰だって困難を伴うからだ。
 間違いなく、潰れていただろうな。考えることや書くことはどこでもできる。しかし、世に出るとなれば、関西でいうところの「東へ」行かないとダメだ。そこが出郷者と地着きの者との異なるところだろうな。でも、おまえだって、宮下和夫のことを批判してるだろ。
 そうだけど、弓立社の『心とは何かー心的現象論入門』の宣伝文はこうだ。「心の神秘をさぐる。大著『心的現象論』を読まずとも、本書でその核心がわかる」。こうなるといくらなんでもと思うじゃないか。
 それで黙っているわけにはいかないということか。
 そうさ。こんな言い方は、著者が長い時間をかけて 思索を深めてきたプロセスをないがしろにするものだ。「入門」と銘打ちながら「読まずとも」というのは、〈著者〉に対しても〈著書〉に対しても無礼千万じゃないのか。外野の野次馬ならいざ知らず、掲載誌の発行事情も、もっとも力を注いだものを発表するという著者の志向性も熟知しているはずなのに、こんなことを謳い文句にしているんだ。「まあまあ」で済ませることはそれでいいと思うけど、おのずと限界値というものがあるだろう。
 追悼のつもりが、追い討ちになってきたぜ。
 宮下さんは吉本隆明でいえば『自立の思想的拠点』を皮切りに、主なものを列挙しても講演集の『情況への発言』、『敗北の構造』『知の岸辺へ』『言葉という思想』『超西欧的まで』、記録集『いま、吉本隆明25時』。『吉本隆明全講演ライブ集』『〈未収録〉講演集』。それから島尾敏雄、橋川文三、上村武男、矢野武貞、宮城賢、加藤典洋なども手掛けている。もちろん、おれはその殆どにつきあってきた。その業績は揺るぎないものだ。
 それでいい。乖離や批判はそれとしてあってもな。本来的にいえば、講演とその直後の質疑応答とはひとつのものだ。切り離すことはできない。出版業界の慣習からいけば、講演後のやりとりは付随的なものと見做されて、抹消されてきた。そういう意味でも「ほぼ日」の吉本隆明「183の講演」のインターネット上の無料公開の意義は大きいな、ライブのまま残っているから。
 おれは活字派だからね、聞くより読む方が分かり易い。学校の授業だって、ろくに聞いてなくて、あらぬことばかり考えていたような気がする。
 それは違うだろ、おまえは画をみながらストーリーを追う、マンガ派だ。
 『全質疑応答III』が刊行された。その巻頭の「過去の詩、現在の詩」の質疑応答を読んで、これだけでこのシリーズの意義はあったと思った。これも言い出しっぺの宮下さんのお蔭だ。

  もはやそれ以上何を失おうと
  僕には失うものとてはなかったのだ
  河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
  流れてゆくばかりであった

  かつて僕は死の海をゆく船上で
  ぼんやり空を眺めていたことがある
  熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
  じっと坐っていたことがある

  今は今で
  たとえ白いビルディングの窓から
  インフレの町を見下ろしているにしても
  そこにどんなちがった運命があることか

  運命は
  屋上から身を投げる少女のように
  僕の頭上に
  落ちてきたのである

  もんどりうって
  死にもしないで
  一体だれが僕を起してくれたのか
  少女よ

  そのとき
  あなたがささやいたのだ
  失うものを
  私があなたに差上げると
                (黒田三郎「もはやそれ以上」)

 いまではふつうの平明な文脈にみえるけど、やっぱり画期的な表現だったに違いない。おそらく黒田三郎は破滅的な気分を抱きながら、戦後の荒廃を彷徨してきた。死線をくぐった体験とその後遺症としての死の影にまといつかれていたはずだ。それでも、よく抑制した落ち着いた詩行に定着している。
 吉本隆明はその黒田三郎について、次のように述べている。

 本質的な詩人っていうのは、必然的に市民社会あるいは市民社会の意識にたいしてアンチだけど、ヨーロッパにおけるアンチ秩序・アンチ社会としての詩人は、市民意識なんていうものはいちおう腹の中に入ってて否定してるわけです。あるいは成熟した背景があって、それを否定してるわけです。ところが、日本の近代詩人というのは、そうじゃないんですよ。社会にたいして、初めからひねくれた態度でいくわけですね。黒田さんはそれにたいして、初めて市民意識というものを詩の中に確立した。大多数の何でもない人たち、社会秩序を否定も肯定もしないけれど、偉そうなこともいわない人たち、そういう生活人の生活意識は非常に重要だということを初めていった人です。そして、そのことをいつでも心の中で踏まえて詩の表現をした人です。そういう表現の仕方を初めて確立した人だと思います。それは恋愛詩にかぎらなくて、ほかの詩にかんしてもそうだと思いますね。そのことが黒田さんの意味・意義、オリジナリティーじゃないでしょうか。僕ならそういう追悼文を書きますけどね。
                 (吉本隆明講演「過去の詩・現在の詩」質疑応答)

 これを読んで、ずいぶんすっきりしたよ。黒田三郎の死に際しての鮎川信夫と北川透の批判やそれに付随した月村敏行の吉本隆明への言いがかりも、その足元から崩れたような気がした。また小林秀雄否定の根拠も明確に示されている。日本の状況やアジアという歴史的現実を踏まえない言説は、主観性の枠に密封されることになり、著しく客観性を欠いたものとなるということだ。時代背景を抜きに、小林秀雄の批評を超越的な作品と錯覚し、純粋な言語芸術と見做すのは錯誤だ。前田英樹みたいな主知主義者にはそれが理解できないんだ。
 おまえは坂井信夫からのはがきに対して、「おれの売りはパンクなんだ」と言ってるが、パンク・ロック一般の話じゃなくて、なにを指してそういうのか、示すべきだ。
 そんなの、簡単だよ。おれは一九八三年に「脱思想の末路」という高知県みどりの党批判を書いて『同行衆通信』一〇号に発表した。これは当時の情況を全身で受け止め、真っ向から発言したものだ。これはおれの中で屹立している。たとえ雑文のひとつとして遇されても、あれはどこへ出しても通用すると思っているよ。
 もうひとつ、おまえは詩が書けなくなったのは「自然発生的な書き方から意識的な書き方に転換すべき段階」と恰好つけたことを言っているが、実際のところはどうなんだ。
 それは奥村真さんの依頼で『邑』三号に「どぶ泥エレジー」というのを書いたんだけど、詩でもなんでもないゴミだ。このとき「これはダメだ」と思った。そこから、この詩作の壁を打ち破るよりも、しっかりした散文を書くように努めてきたんだ。
 文筆のモチーフはともあれ、〈出来栄えが全て〉というのが読者の正しい評価だからな。おまえ、若い頃にカール・マルクスの著作を少しは読んだだろう。
 もっとも感銘を受けたのは『経・哲草稿』だね。『資本論』第一巻も一応とりついたけど、到底理解しているとは言い難い。それでも〈商品〉の中に使用価値と交換価値を見いだし、価値法則を解明したというくらいは分かっているつもりだ。貨幣が商品より先にくることはない。また、土の上であろうが、白紙の紙であろうが、すべて対象的自然であって、本質的な差異はない。地面に絵を画こうと、紙の上に字を書こうと、対象化行為といえる。そこに価値が生まれる。そんな基礎認識を得たくらいだね。地面を選ぶか紙を選ぶかは、その段階で既に主体の選択性だ。
 もうひとついえば、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる動きをみていると、マルクスが指摘したように、社会総体をピラミッド型の構造体と見做せば、国家はその頂点にある幻想共同体だとつくづく思ったな。その観念性がリードする。だから、いかなる場合も〈首都〉を攻略し、政権を打倒すれば勝利したことになる。それがセオリーだ。プーチンのウクライナを「ネオナチ」などと規定する途方もないプロパガンダには開いた口が塞がらない。第一にウクライナはロシアを攻撃したこともなければ、国内においてもナチみたいに、ユダヤ系やロシア系住民を虐殺した事実も聞いていない。
 なんの場合もそうだけど、おのれの姿と思惑を相手に投影するんだ。プーチンは自らのファシズムをウクライナに当て嵌めているだけだ。いまや、NATO側のウクライナへの武器供与とロシアへの中国の援助によって、泥沼化したベトナム戦争のように「東・西対決」の戦場と化しつつある。それぞれの幻想共同体とその連合勢力の角逐といえる。幻想共同体、つまり国家(政府)が消滅しても、社会は残る。ウクライナはロシアの侵攻に抗戦し撃退するしかないことは分かるが、それ以上に住民を救うことを優先し、停戦を模索すべきじゃないのか。長引けば長引くほど、街も村も破壊され、人命は失われ、惨状は拡大するばかりだ。むろん、悪いのは仕掛けたプーチンに決まっているが、傷つき疲弊するのは、戦渦の大衆とその地域なのだ。ロシア側の死傷者だって半端じゃないはずだ。兵士が死んだって、プーチンは平気かもしれないが、死んで英雄と祀りあげられたって、そんなもの戦死者にとっては名誉でもなんでもない。神のもとに召され、天国で優遇されるのなら別かもしれないがな。浮世の相場じゃ「死んでしまえばそれまでよ、生きているうちが花なのね」だけどな。
 ロシアのウクライナ侵攻については、基本的な認識を示せば、無力なじぶんとしては、あまり言うことはない。それでも、ニュース映像をみていて、思ったことはある。まずは焼夷弾が格段に破壊・殺傷力があがっていること。また使用禁止兵器となっているクラスター爆弾が使われたこと。この使用禁止条約に際しては、日本政府は既にクラスター爆弾を購入していて、日本が侵略された際、敵の上陸を阻止するために必要だと主張し、禁止条約に賛同しなかった。みんな、ご都合主義なのさ。
 そうだな。レーニンらのロシア革命の際、日本をはじめとする当時の列強各国は、この混乱につけ込むべく、ロシアへ侵入しようとした。しかし、シベリアの冬将軍の前に撤退を余儀なくされたんだ。それでも、日本軍はいちばん最後までモスクワを目指した。政府のいまのウクライナ支援だって、アメリカとNATOへの追従でしかない。それに加えて、戦争ということを寄ってたかって誤魔化している。ロシアの兵士が特に野蛮で粗暴なわけじゃない。破壊、虐殺、略奪、強姦なんでも有りが〈戦争〉なのだ。わしが兵士だったとしても、やるだろう、周りは全部敵で、死と隣り合わせなんだから。そんなことは、かつて日本がやったこと、またやられたことを引き寄せれば、すぐ分かることだ。
 人間はそんなに上等な存在じゃないからね。あらゆる動物的要素を内在的に含んでいる、欲望から残虐性まで。それに戦争そのものが、共同の迷蒙と狂気の現れだ。もっといえば、プーチンを筆頭に政治支配者というのは戦争が好きなのさ。軍隊を動かして、最新兵器を駆使し、全世界を制覇したいという倒錯の野望を持っている。それは人の上に立とうとする権力欲に根差すものだ。人類がそれを克服するかどうかは保証の限りじゃないさ。島田虎之介に『ラスト・ワルツ』(青林工藝舎・二〇〇二年刊)という作品があるだろう。あれにKGB時代のプーチンが登場する。島田虎之介は的確にプーチンの本質を捉えている。
 あのマンガはおもしろい。いまだに古びていない。なかでも「モントリオールの聖アレクサンダー」は傑作だ。アレクサンダー・ボグダーンはチェルノブイリの原発事故の消火活動に当たった消防士の一人だ。伝説の「七聖人」といわれ、ただ一人生き残ったという。

 風は
 かしの森の上で
 吹き騒ぎ
 野面を渡る
 路傍の細いポプラは
 地面に
 つくほどに
 身を
 曲げている
 ぽつんと一本だけ生えたポプラ

という『シェフチェンコ詩集』の詩を使って、歴史を寓意化し、ヒロシマの象徴化の空虚と詐欺的所業も否定している。法螺話ゆえに、逆説的に真実を示唆することもあるんだ。それが表現行為の優位性だ。
 登場人物の一人「芸者ガール」は、アレクサンダーは「死んでたのよ とっくの昔に死んでたのよ その人が広島に招かれた理由… あのロシア人 宣伝に利用できると思って」と、その偽善性を看破する。またロシア認識においても卓抜だ。島田虎之介の作品は、この『ラスト・ワルツ』『東京命日』『トロイメライ』を読んだけど、やっぱり処女作の『ラスト・ワルツ』がいちばん優れているね。作品の構成の仕方からいって、たぶん映画監督を志していたんじゃないかとおもう。
 まあな。この作品の良さはそんなところだけじゃないな。作者がところどころ登場して、狂言廻しの役を果たしているが、「世の中にはひと目会ったその瞬間、恋をせずにはいられない女性という厄介なものが存在するのです だからボクはキケンを避けるために いろんな口実で極力会わないようにしている」、彼女は人妻で、サッカーチームの仲間内では、「なんであんな男と?」「声に出して言うな」など囁かれている。よくある話だけど、そういうところもしっかり踏まえた、歴史にまつわるマンガによる円舞曲だ。
 河出書房新社から『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』が刊行された。このムックの半分は『吉本隆明 詩人思想家の新たな全貌』(二〇〇四年刊)と『さよなら吉本隆明』(二〇一二年刊)の再録だ。新しく収録されたのは、鹿島茂と小峰ひずみの対談、安藤礼二の「入門」に、瀬尾育生ら五人の論考などだ。この編集に文句を言っても仕方がないけど、ただ次のような鹿島茂の発言は黙って見過ごすわけにはいかない。

 僕が吉本を読み出したのは高校生のときですが、本格的に入れ込んだのはやはり大学に入ってからです。吉本は一九六〇年の第一次安保闘争の後、『言語にとって美とはなにか』の執筆に専念し、しばらくは論争的文章を書きましたが、その後、長い沈黙があり、われわれが大学で一九六八年にゲバ棒を持って騒いでいた頃にはほとんど何も発言してなかったと記憶しています。われわれは、民青=日共との対峙のなかで一九六〇年の安保闘争の総括である「擬制の終焉」をわがことのように読みながら、どんなことでもいいから吉本の情況への発言を聞きたいと思っているのに、一言も言わない。そんな中で突然出てきたのが『共同幻想論』でした。
 (鹿島茂・小峰ひずみ「吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」鹿島茂発言)

 調子に乗って、よくもまあ、こんなことが言えるものだ。
 鹿島茂は一九四九年生まれ。東京大学入学はおそらく一九六七年あたりだ。その当時、鹿島茂は自分に忙しく、吉本隆明の声が映っていないだけだ。馬券買ってレースに夢中の者に声を掛けても聞こえないようにな。それは致し方ないことだ。しかし、それから半世紀以上経っているのに、「長い沈黙」「一言も言わない」などというのはデマゴギーに等しい。  先日、二〇年の刑期を終えて出所した重信房子の姿を見て、「ほんとうによく闘ったな」とおもった。わしは赤軍派に同調しないし、彼らの活動を支援したこともないけれど、その闘いはみてきた。中卒のじぶんの身すぎ世すぎや、あの時代の体験を重ね合わせるようにして。その信頼度は鹿島茂や内田樹などとは較べものにならない。
 鹿島茂は、宮下和夫の手掛けた講演集『情況への発言』(徳間書店)を無視している。これを抜かすと、吉本隆明の六〇年代後半の状況との関わりが見えないことになる。また鹿島茂は怠慢で、おそらく『吉本隆明全著作集14 講演対談集』(勁草書房)も『吉本隆明全質疑応答 I 1963〜1971』(論創社)も読んでいない。これらを参照していれば、自らの間違いに気がついたはずだ。そこで講演を中心とした「年譜」を掲げることにした。

一九六七年昭和四二年・四三歳
 一月一日 「《共同幻想論》三 巫覡論」 『文藝』一月号
 一月八日 講演録「情況とは何か」 『同志社評論』創刊号(講演日・一九六六年一〇月三〇日)
 二月一日 「《共同幻想論》四 巫女論」 『文藝』二月号
 二月一〇日 講演録「「国家幻想と大衆のナショナリズム」上」 『梁山泊』巻之五別冊付録(講演日・一九六五年一一月二一日)
 三月一日 「《共同幻想論》五 他界論」 『文藝』三月号
 三月六日 講演「天皇制について」主催・出版研究会 会場・(株)文藝春秋の会議室
三月一〇日 『試行』第二〇号発行。
 四月一日 「《共同幻想論》六 祭儀論」 『文藝』四月号
 四月一日 対談「どこに思想の根拠をおくか」(対談者・鶴見俊輔) 『展望』四月号[鶴見俊輔は「ベトナムに平和を!市民連合」の提唱者]
 四月二八日 講演「「共同幻想論」について」 主催・埼玉大学教養学部学友会 埼玉大学新入生歓迎講演会 会場・同大学
六月一〇日 『試行』第二一号発行。
 九月五日〜一〇月三日 講演 東京YMCAデザイン研究所・一般教養における講演四回ほど・内容不明 会場・同研究所
 九月二五日 『試行』第二二号発行。
 一〇月八日 佐藤栄作首相は、この日、南ベトナムをはじめとする東南アジア・オセアニア諸国に出発。これに対し、この二日前の六日、日比谷野外音楽堂で開かれた「佐藤訪ベト阻止全学連統一集会」に参加した三派全学連(中核派、社学同、社青同解放派)、革マル全学連、反戦青年委員会などは、抗議デモを敢行。第一次羽田闘争。この衝突で中核派に所属の京都大学生の山崎博昭死亡。
 一〇月一二日 講演「現代とマルクス」主催・中央大学学生会館常任委員会 会場・中央大学学生会館六〇二号
 一〇月一四日 講演「文学の役割」主催、場所、内容不明 立教大学における講演
 一〇月二一日 講演「国家論No.2ーナショナリズム」主催・早大独立左翼集団 会場・早稲田観音寺
 一〇月二四日 講演「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」主催・東京大学三鷹寮委員会 東京大学第一七回教養学部三鷹寮祭における講演 会場・同三鷹寮
 一〇月三〇日 講演「自立的思想の形成について」主催・岐阜大学文化祭実行委員会 会場・岐阜商工会議所 討論会(出席者・竹内良知、いいだもも、吉本隆明)
 一一月一日 講演「調和への告発」主催・明治大学駿台祭二部実行委員 明治大学第八六回駿台祭における講演 会場・同大学新学館五階ホール
 一一月二日 講演「個体・家族・共同性としての人間」主催・東京医科歯科大学新聞会 東京医科歯科大学第一六回お茶の水祭における講演 会場・同大学
 一一月四日 講演「思想の自立とは何か」主催・立正大学研究会連合事務局 立正大学橘花祭における講演 会場・同大学
 一一月五日 講演「下降からの上昇 ー詩的論理にみる思想の発掘」主催・早稲田大学早稲田祭実行委員会 早稲田大学早稲田祭における講演 会場・同大学大隈講堂
 一一月一一日 講演「幻想ーその打破と主体性」主催・愛知大学愛大祭本部 愛知大学第二一回愛大祭における講演 会場・同大学豊橋校舎九号館
 一一月一二日 講演「再度状況とはなにか」共催・京都大学文学部学友会十一祭準備委員会、「光芒」同人会、映演連 京都大学第九回十一月祭記念講演における講演 会場・同大学法経四教室(朝)
   一一月一二日 講演「幻想としての人間」主催・花園大学新聞会花園大学本館落成記念講演における講演 会場・同大学(昼)
 一一月一二日 佐藤首相の訪米にたいする抗議デモで、警官隊と衝突。第二次羽田闘争。
 一一月一四日 講演録「現代とマルクス主義(上)」(原題「現代とマルクス」) 『中央大學新聞』第八〇八号(講演日・一〇月一二日)
 一一月二〇日 講演録「個体・家族・共同性としての人間」 『医歯大新聞』一一月号(講演日・一一月二日)
 一一月二〇日 講演録「再度情況とはなにか」 『京都大学新聞』第一三五三号(講演日・一一月一二日)
 一一月二一日 講演録「現代とマルクス主義(下)」 『中央大學新聞』第八〇九号(講演日・一〇月一二日)
 一一月二一日 講演「人間にとって思想とは何か」主催・國學院大學文芸部 共催・國學院大學文化団体連合会 國學院大學第八五回若木祭における講演 会場・同大学四一二番教室
 一一月二六日 講演「幻想としての国家」主催・関西大学学生図書委員会 関西大学千里祭における講演 会場・同大学
 一二月九日 講演「二葉亭と漱石 ー現代における文学の二つの側面」主催・京浜詩の会 京浜詩の会第七一回例会における講演 会場・川崎市・太田綜合病院講堂
 一二月一四日 講演録「幻想としての人間」 『視点』創刊号(講演年月日・一一月一二日)
 一二月三〇日 『試行』第二三号発行。
一九六八年昭和四三年)  一月一七日 講演録「自立的思想の形成について」 『岐阜大学新聞』第一六四号(講演日・一九六七年一〇月三〇日)
一月二三日 アメリカ原子力空母、佐世保に入港。連日の学生・市民の抗議行動。
 三月七日 講演「高村光太郎について ー鴎外をめぐる人々ー」主催・文京区立鴎外記念本郷図書館 第一九回「鴎外をめぐる人々」における講演 会場・同図書館
四月二日 父・順太郎死去。[父親の病気が「共同幻想論」の雑誌連載の中断の主因と思われる]
四月三〇日 『試行』第二四号発行。
 五月一日 対談「現代の文学と思想」(対談者・高橋和巳) 『群像』五月号[高橋和巳は全共闘運動に対する最大の理解者]
 五月一九日 フランスの「五月革命」
   この月のはじめ、大学の学生のデモが多発、凱旋門の占拠もあり、警官隊との衝突は激しくなる。一三日にはパリの学生と労働者がゼネラル・ストライキを決行、一九日にはフランス全土に拡大した。  七月二五日 講演「自立的思想形成のために」主催・東京都世田谷社会研究会 会場・不明
 八月一〇日 『試行』第二五号発行。
 八月一五日 『情況への発言 吉本隆明講演集』(徳間書店)
   安保闘争後八年の情況論。一七講演収録。
 八月二〇日 ソ連軍、チェコスロバキア侵入。チェコ民衆は非挑発的抵抗運動で闘う。
 九月一日 「学生について」 『新刊ニュース』第一五三号[吉本はいろんな大学で講演した感想を述べている]
 九月一日 鼎談「芸術と現代 ーわれわれにとって映画とは何か」(吉本隆明・石堂淑朗・小川徹)『映画芸術』九月号[講演に臨む姿勢について語っている]
    一〇月一日 対談「思想と状況」(対談者・竹内好) 『文藝』一〇月号[竹内好は魯迅から毛沢東にいたる日本における中国文学の第一人者]
 一〇月一四日 講演「共同体論」主催・内容等不明 会場・東京大学駒場
 一〇月一六日 講演「現代政治過程における我々の自立とは何か」主催・駒沢大学新聞会 社会学会共催 駒沢大学大学祭講演会における講演 会場・同大学八号館〇五〇教場
 一〇月二一日 米軍ジェット燃料タンク輸送に抗議行動。騒乱罪適用。
 一一月二日 講演「北村透谷と近代」主催・早稲田大学早稲田祭実行委員会 早稲田大学第一五回早稲田祭における講演 会場・同大学大隈講堂
 一一月三日 講演「現実存在としての我々」主催・上智大学ソフィア祭実行委員会 上智大学創立五五周年、ソフィア祭記念講演会における講演 会場・同大学沚館講堂
 一一月九日 講演「新約書の倫理について」主催・フェリス女学院大学大学祭実行委員会(学生) フェリス女学院大学「大学祭」における講演 会場・同大学三四三教室
 一一月一五日 講演録「現実存在としての我々」 『上智大学新聞』第二一四号(三日の講演記録)
 一二月一日 『試行』二六号発行。
 一二月五日 『共同幻想論』(河出書房新社)
   収録内容・序(一部に『ことばの宇宙』インタビュー「表現論から幻想論へ」再録)/ 禁制論/憑人論/巫覡論/巫女論/他界論/祭儀論(以上『文藝』初出)/母制論(以下書下し)/対幻想論/罪責論/規範論/起源論/後記
  ▼この年、講演「言葉について」 主催・日本大学文理学部 場所・日本大学桜上水の校舎 日時・内容等不明。
一九六九年昭和四四年
 一月一七日 講演「大学共同幻想論」主催・中央大学全中闘カリキュラム部・学生会館管理運営委員会 中央大学自主講座における講演 会場・同大学学生会館
 一月一八日〜一九日 東京大学の安田講堂などを占拠している学生を排除するため、加藤一郎東京大学総長代行が警視庁に機動隊を要請、八〇〇〇人以上の機動隊は大量の催涙ガス弾を投入する実力行使により封鎖を解除。
 二月一〇日 講演録「新約的世界の倫理について」 『パイデイア』第四号(講演日・一九六八年一一月九日)
 二月一七日 講演「詩とことば」主催・テック言語教育事業グループ 一九六八年度言語科学公開講座における講演 会場・渋谷区カスヤビル
 三月一日 連載・「情況1 収拾の論理と思想の論理」『文藝』三月号[この論稿で加藤一郎や丸山真男を徹底批判]
 三月一日 講演録「大学共同幻想論」 『情況』三月号 中央大学自主講座における講演(講演日・一月一七日)
 三月一三日 講演「自立と叛逆の拠点」主催・中央大学全中闘カリキュラム部・学生会館管理運営委員 三・十三中大闘争報告集会における講演 会場・神田共立講堂
 三月二五日 『試行』第二七号発行。

 これをみれば、鹿島茂の思い込みによる〈誤認識〉は明白だ。吉本隆明は紛争中の大学に出向き、直接学生たちに語りかけている。なにが「長い沈黙」だ、どこが「一言も言わない」だ。
 吉本隆明はまだ江崎特許事務所に勤めていて、隔日勤務の間に講演に行っている。しかも、自家発行の『試行』をほぼ季刊ペースで続けながらだ。一九六七、八年の二五講演のうち、二一講演は大学(関係)なのだ。それは学生との激しい応酬を伴ったもので、國學院大学の場合のようにセクトの妨害に直面し、吉本隆明は演壇を下りて学生の胸ぐらをつかみ、殴り合い寸前になったこともある。講演の主な基調は鶴見俊輔・小田実らのベ平連運動の批判、エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』をはじめとするマルクス主義批判など、情況を真正面に見据えたものだ。
 もうひとつ重要なことをいえば、『試行』二〇号(一九六七年三月)と『試行』二七号(一九六九年三月)のふたつの内村剛介との往復書簡による「情況への発言」を、鹿島茂は全く考慮に入れてない。これは中共の「文化革命」をめぐるもので、当時の全共闘運動は少なからず中国の文化大革命と毛沢東思想の影響を受けている。その思想を批判したものだ。当時の思潮でいっても、竹内好、武田泰淳、橋川文三、高橋和巳などはもとより、『試行』創刊同人の谷川雁も中国を尊重していた。

  いなずまが愛している丘
  夜明けのかめに

  あおじろい水をくむ
  そのかおは岩石のようだ

  かれの背になだれているもの
  死刑場の雪の美しさ

  きょうという日をみたし
  熔岩のなやみをみたし

  あすはまだ深みで鳴っているが
  同志毛のみみはじっと垂れている

  ひとつのこだまが投身する
  村のかなしい人達のさけびが

  そして老いぼれた木と縄が
  かすかなあらしを汲みあげるとき

  ひとすじの苦しい光のように
  同志毛は立っている
                  (谷川雁「毛沢東」)

 鹿島茂自身がどうだったかよりも、この流れの果てに連合赤軍へ至り、新左翼間の殺し合いの内ゲバを経て、学生運動は衰退したんだ。また、この中には東大全共闘の最首悟への批判も含まれている。それについても知らん顔だ。小峰みたいなかけ離れた世代の者は騙せても、同時代を生きたものを欺くことはできはしない。そうだからといって、鹿島茂の吉本隆明への言及を全否定するつもりはないけどね。
 鹿島茂は自分のことに目がくらんでいるというか、重きを置きすぎなんだ。だから、吉本隆明の戦後の労働組合や六〇年安保闘争の闘いの実質をみることができない。その体験による既成左翼の否定と新左翼諸党派に対する齟齬と対立を、つまり、吉本隆明にとって、革マル派は日本共産党と新日本文学会に次ぐ敵対勢力であり、中核派は絶対に許すことができない裏切り党派なんだ。それが吉本隆明の〈位相〉だ。手放しの三派全学連支持も、全国全共闘形成の容認もあり得ない。鹿島茂はたかが東京大学でゲバ棒を振り廻したくらいで浮かれるんじゃないぜ。そんなことをいうなら、わしだって日共=民青と乱闘をやったことも、機動隊に突撃したことも 逮捕されたこともあるさ、そんなことはみんな過ぎちまったのさ。それでも残っているものがあるとしたら、それが何かだ。
 鹿島茂はおまえが編集した『憂国の文学者たちに』(講談社文芸文庫)の「解説」を書いていただろう。
 あれは版元の意向だ。鹿島茂は『吉本隆明全集』(晶文社)をテキストに『ちくま』の連載に取り組んでいる。昔読んだ記憶で手を染める連中よりはいいとおもい、反対しなかった。だけど、あの「解説」は鹿島茂も「憂国の文学者たち」の一人であることを物語るものでしかない。なにが「超巨大IT独占産業が世界を覆い」だ、こんなことをアリバイ的に持ち出すところが、その陳腐さなのだ。ひとびとが現在直面しているのはそんなことじゃない。生理用品さえ購入できない貧困とマイ・ナンバーや犬・猫へのマイクロチップ埋め込みの義務化などの高度管理社会の息苦しさだ。リッチな書斎派にはそんな実感はないかもしれないけどね。
 鹿島茂の「いまこそ、吉本隆明再評価の時機」という解説の《吉本の新刊や雑誌発表記事を注意深く読んでいた》というのが偽りであることは既に証明済みだが、それ以上に問題なのは〈他者へのコミット〉の仕方だな。鹿島茂は無難なことしか言っていないし、過去になったことに安堵して、啓蒙的な講釈を垂れているだけだ。そこには吉本思想と格闘し血を流すことも、おのれの立場が危うくなるような軋みもない。それが決定的な弱点だ。だいたい『共同幻想論』は先の、マルクスの概念を深化させながら、〈アジア的な共同体〉の起源と形成に迫ったものだ。ヘーゲルーマルクスの理解なくして、その解読は成り立たないとおもう。だけど、笠井潔や前田英樹や川村湊みたいな思考硬直の連中と較べたら、はるかに鹿島茂の方がいいぜ。
 それは小熊英二みたいなデマゴギーを行使する輩より、上滑りとはいえ安藤礼二の方がずっと真摯で信用できるのと同じだね。鹿島茂の『ちくま』の連載「吉本隆明2019」は続いている。現在までの最大最強の《吉本隆明論》は、間宮幹彦による『吉本隆明全集』だ。あれは〈論〉じゃなく〈編集〉というかもしれないけれど、『言語にとって美とはなにか』に拠るならば、当然、編集も〈表現行為〉なのだ。鹿島茂にはそれに迫るところまで論を展開してほしいと思っているさ。
 おまえ、再録された樋口良澄「物語を書く吉本隆明」にもひとこと、あるんじゃないか。
 樋口良澄は『さよなら吉本隆明』の時は、『週刊新潮』に発表された三つの掌篇について「これまで単行本に収録されることは無く、各種年譜にも記載されていない」と書いて、自らの無知と不見識をさらけ出したんだけど、今回の再録では修正されている。でも、どこにも反省の弁はない。
 「坂の上、坂の下」「ヘンミ・スーパーの挿話」は『日々を味わう贅沢』(青春出版社・二〇〇三年)に収録されていたし、随時更新されているインターネット上の吉田惠吉主宰「高屋敷の十字路 隆明網」の「著作リスト」にも、高橋忠義の「年譜」(『吉本隆明詩全集』栞・思潮社二〇〇七年)にも記載されていた。樋口はそんなことも知らずに、得意げに書くから、軽薄才子にすぎないことを自己暴露することになったんだ。
 吉本さんから聞いた話では、吉本さんが阪神大震災の時、『サンサーラ』の連載時評で、ダイエーの動きを評価した。そのことに好印象をもったダイエーは、『週刊新潮』の巻末の広告ページに、各テーマごと、吉本さんを指名したそうだ。ただ字数制限が厳しく、短くまとめても、どうしても内容上オーバーしてしまう。それで仕方なく削除したそうだ。吉本さんは「やっぱり、もう少し紙幅に余裕があれば、納得がいくものになったのに」と言っていた。
 初期の作品と通じるものがあるな。「順をぢの第三台場」(二〇〇三年)の、

  海風の 赤いぐみの せんせいせんせい

という俳句は、『和楽路』一九四一年五月号の「随想」に出てくる。それを六二年後に捉え返したものだ。初期(一七歳)の習作と晩期(七九歳)の筆致との相違はあっても、少年期への愛着とそれを取り巻く家族への思いという点では変わりないな。
 それが吉本隆明の源泉なのだ。吉本さんとの話のつづきをいうと、そのあとコンビニの話になり、ダイエー系列のローソンよりも別のコンビニ(ファミリーマートあるいはセブン・イレブン)の方がいい、ダイエーは停滞気味だというところまで及んだ。その後ダイエーは消滅した。世の中の変貌は凄まじい。
 過ぎゆく時代と群像。そういうことでいえば、大阪の久住幸治さんのロシアの侵攻に対する、〈一九六九年一月一九日の東大安田講堂の時計台〉からのアジ演説は痛快だった。ヤルタ・ポツダム体制の打破を主張し、プーチンに死を、と叫んでいる。「異議なし!」と思ったのは次の箇所だ。

「天皇とその一族」が「公民権」を獲得し、「平民」になることこそ「自由」であり、「真の国民主権実現」なのだ。「象徴天皇制」とは、ニセ天皇制であり、永続的に「戦争責任」の罪を負うことであり、これは「日本共産党」の「これまでの親ソ・親中などの、ジグザグ路線」の責任を追及されないですむ、「現状維持」路線。その「安心」こそ「ニセ国民主権」とつりあっている。
                    (久住幸治「通信二〇二二年二月二六日」)

 いまだに久住さんは籠城しているんだね。
                           (2022年6月28日)


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「宮下和夫さんのことなど 松岡祥男」 ファイル作成:2022.06.29 最終更新日:2022.07.3