黒田喜夫と吉本隆明
         ーあるいは鎌倉諄誠さんのこと

             [『脈』102号(2019年8月発行)]
松岡祥男

 吉本隆明は、『ユリイカ』一九七〇年一二月号の鮎川信夫・清岡卓行・大岡信との「共同討議 現代詩100年の総展望」に添えられた「現代名詩選」と、『ユリイカ』一九七一年一二月号の同じメンバーによる「共同討議 戦後詩の全体像」の「戦後名詩選」のいずれにも、黒田喜夫の詩のなかから「空想のゲリラ」と「毒虫飼育」の二篇を挙げている。

 もう何日もあるきつづけた
 背中に銃を背負い
 道は曲りくねって
 見知らぬ村から村へつづいている
 だがその向うになじみふかいひとつの村がある
 そこに帰る
 帰らねばならぬ
 目を閉じると一瞬のうちに想いだす
 森の形
 畑を通る抜路
 屋根飾り
 漬物の漬け方
 親族一統
 削り合う田地
 ちっぽけな格式と永劫変らぬ白壁
 柄のとれた鍬と他人の土
 野垂れ死した父祖たちよ
 追いたてられた母たちよ
 そこに帰る
 見覚えある抜道を通り
 銃をかまえて曲り角から躍りだす
 いま始源の遺恨をはらす
 復讐の季だ
 その村は向うにある
 道は見知らぬ村から村へつづいている
 だが夢のなかでのようにあるいてもあるいても
 なじみない景色ばかりだ
 誰も通らぬ
 なにものにも会わぬ
 一軒の家に近づき道を訊く
 すると窓も戸口もない
 壁だけの唖の家がある
 別の家に行く
 やはり窓もない戸口もない
 みると声をたてる何の姿もなく
 異様な色にかがやく村に道は消えようとする
 ここは何処で
 この道は何処へ行くのだ
 教えてくれ
 応えろ
 背中の銃をおろし無音の群落につめよると
 だが武器は軽く
 おお間違いだ
 おれは手に三尺ばかりの俸片を掴んでいるにすぎぬ?
                          (黒田喜夫「空想のゲリラ」)

 この詩は一九五五年に書かれたものだ。二〇一九年、平成から令和と元号が変わり、まるで〈主権在民〉ということを忘れたかのように天皇制を美化し、皇室の動向を最大の優先事のごとくの空騒ぎがつづいた。そして、アメリカの属国であることを願うかのように日本政府は多額の予算(経費)を使い、トランプ大統領を最初の国賓として招いた。鬱陶しいかぎりだ。ヘーゲルの規定した〈アジア的専制権力〉の最終形態が象徴天皇制である。有形無形の圧力のうちにメディア統制を推進し、情報操作したところで、「天皇陛下万歳!」と叫んで特攻死する、神聖不可侵の絶対化へ逆流するはずがない。たとえ人々が〈王〉を無用とおもうまで存続するとしても。
 不快な気分を振り払うように、黒田喜夫の詩をわが身に引き寄せてみる。黒田の「空想のゲリラ」と違って、銃など必要としない。裏山から村を目指す。杉と檜の植林に覆われ、確かに存在した村人が作った道も踏みつけ道もことごとく埋没して、影も形もない。記憶を頼りに、崩れかけた山肌の地形を辿り、峠に立つ。樹木の間隙から眺めると、向かいの山の集落は家もまばらだ。峠を下ったところに、堆肥を背負い、一休みした大きな岩場がある。いまやここら辺りを支配するのは猪だ。それでも、裏山とは異なり道はあった。泉のある場所まで下りる。六月といえば早苗が根づき、田圃には生き物たちがあふれていたのだが、もはや田を耕す者はなく、荒れた休耕田になっている。最初の家にたどりつく。雨戸が打たれ、誰もいない。廃屋だ。「始源の遺恨をはらす」も「復讐の季」もあった話ではない。村は草木に呑み込まれる寸前の、猪やカラスやリスの楽園なのだ。これに猿や鹿が加われば、村は完全に消滅するだろう。
 友人の川村寛さんによれば、吉本隆明の次兄の田尻権平が一九四三(昭和一八)年一二月三日に移動中の飛行機の事故で戦死した四国東部の亀谷山のある、高知県安芸郡北川村の竹屋敷という村は消滅しており、その下にある集落が辛うじて存続しているとのことだ。消えた村、かつてはそこにも人がいて、それぞれに暮らしていたのだ。ふるさとの地勢はひとびとの感性の背景である。「目を閉じれば一瞬のうちに想いだす」。しかし、そこに戻ることはできない。子どもに戻ることができないように。令和のいま、「空想のゲリラ」という詩はプロパガンダでなく、〈望郷の歌〉と化したのである。
 そうなったのは、社会の激しい変容にあるだけではない。黒田喜夫の傾向性にも拠っている。人民解放という志向性と社会主義の幻影がその根にあるものだ。カフカの『城』の測量師Kはどうしても目的の城に到達できない。しかし、Kは到る処でトラブルに遭遇し、そこで悶着が起こり、それと葛藤することで、生の実質を獲得している。つまり、作品として、その状況は如実に描かれている。それに比較すると、黒田の「ゲリラ」は前のめりの想いと過去への執着に囚われた妄想の戦士にすぎない。それは魯迅の作品が人々の命運を抱え込み、その屈折をよく描きながら、広がりが不足しているのと同じだ。
 わたしはソビエト連邦の〈崩壊〉と中国共産党や北朝鮮の〈実状〉を自問しない、あらゆる左翼的存在に否定的だ。それを不問のまま、歴史を跨ぎ越せるはずがないからだ。それと同時に、アメリカのトランプの保護主義やロシアのプーチンのファシズムも批判すべきなのだ。黒田喜夫も例外ではない。黒田は清水昶と不毛の論争を繰りひろげた。なにが不毛かというと、黒田の主張する「アジア的身体」は主情的で客観性を欠いているからだ。〈アジア的〉という概念は〈地域性〉としてあるとともに、ヘーゲルの『歴史哲学』を踏まえて、マルクスが『資本主義に先行する諸形態』で提起したように〈歴史概念〉としても成り立つ。しかし、それを「意識」や「身体」に直結することはできない。そこには媒介が不可欠なのだ。その相対化の過程を経ない黒田の主張は同情することはできても、普遍的には通用しないものだ。[鎌を振りかざして立ち向かっても権力を倒すことができないし、銃をぶっ放しても支配秩序を撃ち抜くことができないからだ。]それに対する清水昶は世代的な根拠によるだけで、黒田の根底的な誤謬を否定することができず、ずるずると先行世代へのシンパ性を引きずり、妥協的で問題の所在を明確にできなかった。要するに、親族の醜悪な相続争いの様相を呈したのである。([]で囲まれた個所は掲載誌『脈』2019年8月102号の58頁下段3行目にはありませんが、著者の依頼による仲介者から受信したメール添付テキストに拠りました。=掲載者注)
 もちろん、別の言い方もできる。黒田喜夫の『彼岸と主体』も『一人の彼方へ』も、吉本隆明の『共同幻想論』とは比較にならない。その原理的考察の徹底性と抽象力に殆ど理解が届いていない。それは清水昶も同様である。いうまでもなく、それは《つみあげられた石が/きみの背丈よりも遙かに高かつたとしたら/きみはどういう姿勢でその上に石を積むか》(吉本隆明「この執着はなぜ」)という問題なのだ。そして、世界史的課題は詩の現状にも必ず通底しているということを二人とも痛切に自覚していない点にあった。
 吉本隆明は、黒田喜夫の追悼文のなかで次のように述べている。

 おまけに清水昶は、黒田喜夫は吉本隆明は嫌いだといつもいってたと書いてるが、おれはにわかに信じないな。おれは黒田の人柄も詩もそんなに嫌いじゃなかった。また黒田とはもう何十年も会ってなかったが、黒田におれの人間を嫌悪しきれる素因をみたことは、記憶のなかに一度もなかった。嫌っていたというのがほんとなら、マス・コミが作った像にたいする黒田の薄っぺらな、いわれのない反感か、そうでなければ理念の決定的な差異からだ。
        (吉本隆明「黒田喜夫 倫理が痩せ細らせた」『追悼私記 完全版』)

 黒田喜夫は一九五四年再上京、翌年八月に『現代詩』の編集部に入っている。以後三年、秋山清、関根弘、長谷川龍生などの編集長と協力し、雑誌の発行に当たっている。吉本隆明は「涙が涸れる」「戦いの手記」などの詩を発表するとともに、「特殊から普遍へ」という作品合評や、花田清輝との論争の直接的な契機となった「芸術運動の今日的課題」という鼎談に出席している。また長谷川龍生編集長時代には「日本現代詩論争史」(改題「日本近代詩の源流」)を連載している。これは自らの花田清輝との論争を背景に、山田美妙・内田魯庵・森?外論争、北村透谷・山路愛山論争を取り上げ、そこから島崎藤村、与謝野鉄幹の評価にいたる近代詩の問題点を浮き彫りにしたものだ。この時期、黒田との交流があったことは疑いない。吉本隆明はその時の印象を保存していて、それがこの発言の根拠なのだ。
 先日亡くなった高校時代の知り合いが、むかし電話をかけてきて、「松岡さんは吉本隆明よりも黒田喜夫の方がふさわしい気がする」と言ったことがある。それは農家に生まれ、中学卒業後就職した境遇が黒田に似ているからだ。それに下層労働者の情念から言っても、黒田に近いはずだという山田功の判断によるものだった。わたしはその指摘はよく分かったけれど、黒田とは時代的に大きくかけ離れていて、感性的にも隔絶しているとおもった。それにじぶんは落ちこぼれだという意識が強く、到底〈屈折〉無くして、黒田の詩の塁につながることはできないと考えていた。
 そういう意味では、はるかに鎌倉諄誠の方が黒田に類縁している。黒田喜夫は一九二六年生まれ、鎌倉諄誠は一九三八年生まれだ。年齢差はあるけれど、二人とも日本共産党体験とそこからの離脱過程において共通しており、スターリン主義の影響下にあったプロレタリア詩の延長線に詩を構想した点でも連なるところがあったからだ。鎌倉諄誠は六〇年安保闘争後の県中央青年大会において、党中央の運動方針に公然と異論を唱え、除名されている。それにめげることなく、新たな道を模索し、高知県における全共闘運動の端緒を切り開いたのである。

 明日あたり霜がくるらしい
 ナオらももう隠れて遊びに行くわけにはいかない
 ひとりうまく抜けだすことができたって
 行くところがない
 モズやヒタキがヒッキリリヒッキリリ啼きわめいているし
 どっとおりだした夜露にしおれこんで黄ばんだ草葉も
 あおい尻を振り立ててカマをかつぎまわっていた花の上からおりて
 大きな腹を引きずっているカマキリの赤茶けた羽も
 そう告げている
 今日中には何とか芋を片づけちょかにゃあいくまい
 みんな気負い立って怒ったようなかおをして鍬や鎌を打ち振っている
 すでに葉末はかなりやかれているのだ
 一仕切りにもならないのにもう腰が痛くなった
 すむだろうか?
  (中略)
 やがて月明りの中を妹が茶道具をかかえておりはじめる
 つづいて母が一荷背負ってさらに手に牛やら山羊やらのために
 刈り取ったばかりの芋蔓を持てるだけ持って引こずりながら降りていく
 とうとう最後になって すっかりもう気抜けしたナオが
 亀の子のように小さな背中に大きなカマスを乗せ
 這いずるようによたよたとすこし進み
 進んでは休み 休んでは山岸にひっくりかえって
 月の光を浴びている
          (鎌倉諄誠「夢の中の一日」『センスとしての現在の根拠』所収)

 これが鎌倉諄誠の村への〈遡行〉だ。秋のさつま芋の一家総出の収穫の作業を子どもの視座から描いている。作品はひとりでに起承転結の構成になっていて、引用は起と結の部分だ。小鳥の鳴き声やカマキリの様相に作者の嗜好が現れているけれど、山里の暮らしの実相を再現するとともに、心の在り処を表現している。
 鎌倉諄誠が主宰した『同行衆』を最初に評価したのは黒田喜夫だった。新聞紙上の「詩時評」でふれたのである。マイナーな詩誌をやっているものにとって、じぶんたちの雑誌が取り上げられることはとてもうれしいものだ。そして、大きな励みとなる。わたしはそれを否定しない。ただ、じぶんたちの足場を〈大切〉にすることと、そこに〈自足〉することは違う。また商業詩誌がじぶんたちの上位にあると錯覚したらお終いだ。それは「党」などというやくざなものを崇めるのと同じである。おのれの立つところがいつでも〈根源的〉なのだ。

 WOW WOW WOW WOW
 なくきりん

 一面の麦穂の海から
 ひゅっと伸びたまっ白な歯も
 赤錆びの岩壁を朝なさなまっすぐに通ってきた
 カモメの足も

 まもれなかった

 WOW WOW WOW WOW
 なくきりん

 このかなしみがこえられないなら
 この生存が肯定されるはずがない
 降れ降れことば
 降れ降れことば
           (鎌倉諄誠「なくきりん」『センスとしての現在の根拠』所収)

 連合赤軍のリーダー森恒夫は、黒田の詩を愛好していたという。黒田の詩と思想を尖鋭化すれば、ああいう結末に至ることは必至だったのかもしれない。むろん、わたしもその志向性の内部にあった。そこにおのれのひとつの死をみたのである。だからこそ、黒田みたいに保留をつけることなしに、ダメなものはダメだとはっきり言うべきなのだ。NHKEテレで、連合赤軍の生き残りメンバーの登場する番組をたまたま見た。彼らの発言を聞いていると、当時の社会的動機は間違っていなかったと言っているだけだった。事態の本質も、その錯誤の根底も内省的に抉っていないように映った。そんなことなら、黒田の「毒虫飼育」以前なのだ。

 アパートの四畳半で
 おふくろが変なことを始めた
 おまえもやっと職につけたし三十年ぶりに蚕を飼うよ
 それから青菜を刻んで笊に入れた
 桑がないからね
 だけど卵はとっておいたのだよ
 おまえが生まれた年の晩秋蚕だよ
 行李の底から砂粒のようなものをとりだして笊に入れ
 その前に坐りこんだ
 おまえも職につけたし三十年ぶりに蚕を飼うよ
  朝でかけるときみると
 砂粒のようなものは微動もしなかったが
 ほら じき生まれるよ
 夕方帰ってきてドアをあけると首をふりむけざま
 ほら 生まれるところだよ
 ぼくは努めてやさしく
 明日きっとうまくゆく今日はもう寝なさい
 だがひとところに目をすえたまま
 夜あかしするつもりらしい
 ぼくは夢をみたその夜
 七月の強烈な光に灼かれる代赭色の道
 道の両側に渋色に燃えあがる桑木群を
 桑の木から微かに音をひきながら無数に死んだ蚕が降っている
 朝でかけるときのぞくと
 砂粒のようなものは
 よわく匂って腐敗をていしてるらしいが
 ほら今日誕生で忙しくなるよ
 おまえ帰りに市場にまわって桑の葉を探してみておくれ
 ぼくは歩いていて不意に脚がとまった
 汚れた産業道路並木によりかかった
 七十年生きて失くした一反歩の桑畑にまだ憑かれてるこれは何だ
 白髪に包まれた小さな頭蓋のなかに開かれている土地は本当に幻か
 この幻の土地にぼくの幻のトラクタアは走っていないのか
 だが今夜はどこかの国のコルホーズの話でもして静かに眠らせよう
 幻の蚕は運河に捨てよう
 それでもぼくはこまつ菜の束を買って帰ったのだが
 ドアの前でぎくりと想った
 じじつ蚕が生まれてはしないか
 波のような咀嚼音をたてて
 痩せたおふくろの躰をいま喰いつくしてるのではないか
 ひととびにドアをあけたが
 ふりむいたのは嬉しげに笑いかけてきた顔
 ほら やっと生まれたよ
 笊を抱いてよってきた
 すでにこぼれた一寸ばかりの虫がてんてん座敷を這っている
 尺取虫だ
 いや土色の肌は似てるが脈動する背に生えている棘状のものが異様だ
 三十年秘められてきた妄執の突然変異か
 刺されたら半時間で絶命するという近東沙漠の植物に湧くジヒギトリに酷似している
 触れたときの恐怖を想ってこわばったが
 もういうべきだ
 えたいのしれない鳴咽をかんじながら
 おかあさん革命は遠く去りました
 革命は遠い沙漠の国だけです
 この虫は蚕じゃない
 この虫は見たこともない
 だが嬉しげに笑う鬢のあたりに虫が這っている
 肩にまつわって蠢いている
 そのまま迫ってきて
 革命ってなんだえ
 またおまえの夢が戻ってきたのかえ
 それより早くその葉を刻んでおくれ
 ぼくは無言で立ちつくし
 それから足指に数匹の虫がとりつくのをかんじたが
 脚は動かない
 けいれんする両手で青菜をちぎり始めた
                            (黒田喜夫「毒虫飼育」)

 わたしはこの詩を読んだとき、カフカの『変身』を想起した。『変身』はドイツにおけるユダヤ人家族の疎外感が生み出したものだとすれば、「毒虫飼育」はアジアの農村から流出した母子家庭の妄念を描いた、戦後詩の傑作である。養蚕が廃れ、ひとびとが蚕を知らなくなっても、この詩は残るだろう。
 吉本隆明が東京の下町に寄せるおもいと、黒田喜夫の山形の農村に対する執着は等価である。その愛憎の質においても。黒田が「荒地」の詩に批判的なのは、イデオロギー的錯覚にすぎない。鮎川信夫も田村隆一も北村太郎も、その内部に生々しい戦争の傷痕を抱えこんでいた。それは黒田の土俗的な体験と通じているはずだ。ただ異なるといえば、地方出のものは常に何かに追われている、出稼ぎ労働者のように。それが「幻の蚕」であるかどうかは問わないにしても、そこが都会育ちと違うところだ。同じ都市空間で生活していても、〈二重性〉を負っているからだ。しかし、それも鮎川信夫の〈厭世〉や田村隆一の〈デカダンス〉の内実にわけいれば相対化されるにちがいない。
 吉本隆明は、黒田の変革の意志と苦闘のありかをよく分かっていたとおもう。なにかの座談会の発言で関根弘らを引き合いに出して、実践的リアリティを優先する詩人は時代の動きが激しい時は目覚ましい活躍をするけれど、状況が閉塞し停滞すると、忍耐力に乏しく持ち堪えることが難しい。その点、知的な蓄積を有するものは粘り強く持久力があるような気がする、と語っていた。決して、おのれの知的優位を誇るのではなく、彼らの持続と徹底性を願っていたのである。それゆえ、黒田喜夫の死に際して、厳しい批判とともに、リルケの言葉を手向けたのだ。


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「黒田喜夫と吉本隆明ムあるいは鎌倉諄誠さんのこと 松岡祥男」 ファイル作成:2021.11.08 最終更新日:2021.11.10