加藤典洋評価など

松岡祥男

 ハイサイ。
 なんだよ、それ。
 沖縄の上原(昭則)君からの手紙が、いつもこの挨拶から始まるんで真似てみたんだ。彼は市役所定年退職後、自治会の世話役をやっていて、具志の公園近辺に体長2メートル近いハブが出たそうだ。彼の手紙にもあったけど、比嘉加津夫さんの追悼集『走る馬』(琉球プロジェクト)が刊行された。
 うん。文学関係だけでなく、仕事がらみの人たちも登場していて良かったよ。そこに比嘉さんの人柄が表れているような気がした。
 比嘉さんの地元におけるポジションみたいなものも分かったような気がしたな。琉球大学や「沖縄タイムス」と「琉球新報」という二つの新聞、おそらくその文化圏が主要な位置を占めていて、『脈』のような雑誌はマイナー。
 だけど、沖縄は同人誌の発行はいまだに盛んだ。そういう中では突出していた。『脈』と『Myaku』が合体して以降は、三〇〇部くらいの発行部数だったとおもうけど、完売の号も少なくないからね。雑誌として自立していた。それは比嘉さんの手腕だ。
 写真をみると、比嘉さんはサッカーのブラジルのマラドーラに似ているな。
 『脈』の表紙裏に、『吉本隆明資料集』の広告が毎号掲載されていただろう。あれはね、比嘉さんが《『資料集』はあまり知られていません。『脈』に広告を出します。嫌だといっても載せます》とFAXで言ってきたからだ。
 そうなのか。比嘉さんが亡くなったことで、『脈』一〇五号の「『吉本隆明資料集』と松岡祥男」という特集も幻になったな。
 うん。正直、ほっとしているよ。恥しいからね。
 おまえ、そんな殊勝なことをいっても、誰彼かまわず咬みつく野犬がおまえの通り相場だ。いまさら、評判は変わりはしないぜ。
 比嘉さんはやるといったらやる人だったから、こちらも覚悟を決めて、全面的に協力することにした。それで比嘉さんと約束したのは「自選詩集」と「略年譜」の提出だった。詩の方は手つかずだけど、「略年譜」は「著作リスト」というかたちで、吉田惠吉さんの主宰する「隆明網」にアップしてもらった。
 『脈』に限らず、雑誌の難しいところは、読者はお目当てのものしか読まない。極端な場合、じぶんのものしか関心がない。書き手即ち良い読み手とは限らないからだ。だけど、雑誌発行者は全部読んでもらいたいと思っているものだ。
 おれが思うには、ページ数にしてA5一二八ページくらい、執筆メンバーは七人くらいが、その限度のような気がする。それ以上になると、興味のあるものしか目を通さないんじゃないかな。比嘉さんが重い病気を抱えながら奮闘していたことすら知らない人もいたからね。
 一般的な商業雑誌は売れることが第一だから別として、同人雑誌は厚くなるのは弊害も伴うような気がするな。その限界を突破しようとするのは当然だとしても。それと雑誌は発行ペースを守ることがとても大事だ。比嘉さんは「沖縄建設新聞」の経験を踏まえて、定期発行を崩さなかった。これは凄いことだ。
 そういう業績もあるけれど、最後は人間性じゃないのかな。比嘉さんは一九四四年生まれ、翌年沖縄本島へ米軍上陸。『脈』の創刊は「復帰」の一九七二年だ。職場結婚の奥さんが背後でしっかり支えていたような気がする。もっともっと長生きしてほしかっただろうけど、とても愛されていたようにおもう。
 松本大洋『東京ヒゴロ1』を読んだ。マンガ編集者が会社を退職して、改めて仕事と向き合う話だ。なんといっても、マンガと縁を切るべく、すべてのマンガ本を処分するため、古書店の人に値踏みをしてもらっていて、最後の段ボールに入れた本がばらけ落ちて、売るのをやめる場面だ。それが象徴するように、随所に作家と作品に対する愛情が滲み出ている。いわば永島慎二の『漫画家残酷物語』の現在版だ。この中の「みやざき長作」は、『竹光侍』の岡っ引きの「恒五郎」と同じだ。作者はこの人物(あるいはモデル)が好きなんだと思った。「ねえ、知ってる? 塩澤君。人は誰でもいつか死んでしまうみたいよ。」という女性漫画家のセリフがあって、ハイデッガーの『存在と時間』だと思ったな。
 〈世界―内―存在〉だね。すぐ上の兄が死んで、おれが喪主を務めた。実家に住んでいた独身の兄が急性腎不全で救急搬送され、人工透析が必要となった段階で、それがおれの役目と思った。風来坊で、きょうだいにさんざん迷惑をかけた困った兄貴だったけど、晩年は母の介護をやり、その最期を看取った。そして、生まれ育った家で暮らすことができて本望だったとおもう。おれとは違って、村の人ともよくつきあい、地勢にも通じていた。家の周りの畑で芋や野菜を作っていたけど、あまり収穫できなかったようだ、猪やカラスにやられて。おれは蛇が苦手で見ただけで怯えるけど、兄は蝮を捕まえ、蝮酒を作っている所に買い取って貰っていた。野性度が全然違う。猪を仕留めても、それをうまくさばいて肉にできないと言った。やみくもに解体しても筋張って食えたものじゃないからね。そういう暮らしの中の叡智の伝承も廃れる一方だ。人工透析のためバイクで通院していて、その途中で車に追突され、救急車で運ばれた。なんとか一命は取りとめ、意識は回復したけれど、話ができるようにはならなかった。コロナ感染のせいで、殆ど面会できなかったことが無念だ。もはや死は病院と医師の支配下にある。それに逆らうことは難しい。それが痛切な実感だな。
 大きな支障もなく、納骨できたことはなによりだ。
 うん。兄は職を転々とし、土方暮らしだった。きょうだいに甘え、金を借りたり、酒を飲んで暴れたりしたけど、身内以外からは借金しなかった。また泥棒まがいのこともやらなかった。それには理由があって、ガキの頃、村はずれの家に年上の男の子がいて、なぜか遊んだ事がない、まるで別の集落の奴みたいだった。そいつが学校の行き帰りの途中にある家に上り込んで、家の中を物色しているところをその家の人に見つかり、「おまえはどこの子じゃ」と問われて、「上屋敷のシゲ」と応えた。つまり、兄の名を騙ったんだ。狭い村だから、すぐ真実は明らかになった。この濡れ布を着せられた体験が他人の物を盗むような行為を拒絶させた。
 しかし、おまえらは柿や西瓜、畑荒らしはやっただろう。
 そこは微妙に次元が違うんだ。そんなの、悪戯の範疇だからね。
 だけど、おまえはそんな兄たちの山や川の遊びから除け者にされていただろ、足手まといになるから。
 うん。よくはわからないけど、たぶんどこか病気で自然治癒したんだろうね。そのため体が弱いとみなされていたようだ。
 そこでも落ちこぼれということだな。だから、より内に籠るようになった。そのなれの果てがいまのザマだ。
 そんな実も蓋もないことを言われると、返答に窮するよ。笑っちゃうような逸話もあって、兄はおれと同級だった下の家のサダとつるんでいて、岡山の居酒屋かなんかで知り合った女医さんと意気投合した。そして、その女性が兄を追い掛けてきた。サダが「シゲさん、そりゃ、相手が違い過ぎる」と助言して沙汰止みになったらしい。
猫 人は見掛けに拠らないからな。小さなドブ川を挟んだ向こうの二軒の家が取り壊された。その作業を見ていたら、一軒を受け持った解体業者は物凄く手際が良く、働いている者もキビキビしていて、パーフェクトな仕事ぶりだった。一方その隣になると、爺さんが仕切っていて、手伝っている若者もだらしなく、ぐずぐずして三倍以上の手間を要したうえに、もう少しで火事を出しそうだった。同じ仕事をしていても怖ろしく違う。同じ頃、高級官僚どもが政治家の意向を忖度し、虚偽の答弁を繰り返していた。その虚しさと較べると、建築現場の優秀な若衆の方がずっと真摯で、輝いていたぜ。
 そんなことをいっても、通用しないよ。それにどう考えても、おれはそのだらしないグループに属するからね。おれが思うに、ひとがもっとも嫌悪し忌避するのは、じぶんと似た人物だ。もうひとりの自分なんて見たくもない。主体に内化されているから、ナルシシズムみたいなものも成り立つんだろうし、その裏返しだとしても、それが実在したら、たまったもんじゃない。それはジャック・ラカンの鏡像段階という設定とは異なるさ。きょうだいというのは、似たところがあるけど、違うところも当然あるから、それが救いなんだ。
 屈強な肉体を持ち、屈託のない性格の人物に憧れるのは分からないことはないが、錯覚だよ。三島由紀夫が文弱の徒であることを否定し、自己鍛錬して体質改善を図ったけれど、大いなる勘違いだと思うな。一般的に左翼系が知的で陰険だとすると、体育系というのは健康的で従属的だ。それは体育教師のバカさ加減と暴力で経験済みのはずだ。ましてや、隊員を募り、軍隊の真似ごとをやるなんて、愚かなことだ。決死というところが特攻兵士の後追いだとしても。同じような悲劇的な出自を持っていても、太宰治の方がほんとうは強靭なんじゃないかな。この世の縁が尽きるまでという吉本隆明の思想と流儀が、自滅の悲劇の作家よりもいいことははっきりしている。
 その吉本さんのことだけど、西伊豆の海の事故を契機にして、『試行』終刊でそれまでの〈突っ張り〉をしだいに解除していった。安原顕が『噂の真相』という醜聞雑誌で三大紙には書かないといっていたのに、「毎日」や「朝日」に出たといって批判したけど、的外れもいいところだ。何も分かちゃっいないのさ。七十代半ばになり、そんなことに拘る必要もなくなったのさ。じぶんはこういうふうにしか生きられなかったけど、「もうごめんだ!」と思っていた。「幸福三老人」といって、鶴見俊輔・小島信夫・安原顕に批判的だった、三人とも老後生活は楽しいといったからだ。老いの実態は苦しいことの連続で、良いことなんて少ないという思いから出たものだ。まあ、老いぼれることもまた楽しからずやと思っていても、いいと思うけどね。ただ、安原がほんとうは末期癌なのに糖尿病だなんて、嘘を書いたのは理解し難い。そんなことまで虚飾するところが悲惨な感じがした。それに較べたら、村上春樹や吉本隆明などの生原稿を売ったことは、おれが編集者だったら、そのプライドにかけて、そんなことはしないだろうが、生きてゆくうえで、困窮したらかっぱらいでもなんでもやるしかないから、別に倫理的に非難するつもりはないよ。
 吉本隆明が言ったように、死との闘いは負けるに決まっている。
 袋小路に入りそうになったら、初発の契機に立ち返ればいい。

昨日のおれの愛は
今日は無言の非議と飢えにかわるのだ
そして世界はいつまでだつておれの心の惨劇を映さない
殺逆と砲火を映している
たとえ無数のひとが眼をこらして
おれの惨劇は視えないのだ
おれが手をふり上げて訴えても
たれも聴えない
おれが独りぽつちで語りつづけても
たれも録することができない

おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもつて遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といつたらみんな武器をとつてくれ
                      (吉本隆明「恋唄」)

 そうだな。「定本詩集」(『吉本隆明全著作集1』)は決定的な何かだった。
 長崎の西村和俊さんが自家栽培した西瓜を送ってくれた。それと一緒に詩やその他の資料もあったんだけど、その中にこんなのがあった。

  吉本親鸞説というのがあります。現代の親鸞になるためには、吉本さんはまだ何か一個付け加えなくてはならないのです。
  アメリカの9・11について、吉本さんは、加藤典洋さんとの対話で「存在倫理」という考え方を加えました。ただしまだ一個だけかけていました。
  それは親鸞には唯円がいましたが、吉本さんに唯円がいるかどうか、ということです。
  今回は吉本隆明さんを追悼するおしゃべりでした。
                   (「いのちを考えるセミナー」芹沢俊介発言)

 これは吉本隆明が亡くなった時に、芹沢俊介らが独自にやった集いでの発言だ。芹沢はいったい吉本隆明のなにを読んできたのだろう、またどんな思いで吉本隆明と交流していたのだろう。じぶんを唯円に擬したいのかは審らかではないが、この考え方でいけば、親鸞には蓮如という中興の祖が不可欠だったと言い出しかねない。そもそも「吉本親鸞説」などというものがどこで流布しているというんだ。これは『文學界』のあの卑劣な「吉本さんとの縁」という一文とセットだ。
 芹沢俊介がなんと言おうと、親鸞は親鸞、吉本隆明は吉本隆明さ。おまえが吉本隆明を敬愛していたって、おまえはおまえであるように。芹沢は小形烈『私の吉本隆明』の推薦文を書いていただろう。
 小形烈の本はゆとりある大人の読書録みたいなものだ。本好きが好きな本について、まっとうな感想を綴っている。その懐手(達観)が気に入らないといえばそれまでだけど。
 その中に埴谷雄高についての文章があるだろう。反核運動からコム・デ・ギャルソンまでをめぐる埴谷との論争に関連して、吉本隆明が「埴谷雄高さんは、ウエーバーは読んでいるけどマルクスは読んでいない」と言ったという。
 埴谷雄高は戦前の日本共産党の中枢にいた。それがマルクスを読んでいないというのはなんとも言い難いね。おそらくレーニンやスターリンを指針にして、活動していたんだ。
 埴谷はかなり読んだが、ヘーゲルやマルクスの痕跡は認められないからな。
 レーニンらのロシア革命にはじまり、戦前の日本共産党から連綿と受け継がれた「非合法活動」ということが強く影響していて、変名の使用や仲間との連絡にも神経を使うような習性があるだろう。手紙はもとより、証拠となるようなものは残さないという流儀も、その名残りのひとつだ。おれはそんなことには一切頓着しない。どうでもいいようなおれでも、公安筋は要注意人物とみなしているらしく、いろいろあったからね。当局はよく調べていて、客観的にはじぶん以上に知っている。しかし、そんなことは何も怖れることはない。ふつうに振る舞い、知られたら困ることなど何もないからだ。それが奴らの思惑や職務を超えることだ。
 おまえは政治党派に属したことはないし、学生運動の傍らにいたにすぎないからな。それよりも、この情報管理社会ではもうそんなレベルは良い意味でも悪い意味でも完全に凌駕されているぜ。アメリカの強大な通信傍受システムを持ち出すまでもなく。日共なんて大衆の命運とは関わりのない、「獄中十八年」をいまだに抱え込んで、しがみついているが、アナクロニズムもいいところだ。
 実をいうと、おれ、字を書くの、嫌いなんだ。下手だし、書き間違いや脱字も多い。それに目は疲れるし、肩も凝る。だから、手紙のやりとりはできるだけ避けていた。少し筆まめになったのはワープロのお蔭だね。
 それでよく文筆をつづけてきたな。
 考えるのは頭の中だからね。ほんものになるには手で思考するようにならないといけないんだろうけど。この家に引越してきた頃、東隣のアパートに飲み屋に勤めるおばさんが住んでいて、やくざあがりのおやじがヒモみたいに同居していた。そのおやじと近くのアーケードですれ違ったとき、酔ったおやじがいきなり「おまえはそれでも日本人か!」と言い放った。その時、なんの因縁もないのに、どうしてそんなことを言うのか、不可解だった。それからしばらくして、北隣の鉄工所が物凄く大きな換気扇を設置し、それがアパートの隣のばあさんの家の玄関口に突風のように吹きつけるようになった。塗料の臭いも混ざっているから、とんでもないことだ。見かねたおれは鉄工所に苦情をいい、撤去させた。この一件で、おやじの態度は変わった。
 まるで義の人みたいじゃないか。
 そんなんじゃないよ。ウチだって臭かったからね。その後、思い至ったのはなんのことはない。あのおやじに警察の連中が「隣の松岡はアカで、しかも過激派だ」と吹き込んだんだ。それで戦中生まれのおやじは「この野郎」と右翼的に思ったんだろうね。商店街の惣菜屋などにも情報を流したみたいで、つきあいもないのに、おれの交友関係まで知っていて、「大膳町に兄さんが……」なんて言われたからね。鎌倉さんのことがそういうふうに伝わっていたんだ。
 ばかばかしい話だ。
 ばかばかしさついでに、高知の文化人のことをいえば、ふだんは思想的でも社会派でもないのに、選挙になると、日共系候補の後援会活動を手伝ったり、「再販制度見直し反対」なんかの署名を集めてまわるからね。それがどういうことなのかも考えもせずに。ほんとうに日共支持ならそれでいいけれど、そうじゃない。どうしてこんなことをやっているんだというと、「頼まれたから」。アホらしくて、取り合う気もしねえ。要するに、連れション文化圏なのさ。
 そんなことを言うなら、「中央」だって似たようなものだ。概ねその時々の主題への競合とおもねりの、モードの中の論調だ。例えば加藤典洋が亡くなって、彼の9条をはじめとする憲法論議を、瀬尾育生や神山睦美らが芋づる式に持ち上げるだろう。加藤典洋の著書をあまり読んでいないから、発言の資格に欠けるかもしれないが、加藤の憲法論も戦後論も、国家と社会の関係をはじめ、いろんな層と実相を切り捨てた〈上げ底〉論議で、本格的な戦争論にも戦後論にもなっていないような気がする。その決定的な要因は、国家に躓いたことがないからだ。その証拠に、『敗戦後論』に対する大西巨人の批判にすら対応できなかったじゃないか。大西巨人の発言は痛切な戦争体験と実感に基づくものだ。それすら納得させることができないで、どうやって、そんなことを考えたこともない大衆の存在様式から頑迷な「国粋」主義者までを貫くようなものになるというんだ。加藤の企画した『思想の科学』の討議「半世紀の憲法」ひとつみたって、それが戦後世代のリベラルな解釈と主張にとどまるのは明白だ。吉本隆明との差異はここにはっきり現れている。
 江藤淳の無条件降伏否定論だって、日本の敗戦とその戦後過程を消去したいだけなんだ。その否定意思によって、実際の戦後社会とはかけ離れた、倒錯の結論に至っている。いまさら「日本は負けていない」なんて外交文献上で言い張ったって、どうしようもないだろう。そんなことで日米の力関係はひっくり返りはしない。また『漱石とその時代』第3部第4部でいえば、朝日新聞社の漱石の処遇に過剰にこだわり、夏目漱石の伝記というメイン・テーマから大きく逸脱している。つまり、いまの言論界の現状と構図に対する不満に捕われて、不毛の穿ちに堕した。まあ、もともと『成熟と喪失』の「男性原理」「女性原理」なんていうのは本質的には成立しないし、それと同じように、ここではソシュールの言語論の概念が密輸入されている。そうすることによって、処女作『夏目漱石』以来の実績を自ら形骸化していったんだ。
 江藤淳も悲劇的だからな。フロイトの精神分析が怖かった。おのれの資質的な闇に射し込んでくるから。
 話を戻すと、加藤典洋の村上春樹論の右に出るものはないだろう、そのトータル性において。その前提のうえでいえば、意味論的に読み込みすぎていて、それが難点のような気がする。確かに村上春樹は『羊をめぐる冒険』によってストーリーに重きをおき、一般性を獲得していったけれど、『風の歌を聴け』にみられるような直喩と暗喩を使った短章を連ねた初期作品の方が、表現論的な可能性は大きかったともいえるからね。村上春樹の初期作品の評価では、佐々木マキの言及がもっともその本質を衝いたものだ。村上春樹の長編作品のベースとなっているのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』といっていい。沈鬱で停滞気味の世界なんだけど、これが村上ワールドの骨格だ。アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の影響が濃厚だ。
 あの頃ははまっていたからな。『1Q84』後、批評的関心は残っていても、ただの読者としては読む気がしない。加藤典洋は『アメリカの影』でも分かるように鶴見俊輔を基調に置いていて、おそらくヘーゲルもマルクスも埴谷もそんなに読んでいない。それが『共同幻想論』との違いだ。
 《現人神のご真影を守れと/不自由な美術展への恨みをはらすべく/手術台に蝟集した三人の男/ひとりはメスをタクトに美容外科の院長/ひとりはきたない方言もどきをしゃべる市長/ひとりは正体不明の維新の元県議//リコールのたくらみの/仕掛けた知事の解職請求に/あてこんだ麻酔薬が過剰にあふれ/オペレーションの失敗は白日にさらされ/血糊の手術台から滑り落ちる三人》(成田昭男「手術台の上のへんてこな三人」『げんげん』創刊号)。愛知県知事リコールをめぐるスキャンダルを批判した詩だ。《きたない方言もどき》なんていう細部は地元のものじゃないと分からないからね。成田はお人好しだから、情緒的にまとめているけど、もっと切り裂くべきなんだ。
 名古屋市長って金メダルを齧って顰蹙を買った野郎だ。東京オリンピックのJOCの面々をみていても、橋本聖子の選手擁護を別にしたら、山下も丸川も武藤も「わしらパーでんねん」だったからな。
 ソフトボールは全試合見た。見たといってもアメリカとの決勝は、高知では地上波のテレビ放送が無かったからラジオで聞いた。6回のピンチでダブルプレーになったところはよく分からなかった。あとでテレビで見たら、サードの腕に当たり、撥ねたボールをショートがキャッチして、セカンドに転送してダブルプレーになった。これが勝負を分けた。リリーフでチームを支えた後藤は、あの回顔面蒼白だったとエースの上野が言っていた。じぶんの球が通用しないと思ったんだ。メダル齧りの件は後藤本人は笑っていたから、まあいいけど、リコール署名偽造問題は謝って済む問題じゃない。
 当然のことながら、盛り上がりに欠けるオリンピックだったけど、スケボーにはじまり車椅子バスケットまで見た(開会式・野球・サッカ―・柔道は無視)。だけど、莫大な借金(浪費)の責任は誰もとりはしない。権力者としてやりたい放題、その不正が露見しても居直り勝ちの巨悪を推進したのは、言うまでもなく安倍晋三だ。さらにいえば、こいつら二言目には「有事」っていうだろう。「有事」のような事態を解消することが政治の役目なのに、こいつらがもっとも危機的な状況を望んでいるとしか思えない。その方が国家支配と政治統制に都合がいいからだ。ふざけるじゃないぜ。保守派的な言い方をしても、「国威」ってのは人々を少しでも豊かにし、諸個人の自由を拡大することだ。こいつらのやっていることは逆だ。なにか問題が起これば、後追い的に法的規制を加え、管理と抑圧で体制を取り繕っているだけだ。そういうふうにすればするほど、人心は荒廃し、詐欺と泥棒の横行する社会になるんだ。迎合的なマスコミが建て前の嘘で被覆するから、その裏側で匿名による誹謗中傷が蔓延するのと同じだ。いまや防犯カメラなくして犯罪(事件)の解決は覚束ない有様だからな。吉本隆明はその柳田国男論の結論として「中間が連続する」といった、こなれない言い方だけど、指していることは明瞭だ。〈信〉をおくのはそこしかない。
 そんなことをいうなら、アメリカはアフガニスタンの二〇年間に渉るタリバンとの闘いに敗北した。これはアメリカや西欧の現代資本主義の論理とその世界戦略が破綻したということだ。敗けて撤退しているのに、なんだかんだ注文をつけたって、みじめな遠吠えにすぎない。極東地域でいえば、中国包囲網だってうまくいく保証はどこにもないさ。台湾をめぐって切迫するかもしれないが。
 それぞれの歴史段階の差異と断層を軸にした混乱になるのは必定だ。中国も北朝鮮もどこが〈人民共和国〉なんだ、一党独裁の〈アジア的専制〉の変種にしかみえない。日本(政府)は小狡いだけだ。まあ、空模様について一喜一憂しても仕方ないけどな。
 その空の下に生きているとしてもね。
 「なにもみえなくなった/あぶれた敗残の午後/標べのない路頭はだらしなくひろがっている/われわれの反抗はかききえて/穏やかな空に時計塔はそびえている/処分の下った日 ただちに/われわれは追手前高校の時計台を占拠し/叛逆の旗をうちふり/不当処分を粉砕するために/公教育の打倒めざし学校を破壊するとアジりながら/校門から攻めてくる機動隊めがけ/火炎ビンや石つぶて/われわれのいっさいをぶちつけて/砕けちればよかったのだ/歳月は砂のようにこぼれ落ちた/処分撤回の裁判の法廷に立ったのは父兄だ/われわれは裁判闘争の向こう側にいた/潮がひくようにそれぞれにわかれた共犯者よ/もしおれが憎悪なくしたら捨ててくれ/もしおれが暴発したら黙ってうなづいてくれ/手は指先からふるえだし/顔は屈辱に燃えるから/少女よ/泥酔のさなかなら/狭い通路で肩をおさえつけ/くらみながらだきしめられる/おお ひとたびつまづいたら/いつまでも倒れているのさ/こわいなら/ひとりごとがこぼれ落ちる/さけび声がほとばしる/和解なんてごめんだ/もしおれが崩れはてたら祝福してくれ/もしおれが死んだら忘れてくれ」(松岡祥男「穏やかな日に」)一九七一年のことを一九八〇年前後に書いたものだ。それだけの時間が必要だったということだ。
 その後、それぞれに苦しい道をたどった。それには優劣はない。おれはそう思っている。
 体験も記憶も風化する、それはいいことだ。それでも芯のように残るものが、いまも支えているものだ。『鬼滅の刃』の愈史郎の「人に与えない者はいずれ人から何も貰えなくなる 欲しがるばかりの奴は結局何も持ってないのと同じ 自分では何も生み出せないから」というセリフは、久しきわが思いと合致する。
        『風のたより』24号2022年1月発行掲載(原題「この空の下に」)


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「加藤典洋評価など 松岡祥男」 ファイル作成:2022.12.12 最終更新日:2022.12.25