北島正さんを悼む

松岡祥男

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 梓澤登さんが、『吉本隆明全集』(晶文社)第五巻所収の「中野重治『歌のわかれ』」の中で、島木健作「癩」が「雁」になっていると指摘されていることを、宮城正勝さんが伝えてくれた。
 ふつうに考えれば、初出(『現代文学講座V』飯塚書店)の段階で誤植、それが検証されることなく、踏襲されてきたということだろう。
 どうしてかというと、吉本さんは『言語にとって美とはなにか』で、《島木健作は生涯のもっともすぐれた作品「癩」(昭和7年)によって「機械」とともにあたらしい文学体の表出の先端をささえた》と書いているからだ。時期的にも近接しているから、まず間違うことはないといっていい。
 ただ、吉本さんの場合、和子夫人も言われているように、校正はあまり得手でなかったようだ。おそらく、手直し(改稿)に重点をおき、校閲よりも思索を深めることを優先していたのであろう。

  まだセミ・プロだったころから、わたしには校正刷りを推敲段階のひとつと心得る不届きな悪癖があった。原稿用紙にじぶんの自筆のときには、うまく客観視できない表意文字と表音文字の配置や、文体の生理的な癖を、校正刷りの活字文字に変ったところで眺めながら、手直ししようとするのだ。この虫のいい悪癖は時間がせわしなくなり、何やら物書きらしい構えを無意識にとるようになって、ますます嵩じるばかりになった。校正刷りに勝手な手入れをやって、行の組替えになったり、ひどいときには頁の組替えになったりする。これが編集者に与える苦痛は、はかり知れない。そんなことを露もかんがえないのほほん顔の学者、研究者や文壇大家ならいざしらず、じぶんでは痛いほど編集者の大変さがわかるつもりだ。それなのに渋い顔で瞋りまくる印刷屋をなだめなだめ編集者が折角あげた校正刷りを、また滅茶滅茶にこわしてしまう。それでも物書きにむかって、あんたは編集者を何だとおもってんだ、おれたちの苦労がわからずに、よくも駄文を何度も勝手に手直しして、活字にしたり本にしたりできるもんだな、とひと言云ってやりたいのに、云ったらそれでおしまいとおもうとそれもやれない。ただにこにこと(せいぜい苦が笑いして)いいですよ、ちゃんと直しときますといって、耐え忍ばなくてはならない。安原顯が編集者はどうせ芸者なんだから、というのはここのところにちがいない。そうかんがえるとおれはかけ出しのときから何十年(そしていまも未熟さではかけ出しと変らないが)、その悪癖を繰返し、しかもある時期からどんなに編集者が大変なのかをよく知りながら、その悪癖を矯正できずに終始してきた。腹わたが煮えくりかえる思いをこらえながら、おれにたいして笑顔のひとつも作ってきた編集者は、どれだけいるか量り知れない。その怨念だけでもおれはいつか自滅するにちがいないと、いつもおもってきた。この編集者の怨念に対抗する理窟は、ほんとは、わたしのような凡庸な物書きの方にはひとつもない。居直ってみせるとすれば、すこしでもよくなるんだから勘弁してもらえるだろうという消極的な根拠だけだ。
  だがわたしは逆の体験もした。学者や研究者のなかには、病的な厳密症ともいうべき性癖や神経症が広範にあって、校正刷りに何校であろうがお構いなく手を入れては、編集者や出版社に七転八倒の苦痛と損害を与える。学者や研究者にはそんな意味では世間知らずの大馬鹿野郎がおおいから、下働きのものの苦痛などこれっぽっちも考えようとしない。何をそんなに威張っているんだ、たいした仕事もしねえくせしてといいたくなるのがおおい。そのためこの種の出版社の契約書には、もし校正のさいに行や頁の組替えにわたる場合は、その分の費用は著者の方で負担することという項目がついているのがある。わたしはそういう学者、研究者向きの出版社と交渉する場面があって、そんな項目はおれたち学者でも研究者でもない物書きには、承認できないから削れと主張して、とうとう物別れになって出版をやめたことがあった。
                      (吉本隆明「編集者としての安原顯」)


 ここで「出版をやめた」といっているのは、たぶん『初期歌謡論』を指している。その単行本の「あとがき」に《ひとつの書物はその内容によって劇的であるだけでなく、その成立の経緯によって劇的であるという思いをいよいよ深くするようになった。本書も難産と流浪の過程でそうであった》と記しているからだ。
 わたしは『吉本隆明資料集』を作ることで「初出」に当たってきたけれど、結構誤植は多い。
 一般に辣腕と言われた編集者でも、校正は他人まかせで、雑なのだ。その場合、入稿して印刷所の入力したものを校正者に回し、そのまま素読みするケースが圧倒的なようだ。そこでは、原稿や初出とのつきあわせ校正(校合)を省き、そのため誤植や組み落ち(脱落)に気がつかない場合も多々あるのだ。
 例えば、『書物の解体学』の「ロートレアモンと〈倫理〉」の中の、

  〈倫理〉はこの場合も個人の主観によってきまるのでもなければ、社会のありふれた規範によってきまるのでもない。(雑誌『海』初出)

  〈倫理〉はこの場合も、個人の主観によってきまるので、社会のありふれた規範によってきまるのでもない。(中央公論社単行本)

 となっていて、単行本収録のものが中公文庫、『吉本隆明全著作集(続)』、講談社文芸文庫とずっと踏襲されてきた。しかし、「マチウ書試論」をはじめとする、吉本さんの思想の文脈(理路)から考えれば、「初出」が正しいことは明らかである。
 これは『吉本隆明全集』第一三巻で訂正された。この部分は吉本思想の根幹に関わるので、わたしはそれをみて安堵した。
 校正は、ほんとうに面倒で難しい。
 また、こんなケースもある。『源氏物語論』(大和書房)でいえば、著者が加筆・訂正したゲラを印刷所に回して、その訂正個所の最終確認をやっていないためか、文章が混乱している個所があった。わたしは『「情況への発言」全集成』(洋泉社)の解説を依頼されたとき、心配なので、その第二巻と第三巻の「初出」とのつきあわせ校正を無償でやった。『情況へ』(宝島社)では本文以前に、表題のひとつが「ひとつの死、思想の死」となっていたからだ。正しくは「ひとの死、思想の死」である。
 一般的にいって編集者は読者と違って、終わった仕事を振り返らないように思われる。

 吉本 あれなんか伊波さんのあれみると、そう書いてありますね。脂肪親族となんとかと、骨みたいの食っちゃうのと、ようするに両方あって、等親というか親等というかそれによって違うというようにありましたねえ。そういうあれはあったですね。その場合には食べると死者は永遠に自分の中に生きていく、そういうことだと思いますけどね。

 この言叢社の『文学・石仏・人性』の中の「脂肪親族」などというのは、読み返せば変なことにすぐ気づくはずで、これは常識的に考えれば「死亡親族」のはずだ。また『ハイ・エディプス論』でいえば、この本の〈心的現象〉への果敢な踏み込みの意義からすれば、どうでもいい些末なことだけれど「差別非差別」となっている。通常は「差別被差別」であろう。
 これらは能力の問題というよりも、みんな時間に追われ、つまり社会経済の急流の中、仕事を先へ先へと進めるほかなく、どうしても荒れてしまうというのが実状なのではないだろうか。
 そんなありさまだから、到底、著者の間違いや初出段階の誤植まで、配慮が届かないのだ。
 昔は誤植、今は変換ミスだ。思潮社の『討議近代詩史』の中で、夏目漱石『坊ちゃん』が『坂ちゃん』に、春秋社の『決定版 親鸞』の「最後の親鸞」の中で、「信仰」が「進行」に、というふうにである。
 それならお前はどうかということになる。実はこれが全く駄目だ。じぶんのものはどうしても頭で読んでしまうので、誤記や脱字を見落とし、いくらやっても駄目なのだ。そこで、わたしの場合は妻との二人三脚でやってきた。原稿は必ず妻に見てもらっている。そうやっていても、間違いはある。
 だから、他者を責める資格も、そのつもりも毛頭ない。
 しかし、『際限のない詩魂』(思潮社)の「中島みゆきという意味」のように初出にある音符の図表を二つとも落としたり、宮城正勝さんが指摘したように『全南島論』(作品社)の「色の重層」において、レヴィ=ストロースの『野生の思考』の引用に、著者が施した傍線が《あとかたもなく消え去っている》というような杜撰さは、やっぱり困るのだ。

     2

 『吉本隆明資料集』の最終閲読をやってもらっていた、北島正(まさし)さんが二〇一八年二月三日に亡くなった。
 北島正さんは一九四七年一一月二一日長野県飯田生まれで、《中学でキューポラの街川口に出て途中宝塚へ移り、高校卒業までは西宮》、そして、一九六六年に大阪市立大学文学部に入学している。
 この年の一〇月三一日の学園祭で、吉本隆明の講演会があった。演題は「国家・家・知識人・大衆」だ。吉本隆明は一〇月二九日から三一日にかけて、関西学院大学、関西大学、同志社大学、大阪市立大学とブント系が活動する大学で集中的に講演を行なっている。北島さんはこの時、吉本隆明を知らず、小田実のようなつまらない左翼文化人の一人とみなし、この講演会はパスしたとのことだ。
 この時の吉本講演は、講演自体よりも講演後の質疑応答の方が時間が長いものだ。その中で、次のように聴衆の質問に答えている。

  第一にぼくはあなたと違うところは実践という概念が違うわけなんですよ。実践という概念は、つまりマルクスによれば対象化行為なんですよ。対象化行為というものは幻想行為と現実行為というものがあるわけなんですよ。それを実践と呼んでいるんですよ。実践という言葉をせばめ、そしてしかもそれに無媒介に倫理性を導入したというのは、これはマルクスのせいじゃなくてロシアから始まっているんですよ。だから実践の概念がだいたい違うと思うわけよ。逆にあなたがぼくの位相になりぼくがあなたの位相になったらね ぼくはたとえばあなたに、いまあなたが質問したようなことは絶対に問わないわけですよ。絶対に問わないでぼくはやってみせますけどね。やりますけどね、必ず。できますけどね。そんなことは問わないですよ。つまりなんていうかな、あほらしくて聞いちゃおれないという感じがするんですよ。要するにおまえ、人のせいにするなとね。

 もし、若い北島さんがこれを聞いたとしたら、反発したかもしれないし、あるいは、凄いじゃないかとおもったかもしれない。ただひとつ、甘いことしか言わない進歩的知識人とは違う、と感じたであろうことだけは確実だとおもう。
 その後、学部の先輩の女性に薦められて、著作にふれ、殊に詩に魅せられ、吉本隆明の読者となったのである。爾来、亡くなるまで吉本隆明から離れることはなかった。
 エピソードを付け加えれば、吉本隆明を推挙した女性は、「リュウメイももう終わり、共同幻想論なんていって、古代史に逃げちゃった」と言ったそうだ。北島さんはそれを聞いて、それは違うという前に、悲しく思ったという。また後の連合赤軍のリーダー森恒夫もいて、演劇部の先輩として北島さんと交流があったとのことだ。
 わたしは大阪市立大学に行ったことがある。一九七〇年には大阪市立大学のヘゲモニーは、ブント系から中核派に移行していた。東京の七〇年六月一五日の反安保の集会に向かう、全国部落研連合の関西の集合場所がこの大学だったからだ。この主導権の移行は、北島さんが深く関わった一九六九年のノンセクト・ラジカルを中心とした大学占拠闘争と繋がっているようにおもう。一九六九年二月に教養部一部封鎖があり、それを前段階として、八月に時計台バリケードの構築が始まり、一〇月四日大学の警察機動隊導入によって排除され、それを中心的に荷った北島さんも逮捕された。
 同じ一九六九年夏、高知大学でも大学占拠闘争が闘われている。全共闘系学生が主導したものだった。しかし、高知大学の場合、要求がある程度受け入れられたこともあって、中沢治雄委員長をはじめとする執行部は、賢明にも占拠を自主解除した。
 それは機動隊との対峙、徹底抗戦となれば、表向きは勇ましく華々しいに違いないが、そんなことを喜ぶのは政治主義者と外野の野次馬にすぎない。不可避的に決定的場面に突入したとしても、その衝突と混乱と荒廃から、再起することは並大抵ではない。その闘争後の空隙のうちに、打撃の少なかった党派が台頭したということだろう。
 だいたい、学生運動は生活協同組合の上りやその他諸々の自治会費を活動資金としていて、それが経済的な基盤となっていたのである。その中から上納金が全学連に納められるという仕組みになっていて、それが各政治党派に流れていた。この基盤は大学の機構改革によって崩れてしまったといえるだろう。
 その当時、社会は「学生」や「未成年」に対しては比較的寛容だった。デモや学生運動で逮捕されても、それが尾を曳いて、就職活動やその後の生き方に深刻な負債になることは少なかったようにおもう。じぶんの場合でいえば、部落解放同盟と一緒になって日本共産党と衝突した事件で逮捕状が出て、保護観察処分になったけれど、そのために身動きのならない困難に直面したというようなことはなかった。まあ「未成年」の下層労働者だったから、そうだっただけかもしれないが。
 これが「社会人」となると、遙かにシビアだ。以前に書いたことがあるけれど、反公害運動として全国的に知れ渡った「生コン投入闘争」でいえば、パルプ工場の排水溝の出口を生コンで塞ぐことを、現場で指揮した人物は、「浦戸湾を守る会」のメンバーで、地元の水産会社に勤める会社員だった。真っ先に彼は逮捕され、続いて、会の会長と事務長が逮捕された。
 高知市の江ノ口川は、もともとは市の中心部を流れる鏡川から分水し、用水路として作られたものだ。それが「西日本で一番汚い川」と言われるまでになってしまった。その最大の要因は製紙会社の排水だ。これに対して住民運動が起こり、改善要求をしても、一向に埒があかない。そこでとうとう〈実力行使〉に出たのである。
 わたしはアルバイトで、そのパルプ工場にほとんど隣合わせの飴屋で働いたことがある。飴玉造りの作業の最中に、工場から出る煙が流れてきて、みんな仕事を放棄し、外へ飛び出すことが何度かあった。そのパルプ工場のひどさは身をもって体験していたから、この〈快挙〉を支持しないわけがない。
 ところが、この闘争の名分をかすめとろうと日本共産党が弁護団として介入したのである。山崎会長も坂本事務長も、じぶんたちがやったことの罪は認めるという市民的な立場だった。その処罰を甘受する覚悟のもと、実行に踏み切ったのである。一方、弁護団は住民の生活を守るための正当防衛を論拠に、無罪を主張し、それを法廷闘争の方針としたのである。この齟齬は解消されることはなかった。最初から立場が異なっていたからだ。結局、有罪判決が下されたけれど、高知パルプは閉鎖となり、川は普通の流れを取り戻し、鯉が泳いでいる。
 わたしがここでこだわるのは、そんな結果ではない。実際に現場で行動した彼は、起訴対象から除外された。つまり裁判においては、蚊帳の外に置かれたのである。それはそれで、厄介な〈法的拘束〉を負う必要がないので結構なことだが、逆にいえば、社会的な〈象徴性〉や支援者との〈紐帯〉から切り離れたのだ。
 その直後は社会のヒーローのように遇されたけれど、彼は会社を解雇され、転職しようにも、どこも受け入れるところはなかった。行き場所を失ったのである。食いつめ、〈流浪〉の途しか残されていなかった。
 彼はわたしの働いていた建築現場の仕上げの仕事に、臨時にやってきて一緒に働いたこともある。「松岡よ、銭だ。銭が無けりゃ、どうにもならんぜよ」と言った。わたしは、あの「生コン闘争」の最大の犠牲者は彼だと思っている。
 党利党略の日本共産党は彼の存在など眼中になく、「浦戸湾を守る会」も山崎会長は会社経営者であり、また坂本事務長は年長で社会経験も豊富だったから、トータルな見識をもって配慮し、じぶんたちが立ち会うか、もしくは身軽な学生メンバーにするべきだったのだ。
 いまさらこんなことを言っても仕方のないことかもしれない。じぶんもそうだったけれど、その時は本人もやる気満々で、後先のことなど考えていないからだ。吉本隆明が東洋インキの労働組合の活動で職場を追われて、就職口は見つからず、完全に化学技術者の道が閉ざされたように、彼も社会から徹底的にパージされたのである。
 さらにいえば、吉本隆明が六〇年安保闘争で逮捕された際、隔日勤務の特許事務所においてさえ、出勤したら、じぶんの机はなかったという。幸いにして免職にはならなかったけれど、それくらい風あたりはきつかったのである。
 北島さんも、さまざまな軋轢や葛藤をくぐったに違いない。けれど、北島さんは闘争敗北後も、国文学徒たらんとする志を棄てたわけではなかった。働きながら、何度か大学院の試験を受けている。しかし、通らなかった。それで実力的(学力的)に劣るはずがないという思いから、ひそかに探ったところ、要するに大学にたてつき、占拠闘争をやって迷惑をかけたことに〈詫び〉を入れないかぎり、院生として受け入れるわけに行かないというのが、大学側の意向だったのである。そこで、北島さんはきっぱり断念し、私立高校の教師の道を選んだのだ。
 わたしは、一つの闘争に関わり、それを実際に荷い消えていった人物や、北島さんのようにおのれを曲げることなく筋目を通した人に対するシンパシーを失っていない。何もしないうちからの損得勘定など、くそくらえなのだ。
 そんな北島さんとどうして出会ったかというと、地元高知に住んでいる大阪市立大学の同窓の川村寛さんとともに『試行』の広告をみて、『同行衆通信』を購読してくれていたからだ。ある年、川村さんから声がかかり、鎌倉諄誠さんと一緒に小料理屋に出かけた。その席に、北島さんもいたのである。これを皮切りに、場所を川村さんの家に移して、毎年夏には集まりを持つことになった。それは川村さんが体調を崩されるまでつづいた。
 ところで、北島さんは吉本隆明のどんなところに惹かれたのだろう。

  来歴の知れないわたしの記憶のひとつひとつにもし哀歓の意味を与へようと思ふならば わたしの魂の被つてゐる様々の外殻を剥離してゆけばよかつたはづだ
  けれどわたしがX軸の方向から街々へはいつてゆくと 記憶はあたかもY軸の方向から蘇つてくるのであつた それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたらなかつた 忘却という手易い未来にしたがふためにわたしは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去つたとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびとがわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふならば わたしの歩み去つたあとに様々の雲の形態または建築の影をとどめるがよい

  わたしは既に生存にむかつて何の痕跡を残すことなく 自らの時間のなかで意識における誤謬の修正に忙しかつたのだ
                         (吉本隆明『固有時との対話』)

  わたしはわたしの沈黙が通ふみちを長い長い間 索してゐた
  わたしは荒涼とした共通を探してゐた
                                    (同前)

 この引用のあと、北島さんは次のように書いている。

  過去と現在は、乖離して確かな像を結ばない。それ故、「今を生きるわたし」は、自己回復が同時に現在の回復」となる場を求めて、過去を未来へと反転させる時間の紡がれる「Z軸」を歩む。しかし、そこは、あらゆる倫理の殺到する場、「沈黙による自己対話」だけが可能な場である。
  この詩篇に遭遇したことは、闘いの残した課題を倫理的負債にすり替え、昔の歌を唱うことでこれを華やかに解消しようとする者達との分かれを決定づけました。そこには、倫理を越えた「自己再生」の場、「世界性」に対峙する自己対話の場が開かれていたのです。
           (北島正「自己表出という思想」『情況』二〇一二年八月別冊)

 じぶんに引き寄せた確かな理解だといえよう。敗戦による打撃と陥没からの「再生」が背景になっているからだ。自己の内面へ下降することで得られた痛切な心像、そこでのモノローグが『固有時との対話』である。
 ただ、後指しの優位みたいだけれど、はてしない内向は価値の源泉ないし〈無〉のフィールドにゆきつくのではないだろうか。いわば純化された資質の〈固有値〉に。そこに吉本隆明は立っているような気がする。そこはほんとうはとても危険な場所かもしれない。そこには〈狂気〉や〈死〉も潜在するからだ。それが吉本隆明をして「〈歴史的現実との対話〉のほうへ」、すなわち『転位のための十篇』への転位の〈内在性〉ではないだろうか。そうだとすれば、北島さんの理解はポジティヴな印象を受ける。
 しかし、北島さん自身の「自己再生」の様相は如実に語られている。もはや如何なる外的な圧迫も、現実の落差も、屈服させることはできないという、揺るぎない立ち姿がここに示されているといっていい。
 北島さんは一時、大阪から関東へ出た。その時の通勤途中に外国大使館があり、なにか政府の政治イベントがあって、そこを通る北島さんに、特別警戒中の警官たちが鞄の中を見せてくれと言ったそうだ。それに対して、北島さんは「オタクら、仕事だろ。心配なら私が通り過ぎるまで、随いてくればいい」といい、持物検査を拒否したという。そういう面ではだらしないところのある自分と較べて、北島さんは立派だなあとおもった。それが自立性ということだ。
 北島さんには『吉本隆明資料集』第一三八集(二〇一四年九月発行)から第一六三集(二〇一七年三月発行)まで校閲してもらったけれど、実際の校了は発行よりも一年近く先行していた。また『資料集』に挿入している「猫々だより」にも執筆してくれた。「吉本隆明という体験」と「『源氏物語論』(吉本隆明)について」の二つだ。北島さんの古典文学の素養と、バリケードの青春、吉本隆明との邂逅の意味がまっすぐ伝わってくる、優れた文章である。
 わたしが北島さんの変調に気がついたのは、ゲラの返送に添えられた一筆箋にしたためられた短い近況の文字が、とても弱々しくみえた時である。その時には既に前立腺に癌が見つかり、治療を受けていたのだ。二年半あまりの闘病生活だった。
 わたしはなにもすることができなかった。あの夏の集まりの北島さんの熱弁を思い起こし、遺著の『こころの誕生』(ボーダーインク刊)を手元において、追悼することがわたしにできる精一杯のことだ。
 ありがとうございました。
                       『脈』第97号2018年5月発行


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「北島正さんを悼む 松岡祥男」 ファイル作成:2022.07.01 最終更新日:2022.07.04