『この世界の片隅に』をめぐって

松岡祥男

 どうしてる?
 えっ。
 『吉本隆明資料集』の発行が終了し、気抜けしてるんじゃないかと思ってな。
 まあ二〇年もつづけてきたので、無事終わってほっとしているのは事実だけどね。そのあと、世の中は思わぬ展開となった。新型コロナウイルス禍で、社会の脆弱な構造が露呈するかたちになった。これに対する政府の対応や世間の動きを批判するとすれば、事あるごとに言わざるを得ない。そうなるとこっちもバカみたいなことになり、消耗するだけだ。テレビの報道に頭にきて、手元の物を投げつけても、うちのテレビが壊れるだけのようにね。
 みんなそれぞれにこの状況に対処しているに違いないが、「夏痩せて那覇にポツンと一軒家」(宮城正勝『アブ』二五号)という有様だ。
 おれたちはもう老人という扱いをうける位置にいるから、社会の前線から一歩退いているが、現役の人々は大変だぜ。解雇、失業、倒産、あらゆるかたちで状況の負荷が重りかかってくる。坂本龍一のバカが早い時期に、「この機会に充実した生活を味わうべきだ」と発言した。この間抜け野郎! 稼ぎは無くなり、住むところも無くなってみろ、特殊詐欺の受け子でもやるしかなくなるのは必然だ。
 そうだな。世界で一〇〇万人以上死亡している、これが紛れもない客観性だ。
 うん。
 ここはひとつ、呑気な話がしたいな。
 『吉本隆明全集』第二三巻の「月報」で、川村湊が『悲劇の解読』の「序」の「近代批評は、やっとひとりの批評家をのぞいて終りをまっとうしていない」というのにふれて、《この「終りをまっとうした」「ひとりの批評家」について、さまざまな憶測が出された。この本で取り上げられている文芸批評家は小林秀雄唯一人だから当然、彼だろうというのが一般的だった。いや、ヒラ評論家として一生を過ごした平野謙だとか、論敵だった花田清輝を想定したのではという説もある(私の説だ)》と書いている。これについてどうおもう。
 バカバカしい。いまさらスターリン主義者の花田清輝に何の用があるというんだ。
 川村湊の論拠は《吉本が明言していない以上、読者は任意の誰でも当てはめてもいい》というものだ。
 あの「序」の文体の〈抽象度〉からいって、固有名が出てこないのはあたりまえだ。そうだからいって、任意の誰を当てはめてもいいなんて結論にはならない、小学校の低学年やなんでも答えを教えてやらないと分からない輩と同じ笑止の言い草だ。こんな読みしかできないくせに、いっぱしの文芸批評家づらがよくできるもんだ。
 社会的地位は別として、こんなもの、世間や人間性をなめているとしか思えない。吉本隆明は「ブランド商品小論」で《わたしの批評作品は、現代日本社会の産んだ最高のブランド批評である小林秀雄の作品をこえているかどうかは、わからない》といい、また小林秀雄の追悼文である「批評という自意識」でも《ほとんど独力でわが国の近代批評の敷石を敷きつめ、その上に華やかな建物をつくり、それをじぶんの手であと片づけして、墓碑まで建て、じゅうぶんの天寿を全うした》と記している。それすら無視してるんだ。
 無知と傲慢の自己証明ということだな。
 この男は《一度だけ対談をしたことがある》と言っているけれど、その対談は埴谷雄高と吉本の論争を踏まえたものだった。その席上、吉本隆明はレーニンが『哲学ノート』の中で『唯物論と経験批判論』の唯物論の意味をほとんど無意味に近い概念にしてしまったことにふれると、川村湊はそこのところは読んでいないと答えている。こんな態度でよく対談に臨めたものだ。じぶんの限界を超えたものに理解が及ばないのは仕方のないことだが、これはそれ以前の品性の問題だ。それが川村湊の批評の低劣さを物語っている。
 そうだな。《私は、最晩年の吉本隆明の生原稿を見たことがある。ごく短いものなのに、字は震え、文脈は乱れ、到底発表できるものではなかった》と川村湊は書いているが、愚の骨頂だ。人は老いると、持病をかかえ、目は見えなくなり、足腰も衰える。それに伴って当然ボケる。みんな身障者だ。そんな心身の状態でも吉本隆明は書くことや語ることを止めなかった。これはほんとうに凄いことだ。それは担当編集者は判読するのに苦労しただろうし、いろんな意味で大変だったとおもう。それでも、その原稿や発言を求めたのであり、その要望に応えたんだ。
 おれは『吉本隆明資料集』を自家発行したから、晩年のものも全て読んでいる。そして、その多くは入力することで一字一句たどっている。川村湊が見たという生原稿のタイトルを言ってみるがいい。字は震え、文脈は乱されていたとしても、川村のこの駄文より、心のこもった、他者に感銘を与えるものだったかもしれない。思いあがった川村湊にはそんなことも分からないのさ。
 要するに、知的俗物の典型ということだろ。ところで、おまえ、こんなどうでもいい話をつづけるつもりなのか。
 それは呑気な話をしたいと言ったからだ。おれはじぶんの思い出や出来事のひとつひとつに灯りを点していくことも、こうやって他人のつまらない悪口を並べることも等価だと思っている。見掛け上はぜんぜん違っても。なぜなら、最低でもどんな恨みを持たれても、それを引き受ける覚悟はある。おれは匿名で言論を行使しない。
 それは不動の前提だな。
 先日、こうの史代の『この世界の片隅に』を読みたいとおもい、図書館で借りようと訊ねたところ、置いていなかった。アニメがあれほどヒットし、確かあの公開年度において『君の名は。』『シン・ゴジラ』につぐ観客数だったとおもう。それで実写版映画にもテレビドラマにもなり、また原作者のこうの史代については『ユリイカ』(二〇一六年一一月号)が特集を組んでいる。それにもかかわらず、入れていないということは、やっぱりマンガは軽視されているんだと改めて思ったよ。市立図書館と県立図書館が合体した、高知県下で一番大きな図書館なのに。
 最初は川村寛さんにアニメを薦められた。戦争を扱いながら、ほのぼのした雰囲気がとてもいい感じだったと。その後、民放のテレビ放映とTBS系列の実写版テレビ、NHKのノーカットのアニメを見た。テレビのやつは現代の登場人物を設定することで、視座の重層化を図ったつもりなのだろうが、完全に失敗で、モチーフの矮小化でしかなかった。松本穂香の「すず」は良かったけれど。
 ただ、アニメもテレビも戦後的価値観が侵入していて、そこが難点のような気がした。浦野すずの兄の戦死が伝えられ、遺骨が石ころだったというところでいえば、兄の戦死に直面したら、たとえ石であっても、それを大切に骨と同等に抱え込むはずだ。あんな風に相対化できるはずがない。そこで何を勘違いしているかといえば、平和は啓蒙するものでも、教育するものでもなく、享受するものだということを知らないような気がした。これは「平和」の御題目化を図る日本共産党をはじめとする左翼の錯誤のひとつだ。また、軍港・呉という土地柄を考えると、もっとずっと「征戦」にのめり込んでいただろう。そこが弱点といえる。東条英機の導入した憲兵制度にしたって、その圧迫と滑稽さを笑うことはいまだからできることじゃないのか。
 もちろん「戦争もの」という構えで創作されたもので、実体験に根差したものじゃない。だから、遊離したところがあるのは当然だけれど。
 作品のクライマックスは、海兵になった幼馴染が嫁ぎ先に訪ねてきたところだとおもった。これは死と隣り合わせの戦中でなければ受け入れることはあり得ないだろう。
 すぐに道に迷ったり、義姉の娘と蟻の行列をたどり、砂糖にたかっているのを発見し、水瓶に隠すような、ぼうーとしたような主人公の設定から、日常の描写、民衆の存在の捉え方まで、優れたものだ。
 その場面をめぐって、川村寛さんがネット上の意見を提供してくれた。

 (1)
この世界の片隅に、を読んでいました。
すずの幼馴染の海軍軍人がお嫁に行ったすずのところに遊びに来て止めてもらい周作さんの判断で離れに泊まりすずが行燈を持っていく……という場面がありました。
昔の幼馴染だと親戚くらいの付き合いの濃さでそれですずに留めてもらおうという考えをしても昔はネットカフェも何もない時代ですから知り合いを頼るのはそこまでおかしなことではなかったんでしょうか?
周作が「父がいない間は自分が家長。ここで留めるわけにはいかない」といい離れに案内したのはすずと海軍軍人は異性同士だから同じところに置いておけないということですか?
それともその人がすずに恋心を持っているから置いておけなかったのでしょうか?
周作がすずに行燈を持っていくようにいいつけ「もう会えないかもしれないから」といったのは軍人が戦争で死ぬかもしれず、家族に知らせず(もしくは表向き隠してみて見ぬ振りできるように)二人で心行くまで話せるようにと計らったのでしょうか?
途中キスしたり軍人がすずに自分の気持ちを向ける場面がありますがそうなることは周作もわかっていたはずです。
すずを信頼して、この軍人も悪い人じゃないからと信用したのでしょうか?
それとも仮に一晩そういうことがあっても見逃すつもりだったのでしょうか?
妊娠しても自分の子供として育てるつもりだったのでしょうか?
離れの軍人に行燈をもっていかされたすずは「うちはあの人が憎い」といっていたのはすずさんが周作さんのことが好きだ、軍人がすずを好いているのを知っていて行かせたことでしょうか?
いろいろ謎で。
 (2)
あくまで私の解釈ですが、あれは周作さんの行き過ぎた善意です。
まず周作の性格として、運動音痴で体よくいえば陰キャラです。鎮守府の書記官ということもあるので、弱い身体にコンプレックスはあるなりに法律や義理を重んじて生きてきた可能性もあります。
周作さんにとっては本来すずが結婚すべき相手は水原であり、かなり強引な手段で娶った負い目があったんじゃないか。
せめて一夜だけでもということだったんでしょう。……仮に妊娠でもすれば、強い男の血が入った子供になるという、男の冷徹な計算もあったかもしれません。
根拠として、子供の頃からすずを知り今まで捜していたくらい好きなのに、リンとも関係があったこと。
他の女と寝る時間を捜索に割いても良かった筈ですが、おそらくリンは『万が一すずが見つからなかったときの保険』です。
周作さんは、我を通す性格ではありません。……妥協策も用意していて、事が進まないとそちらに移行するタイプです。優しいようで実はかなり男らしさが強いと思いますが、まだ若いすずさんにはその辺の旦那の深層はわからなかったのでしょう。
 (3)
幼馴染であるが、異性であり、更に嫁いだ先の家です。夫もいるところに泊めるなんてことは本来あり得ないと思います。それは今でもそうですし、戦前なら尚更だと思います。普通で考えれば、周作の父がいればやはり泊めるわけがないと思います。
但し、水原が何で来たのかそれを思うと追い返せない。水原も周作も軍人です、情報は得ている。戦局が悪くなっているなか出航すればまず帰ってこれない。そんな出航に際し水原の心の残りがすずで、どうしても会いたくなり訪ねてきた。水原だって自分で非常識で厚かましいと思ってる。水原本人が一番悲しいはずなのに皆の前で無理に笑い続けているのが、みていると更に悲しい。
周作が、水原を家に泊めた、更に納屋に泊めすずを納屋に行かせたことは、色んな複合した意味があるように感じました。
・上記のまず帰って来れない海兵さんの出航前である
・周作はリンと恋仲になり結婚したかったが、それが叶わなかった為、じゃあということで昔の記憶からすずを指名して結婚相手にした(あるいみ周作の自分勝手?)その後ろめたさ
・水原とすずが仲が良かったのに自分が奪ったように感じた
以下は更なる見解
・周作はすずを信じていた、でももし何かあっても周作にも後ろめたさがあるので、もしなにかあっても仕方ない。このまますずにも心残りが残るよりは、良く話をさせた方が良い。結果、すずは水原からの思いを断る、すずは一緒に暮らして周作のよいところを感じ好きになっているから。水原もすずが幸せになっていると感じて心残りが無くなる。
「ああよかった」とほっとしたのが私の見解
でも周作はたしかに酷いよね。あとですずと周作が口げんかになってた。
生還できるかどうかも分からない軍人さんに対しての敬意と、自分の妻のことを、まだ想ってることを察して、同性として一夜だけ許すと決めたのではないでしょうか?
あとの判断は2人に任せるということで。
 (4)
自分も読みました。映画も観ました。
真相は作者であるこうの史代さんにしかわからないと思いますが、自分としてはすずさんと水原さんの気持ちをわかった上で、すずさんを信じて周作さんが気を遣ったのだと思います。


 ここに引っ張ってくるに際して登場人物の名前だけは訂正した。
 (4)の「真相は作者であるこうの史代さんにしかわからない」というくだりを読んで、俄然やる気になったね。〈作品〉は作者の意図を超えて客観的に存在する。その作品の価値と意味を読み解くことが〈批評〉の存在意義のひとつだ。
 これは戦時中という状況を考慮しなければはじまらない。従軍慰安婦の問題があるように、またシモーヌ・ヴェイユの計画した従軍看護婦部隊にしても、実際のそれにしても、役割としてそれが付随しているという以上に、支配層の思惑を越えて〈献身〉ということはあっただろう。いまだに靖国神社が高みに存在し、軍人だけを祀り、その他の戦争犠牲者は除外して、「英霊」といっているくらいだから、当時ならなおさらだったような気がする。
 そういうふうに言わないで、〈性〉ということでいうなら、現在のほうがはるかに乱脈で開放的なのだ。そこからいえば『この世界の片隅に』のあの場面はのどかで節度ある美しい話といえる。しかし、この展開がなかったら、良質の反戦作品にとどまっただろう。幼馴染の水原とすずのお互いの思いも、周作との出合い、求婚の経緯も、結婚生活もちゃんと描いているから、それが交錯する場面を描いたことがこの作品の〈独創性〉なのだ。
 水原にしても、子どもの頃から好意を寄せていて、結婚したすずを心配していても、〈死の覚悟〉がなければ、嫁ぎ先を訪ねることはなかった。また周作の方もそれを察して、受け入れたのだ。昭和前期の家族意識を考えれば、母屋に泊めず、納屋の二階を提供するというのも説得力がある。はじめから何の不祥事も起こるはずがない。そうでなければ義母も義姉も、周作の判断を容認するはずがないからだ。もちろん、すずの普段は見せない率直な振舞や水原の甘えが出るところもあるが、それはおおらかさなのだ。こんなことは日常のじぶんの振舞を思い返したら、すぐに分かることだ。妻や恋人でなくても、感情の流露はあるし、なにげなくふれあうことだって自然発生するかもしれない。異性間に限らず、ひとはそういうふうに他者と交流するものじゃないのか。意識的にも無意識的にも。
 後日、汽車の中で珍しくすずが水原のもとへ行かせたことを怒り、夫婦ケンカになるだろう。ここに周作の本音は出ている。この場面があることで、みんな救抜されるんだ。
 いまの若い人には想像もつかないかもしれないけれど、むかしはもっと家々の門戸は開かれていた。例えば、遠方の戦友が訪ねてきたとすれば、本人は留守であっても、泊めたことは確実だ。そういう遠来の客人をもてなす風習はどこでもあった。むろん、この場合は事情が異なるけどな。そういう共同体意識が解体しだしたのは、じぶんの経験からいうと、石油ショックあたりが潮目になっている。あれ以降世の中はどんどん世知辛くなったんだ。それ以前は学生の無銭旅行だって成り立ったんだからな。
 結婚に限っても、『ゲゲゲの女房』のモデルの水木しげるの場合でいえば、水木しげるは戦争でラバウルに出兵し、片腕を失い、戦後マンガ家になる。四十歳になっても独身だから、心配した鳥取の両親は見合い写真を持ってきて、結婚をすすめる。しかし、本人は貧困のどん底に喘いでいて渋るが、結局親の意向に従い、帰郷して見合いをし、結婚式を挙げて、嫁を連れて東京(調布)に帰ってくる。戦後でこれだから、戦中・戦前なら顔も見ないで結婚するケースなんてありふれていたはずだ。これが昭和という逝きし世の面影だ。時代が下るにつれて、知見は広がり、便利になったけれど、人品は下落し、肝は細るばかりのような気がするな、他人事ではなく。
 (1)は素朴な疑問でいいよね。(2)の解釈は、すずのことばでいえば「歪んどる」。文章というのは怖ろしいもので、対象について語っていても、実は自己投影でしかない面を持っている。「陰キャラ」云々なんて曲解だ。
 おまえがアニメとテレビドラマを見た印象で話をどんどん進めるので、危ねえとおもい、原作のマンガ(全3巻)を買ったぜ。
 まず、原作(マンガ)とアニメの決定的な違いは、呉の遊廓の娼婦白木リンと北條周作の関係はカットされていることだ。この判断は良いとおもった。これがあると、アニメとしてはストーリーが暗く屈折しすぎるからだ。また原作の初めの「冬の記憶」「大潮の頃」「波のうさぎ」の三作はそのひとつひとつが短編作品として独立した膨らみをもっているけれど、「この世界の片隅に」の連作になってからは、毎回8ページ程度という紙幅の制約もあって、時系列のプロットみたいな感じで痩せた印象を与える所もある。アニメはそれをスムーズな流れにみごとに組み変えている。これは片渕須直のアニメ監督としての力量の現れといっていい。
 細部でいえば「波のうさぎ」のラストにある、水原の代わりにすずが画いた海の絵が、水原の絵として出品されることになったくだりは、二人が納屋で一夜を過ごす場面で、水原がエピソードのひとつとして語る。これをあそこに挿入したことは、水原が鷺の羽根を土産にもってきた謂れをなし、それを羽ペンにする展開は、お互いの親密さを物語るものになっている。
 そうなると、周作がすずに行火(あんか)を持って納屋の水原のところへ行かせた場面の深刻度はかなり変わってくるな。
 (2)の解釈にも関連することだが、北條親子が浦野家に結婚を申し入れた理由ははっきりしている。母親が足を痛め、〈女手〉が必要だったからだ。
 周作が遊廓に通い、リンとなじみになり、仮に身請けを考えたとしても、鎮守府の官吏の周作には明治政府の中枢を占めた薩摩や長州などの明治維新の志士たちのように芸妓を身請けするような〈力〉はない。それに身内も周囲も許すはずがないのだ。薩長の連中は江戸と郷里は遠く離れていて、船や馬、あるいは歩いて行き来するしかなかったから、当然のようにその地で相手を求めただろう。その結果、身請けし妻にしたものも多い。大久保利通みたいに、地元で忌避されたこともあって、鹿児島から正妻家族を呼び寄せ、東京の愛人家族はそのまま別宅に、二重家族を営んだものもいるんだ。周作はリンを諦めたから、こどもの頃に出会ったすずに求婚することにしたのかは審らかではないけれど、それが動機の背景にあることは確かだ。
 要するに、原作にはそれがあるから、事情は複雑だと言いたいのか。
 周作が「もう会えんかも知れんけえのう」といって行火を渡し、水原のところへ行かせ、母屋に鍵をかける。そのときのすずの表情が内面の陰影を象徴している。
 そして、水原がすずを抱き寄せ、
 「すず すずは温いのう」
 「柔いのう」
 「甘いのう」と囁きかけるが、すずは「……水原さん うちはずっとこういう日を待ちよった気がする……」
 「でもこうしてあんたが来てくれて こんなにそばに居ってのに うちは」
 「うちは今 あの人にハラが立って仕方ない……!」とすずが拒絶し、終止符が打たれる。
 三角関係ということでいうなら、夏目漱石の『行人』で、猜疑心にかられた一郎が、妻のお直と弟の二郎の仲を疑い、二人を無理矢理和歌山に赴かせるだろう。あれにはどこにも救いはない。テレビドラマは、周作と水原が出会う場面を設定していた。周作が同僚とレストランで食事をしていると、陸に上がった水兵たちがやってきて、他の客などおかまいなしに我がもの顔に振る舞う。これに周作が抗議し悶着が起きるが、そこへ水原が現われ、仲間を諌め、その場をおさめるんだ。これは水原の突然の訪問を緩和するために、脚本家(岡田惠和)が補足したものだ。こんな凡庸な脚色は必要ない。
 海苔作りや水汲み、日々の暮らしや風景のひろがりも丁寧に描かれ、全体的に民話ふうのつくりで、それがのびやかな魅力だ。初めて里帰りしたすずが寝ぼけて「あせったあ……呉へお嫁に行った夢見とったわ」というところがあるだろう。すずにとってまだ実家が心休まるところで、それがしだいに嫁入り先がじぶんの居場所になってゆく。これがこの物語の普遍性であり、基底なのだ。
 メイン・テーマでいえば、昭和天皇の玉音放送を聞いて、すずは「……何で?」という。近所の人々は広島と長崎へ新型爆弾も落とされたしの、ソ連も参戦したし、まあかなわんわ、というけれど、
「そんなん覚悟のうえじゃないんかね?」
「最後のひとりまで戦うんじゃなかったのかね?」
「いまここへまだ五人も居るのに!」
「まだ左手も両足も残っとるのに!!」
「うちはこんなん納得出来ん!!」といい、外へ出て、
「それがこの国の正体かね」
「うちも知らんまま死にたかったなあ……」と、慟哭するのだ。
 そう、これが「この国の正体」なのだ。
 日本はいまだに「終戦記念日」などと言っているけれど、ほんとうは「敗戦の日」なんだ。昭和天皇の玉音放送にしたって、その全文をみれば分かるように、自らの責任逃れの色合いも含まれている。なにが「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」だ。
 一九四五年三月一〇日 東京大空襲。死者推定一〇万人。
 同年五月七日 ドイツ軍無条件降伏。
 同年七月二六日 日本に戦争終結の条件を示し降伏を勧告するポツダム宣言発表。
 同年七月二八日 鈴木貫太郎首相、記者団に対して、ポツダム宣言を無視し、戦争の継続を表明。
 同年八月六日 広島に原子爆弾投下。
 同年八月九日 長崎に原子爆弾投下。
 同年八月一四日 御前会議、ポツダム宣言受諾を決定。アメリカ、イギリス、ソ連を中心とした連合国は、天皇制にたいしては直接ふれることはなく、存続されることとなる。
 同年八月一五日 天皇、戦争終結の詔書放送(玉音放送)。第二次世界大戦、太平洋戦争終結。
 いまさら、七月二六日のポツダム宣言をすぐ受諾していれば、広島・長崎への原子爆弾の投下は回避できたなどと言っても仕方ないかもしれないが、この作品でいうと、すずの父も母も兄・要一も死んだ、おそらく水原も死んだ、義姉の子・晴美も死んだ。リンをはじめ朝日遊廊の娼婦たちも死んだ。歴史的な現実としていえば、夥しい犠牲者を出しながら、それでも日本の支配層は延命したのだ。
 おれは何度でも言う。戦争は国家の民衆に対する最大の政治的暴力なのだ。
 まあな、大衆と政府の関係は模写と鏡だ。国家という共同幻想の呪縛は強力で、人々はどこまでも国家を信奉しつづけるかもしれない。またあの戦争は軍部が主導したもので、天皇には戦争責任はないというけれど、そんなの大嘘だ。統帥権は天皇に属していて、天皇の承認なくして開戦はありえない。一九四一年一二月八日に「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有?ニ示ス 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス」と開戦の詔書を発しているのだ。
 欺瞞が、この国の特性かもしれないね。
 一九四五年九月一五日 文部省、国体護持・平和国家建設・科学的思考力の養成を強調した「新日本建設の教育方針」公表。
 同年九月二二日 アメリカ政府、実質的なアメリカの単独占領にもとづく「降伏後における米国の初期の対日方針」発表。非軍事化・民主化政策を基調とする。
 一九四六年一月一日 天皇、「年頭の詔書」発表(「人間宣言」)。
 同年一一月三日 日本国憲法公布。
 ドイツの降伏を受け、日露不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連軍が侵攻してきた。もしこれがもっと早い段階だったら、北海道はソ連の占領となり分割されていたかもしれない。そうなっていたら、いまの南北朝鮮みたいに津軽海峡を境に対立関係になったことは確実だ。それは北方四島の領土問題などよりはるかにシビアなものになったはずだ。それを克服するなんて「この国の正体」からして不可能だとおもう。それは沖縄に対する日本政府の不当な対応をみていても分かることだ。
 まあな、戦前の関東大震災においても、井戸に毒を入れたという流言のもと、在日朝鮮人を虐殺している。これがこの国のサディズムだ。良い方向のことでいっても、戦後革命のひとつともいうべき「農地改革」や「財閥解体」は占領軍(GHQ)がやったことだ。自力でそれを成し遂げる実力は残念ながら無いといっていい。日本に限らずヘーゲルの規定した人間的尊厳の稀薄な極東アジアが、マゾヒズムのいじけた構図から抜け出すことは難しいような気がする。敗戦の疲弊とへこみをしだいに元に戻すことが自民党をはじめとする保守派のやったことであり、いうまでもなく戦後憲法は日米安保条約とセットだ。
 日本は被爆しているのに、国連の核兵器の開発・保有・使用を禁じる「核兵器禁止条約」に、核保有国が加わっていないからという屁理屈をつけて批准していない。違うだろう、ほんとうは世界の先頭に立って、「核兵器禁止条約」を推進すべきなのだ。核保有国がこれに加わらないのは、批准すると自国の核兵器を廃棄しなければならないからだ。こういう条約を推し進めることが軍事大国を包囲していくことにつながるんだ。これひとつみても「この国の正体」がわかるというものだ。
 戦争当時、こんなことをいってみろ、「不敬罪」で連行され、拷問を受けたあげく極刑だ。なにしろ大日本帝国憲法では天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」の「現御神(あきつみかみ)」だからな。その〈怖ろしさ〉を戦後生まれのわしらは知らない。それはいいことだ。いまの天皇が皇太子の時、歌手の柏原芳恵に花束を手渡したり、あの手のタイプが好みで雅子妃を迎え、『ビッグ・コミック』の表紙に登場した。「御真影」下賜を考えれば、これは悪い流れじゃない。
 日本政府が批准しないのは、アメリカに対する忖度であり阿りなんだ。独立国の気概もなく、経済優先主義の狡猾さをさらけだした、破廉恥の極みさ。これらの要素は、おれたちにも内在する。だからといって、日本も世界もこのままでいいはずがない。大衆的な基盤にもとづいて、いまの自由を拡張するためにも、おれたちは思ったことを言うべきなんだ。それはアメリカに対しても中国に対しても変わりはしないさ。
 『この世界の片隅に』を読んで、母の生涯を想い浮かべた。母は大正二年(一九一三年)生まれで、すずより年上だ。実家は男三人女二人で五人きょうだいの二番目で、上の弟は戦死している。それで同じ村の下の家へ嫁いで来た。四国の山の中なので、空爆を受けたことはなかったが、出征する村人を見送り、貧しい暮らしのなか、いろんな物資の厳しい「供出」で難儀したはずだ。上空を通過する米軍機を見上げたり、一九四五年七月四日の高知大空襲の時は、南の山の向こうから遠雷のように爆撃音が聞こえたかもしれない。母の名は喜代(きよ)という。
 最後の右手を失った浦野すず作「鬼イチャン冒險記」の挿入は、作者の遊戯(ゆうげ)のあらわれで、気に入った。無敵の兄・要一は南の島に漂着し、鰐の嫁さんと暮らしている、とな。こうでなくちゃ。
 周作とすずは、広島の戦災孤児を連れて呉へ帰る。これが死者の鎮魂にあたるように。                          (2020年10月30日)
                 『続・最後の場所』9号2021年6月発行掲載


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「『この世界の片隅に』をめぐって 松岡祥男」 ファイル作成:2023.03.29 最終更新日:2023.04.20