北川透の末路および白土三平追悼

松岡祥男

 二〇二一年の衆議院選挙は予想通りだったな。菅から岸田に表の顔(首相)を変えたことと、一応コロナ感染が収まりつつあるという、絶好の時期をとらえたところが自民党安泰の要因と思った。マベノマスクをはじめ、あれほどひどい後手後手の新型コロナ対策だったが、愚図の菅から岸田への過程で、総裁選をやったのも大きかった。派閥の争いとはいえ一応それぞれの利害と思惑が表面に出て、開かれた印象を与えたからだ。それに対して立憲や共産党は政権交代の機運などどこにもないにも拘らず、それを掲げたが相手にされるはずがない。またコロナに関しても、政府を批判するだけで、なんにもできなかったし、しなかった。われわれの無力とは異なり、彼等はより良い方法があれば提案することも実行を迫ることもできるのだ。共産党は開催直前になってオリンピック反対のデモを組織した。愚の骨頂だ。反対するなら誘致段階から反対すべきだ。コロナから人々を救うことが最優先事なのに、それすら忘れた方針を出したんだ。
 勝ったのは維新だ。大阪での支持は絶大で、それに加えて、元代表である橋下が連日テレビに出て、わりとまっとうな見解を述べて広告塔になったからだ。これが比例区の得票につながった。 猫 岸田政権は長く続く可能性があるな。これからますますバカバカしい事態がつづくだろうが、これがいまの日本の〈現状〉であることを認めることだ。そのうえで、この一般的な状況に決して同化するつもりはないし、わしらは「否!」と言いつづけるしかないんだ。
 成田昭男さんから『GenGen(げんげん)』二号(二〇二一年一一月発行)が送られてきた。その中の「わたくしのなしたる文芸的非法行為もしくは『最後の手紙』への返信」に、次のようなことが書かれていた。

 むかし詩誌『菊屋』で毎年「菊屋まつり」を開催していました。その「菊屋まつり」(1986年10月19日)に吉本隆明氏をよんで、若手批評家たち(加藤典洋、竹田青嗣、橋本[ママ]大三郎)とのフリートークをしてもらおうという企画があがり、菊屋同人末席のわたしにもそこに出ろということで参加し発言しました。その全面的記録を『菊屋』34号、1987年2月で公表しました。
 それから10年以上たって、これを『吉本隆明資料集』に無断で収録することがわかり、元同人の瀬尾育生氏から、わたしの考えを問う手紙がきました。わたしは二つだけ条件をあげました。「(1)原文のままの収録であること。(2)お金儲けにしないこと」。それが満たされるなら『吉本隆明資料集』への収録を認めていいのではないかと返事をしたように記憶します。
 『菊屋』34号が出て、そこから15年近くたち、これを読みたいとねがっても、該当号は入手できないし、『菊屋』を所蔵している図書館などどこにもないでしょうから、それを収録した資料集が非法であったとしても、読者の切実な求めに応えるものになるだろうということは理解できていました。

 これで、おれの北川透との闘いは終わったと思った。この一文でじゅうぶんだ。
 おれはこの日が来るとは思っていなかった。北川透が非を認めることはないだろうから、どちらかがくたばるまで敵対関係はつづくと思っていた。なにか余程の事がなければ、もう北川透を標的に発言することはないだろう。
 成田さんのお蔭でおれは解放されたんだ。
 客観的にいえば、「菊屋まつりフリートーク」における主催者側の発言者三人(北川・瀬尾・成田)の内の一人が収録を容認したということだ。
 これをもって、名実ともに『吉本隆明資料集』は完結をみたんだ。
 思えば、長い道のりだったな。それを示せば、次のようになる。

 (1)事前承諾なく『菊屋』第三四号掲載の「菊屋まつりフリートーク」を『吉本隆明資料集』第二五集(二〇〇二年九月二〇日発行・『資料集』の実際の印刷出来及び発送は「奥付の日付」よりも早い。以下同じ)に収録。
 (2)参加発言者全員に送るという原則のもと、すべての発言者に発送した(どうしても本人及び著作権継承者の所在が不明の場合は断念。例えば一九六〇年の「技術者と哲学」における東京工業大学新聞部の二人など)。勿論、北川透、瀬尾育生、成田昭男、加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・小浜逸郎にも送った。
 (3)北川透より抗議文が届く。それは同時に多方面に送付されていた(私の知るところでは、吉本隆明、芹沢俊介、浮海啓、高橋秀明ノなど)。(二〇〇二年九月二〇日)
 (4)瀬尾育生より抗議文が届き、その文章を『吉本隆明資料集』に掲載せよとの要求あり。(二〇〇二年九月二四日)
 (5)北川透の行為により、吉本隆明に迷惑が及んだものと判断し、お詫びの手紙を出す。
 (6)吉本隆明より速達で返信(二〇〇二年一〇月七日消印)。
 (7)瀬尾育生の要求に応じて、瀬尾「抗議文」を『吉本隆明資料集』第二七集(二〇〇二年一二月一五日発行)に掲載。
 (8)『吉本隆明資料集』第二八号(二〇〇三年二月一〇日発行)挿入の「猫々だより」で、反論のコメントを付して北川透の「抗議文」を全文公開。
 (9)この件は私の責任問題なので、誰も巻き込まないことを方針とした。従って吉本隆明からの手紙は公表しなかった。
 (10)『吉本隆明資料集』が第一〇〇集(二〇一〇年一一月二五日発行)に到達したことを機に、吉本隆明の「手紙」を公開。

 おれが「事後承諾」という手段を選んだ理由は、何度か言った通りだ。当時、おれは不当なリストラにより失職し、新たな職を求めるのは年齢からして困難を極めていた。そんな中、『吉本隆明資料集』の自家発行を思い立った。それは吉本さんの単行本未収録の著作から談話までの網羅を目指したものだ。
 その最初に、『吉本隆明全著作集』(勁草書房)から除外された鼎談や座談会を対象にしようと思った。それで当然、それぞれの出席者から収録の許可を得ようと思ったけれど、参加者の中には吉本さんと対立する花田清輝から大江健三郎までが含まれていたから、収録を拒否されることも、また連絡しても、出版社でもない、誰とも知れない者からの依頼とみなされ、応答がないことも考えられた。そうなれば〈すべてを収録する〉という構想は頓挫する。これらの鼎談や座談会は既に発表されたもので、読みたいと思えば、労を惜しまず探せば読めるものだ。いわば公的なものといえる。
 この総合的な判断のもと、おれは叱責を受けることを覚悟のうえ、発行に踏み切ったんだ。
 それから少しして、仕事は知り合いの斡旋でなんとか見つかった。『資料集』もおまえの懸念をよそに、大きなトラブルもなく第二五集まできたところで、北川透と瀬尾育生から抗議が来たんだよな。
 北川透はおれへの抗議と同時に、『吉本隆明資料集』とおれを中傷する同文章をいきなり多方面に送った。
 これはほんとうにきつかった。夜も眠れないくらいだった。そこまでやる必要がどこにあるんだと思った。
 このとき、おれはどんなことがあっても『資料集』の発行は続ける、必ず北川透を実力で粉砕する、と心に誓ったんだ。
 そして、吉本さんにお詫びの手紙を出したんだな。
 速達の吉本さんからの返信が届き、その信頼のメッセージと人間存在の本質に基づく〈根底的な弁護〉を読んだ時、これで絶対大丈夫と思った。
 そこからおまえは反撃に出た。まず反論のコメントを付して、北川透の「抗議文」の全文を「猫々だより」に掲載した。「抗議文」を秘匿することなく、読者に公開することによって、北川透の行為と思惑を相対化したんだ。
 これによって『資料集』の購読を中止したのは二名だ。一人は公的な文学館の人で、協力者として名前を挙げていたので、立場的に事前了解なしの転載を認めることはできないからだった。もう一人は大学の研究者で、学会の慣行と常識に囚われていたからだ。
 そして、おまえは『試行』一六号から二八号までの復刻版を作り、『文学者の戦争責任』『高村光太郎(飯塚書店版)』を皮切りに「初出・拾遺篇」を継続発行し、第一〇〇集になったところで、すべてに〈決着〉をつけるべく、吉本隆明からの手紙を公表した。
 この段階なら、もう吉本さんを直接的に巻き込む心配はないと判断したからだ。おれははじめから一人で引き受けると決めていた。
 そんなことは分かっているぜ。これによって、北川透の「抗議」は根拠を失った。なにしろメイン・ゲストが全面否定したんだからな。
 それと同時に『資料集』とおれへの非難が無効化したのさ。
 それで北川透は著作権にしがみつくしかなくなったんだ。それしかおのれの正当性を保証するものはないからね。
 あの「記録」の中には「わたし(北川)の重大な発言も含まれている」ってか。
 その場合も『資料集』鼎談・座談会篇全二七集、収録座談会六五、発言者一四四名という総体からいえば、容認・黙認一四二対否認二(瀬尾を加えて)だ。〈表現行為〉には多数決というのは全く馴染まないとおれは考えるけれど、世間ではそういうふうに遇されるだろう。
 また、北川が〈著作権〉侵害で告訴したとしても、裁判所は和解勧告を出し、おれの謝罪(「事後承諾」の非は最初から認めている)と、第二五集の頒価一〇〇〇円×発行部数三〇〇×印税率一〇%+参加者一〇人(同時収載の「鼎談」の二名も計上)の支払いを命ずるだろう。つまり三〇〇〇円払えば終わりだ。吉本隆明の著書とみなせば著者五〇%、残りを九で割れば一七〇〇円足らず。
 さらにいえば、北川は『菊屋』の発行者ではないから、〈版権〉を主張し回収を求めることはできない。それは瀬尾・成田ら「菊屋同人」全員に帰属する。「フリートーク」の録音のテープ起こしは、瀬尾夫人の荒尾信子がやったものだ。
 おれはこういう居直り方は絶対しないけれど、これが客観的な観点からみた〈事のてんまつ〉じゃないのか。頭を冷やす意味では、こういう見方も知っていて悪くないさ。
 おまえのいちばんの反撃は、『快傑ハリマオ』に発表した「北川透徹底批判」「北川透の頽廃」だ。北川透の所業と思想を、反論の余地なく叩いた。
 若月克昌とおれをめぐる北川透をいえば、若月克昌が『同行衆通信』二八号に発表した「菊屋まつり」の感想に文句があるなら、じぶんの雑誌をはじめ、いろんな発言場所があるんだから、公然と批判を行使すれば良かったんだ。それを恫喝的に手紙(私信)の形でやったことが、そもそもの〈間違い〉だ。
 それが全てのはじまりだな。
 じぶんの守備範囲を少し離れるかもしれないけれど、成田さんの文章には、北川透が村上一郎宛に出した手紙を『VAV』二八号に掲載したことをめぐる齟齬も記されている。北川透は「最後の手紙」と称して、「あなたは友人であることを利用して、平気でこういう犯罪的なことをする人なのです」というメールを成田さんに送ってきたとのことだ。
 ふつうに考えて、書簡の所有権は〈受信者〉にある。それを遺族が手放して、入手した古書店が売りに出し、それを購入したら、当然所有権は〈所持者〉に移る。従って、その書簡をどうしようと自由だ。仮に〈発信者〉に著作権の一部があるとしても、その所有権に介入することはできないはずだ。
 おれの経験をいうと、六〇年安保のブンドの幹部だった常木守さん(吉本さんが「思想的弁護論」で弁護した人です)と少しだけ交流があった。常木さんが亡くなった時、常木さんが吉本さんについて認めた手紙を追悼の意味をこめて、「猫々だより」に載せたいと思った。それで手紙のコピーを添えて夫人に打診した。けれども夫人は、主人の言いたいことがよく分からないので、気が進まない。ただ、この手紙はあなたが受け取られたものなので、自由にしてください、という返事だった。おれは夫人の気持ちを尊重し、掲載を諦めた。
 成田さんも北川透に公開の許可を求めている。それで少しの滞りを挟んで、北川透は「了解」している。それを覆すのは頭がおかしいと言うしかない。
 嫌な性格だな。
 また書簡の公開を「犯罪的」といっているけれど、完全な言いがかりだ。リトルマガジンに、じぶんの手紙が載ったからといって、どんな実害があるというんだ。バカバカしい誇大妄想にすぎない。それよりも、〈一個の文筆者〉が公表した表現に対して、おのれの意に添わないからといって、「友人」であることをよいことに、メールでクレームをつけることの方がはるかに「犯罪的」だ。
 言い換えれば、若月発言をめぐる一件を、北川透はなんら反省することなく、同じことを繰り返している。
 おれは「いま、吉本隆明25時」というイベント終了後、樋口良澄(元『現代詩手帖』編集長)に誘われて、編集者や詩人の集まりに行った。そこでいろんな人に初めて会ったんだ、小関(直)さんや間宮(幹彦)さんや佐々木幹郎などと。とても楽しいひとときだった。
 それが散会し、品川駅へ向かう道すがら、瀬尾夫妻と歩きながら話した。おれが坂井信夫とケンカしていた時、坂井は念願の『現代詩手帖』に登場した。その坂井の批評文を、次の号で瀬尾育生が批判した。これは坂井とおれの応酬を見据えたものだった。そういう距離のなかで見ていたんだ。「菊屋まつり」の話も出た。荒尾さんは若月の一文に怒っていた。ちゃんと見ても聞いてもいないと。
 おまえはその日、奥村(真)さんがよく出入りしていた新宿ゴールデン街の「トートーベ」へ行った。そこのマスターが「菊屋まつり」に行っていたという話になり、感想を聞いた。彼は若月さんとほぼ同じ印象だと言ったんだよな。
 うん。おれにとって、あの品川のイベントの収穫は大きかった。藤井(東)さんや宿沢(あぐり)さんと会ったのもあの会場だったし、伊川(龍郎)さんとの交流の契機にもなった。また埴谷雄高がらみの出来事もあった。北川透から「若月克昌批判の手紙」が、おれに届いたのはその後だ。
 それとは別に、成田昭男は若月克昌の事実誤認を指摘するために『菊屋』三四号を若月に送っている。若月はそれに基づいて『同行衆通信』二九号に「訂正文」を出した。
 この一件でも、北川透の錯誤行為がなければ、こじれることも、険悪な対立に至ることもなかったんだ。
 そうだな。要するに北川透は〈貧相〉なんだよ。それで魂の深さも肝の太いところもない。
 成田昭男のことでも、あなたの〈善意〉はよく分かります。身銭を切ってわたくしの書簡を入手してくれたうえ、『VAV』で紹介してもらい、若き日のじぶんに出会えてよかったです、といえばいいじゃないか。それで「100%了解」したんじゃないのか。
 北川透のやり口は、なにかあるとイデオロギー的に過敏に反応し、党派的に敵視する、独善的な日本共産党そっくりだ。そのくせ、おまえへのお門違いの手紙の非を認めることも、ましてや〈詫びる〉こともない。それどころか、おまえの反論を逆恨みして、「フリートーク」再録を〈仕返し〉の絶好の機会ととらえた。それが「抗議文」ばらまきの〈動機〉だ。
 『VAV』と成田さんのことで附け足すと、ある時、吉本さんと話していて、吉本さんが「松岡さん、いまもっともおもしろい同人誌は名古屋の陶山さんたちが出しているものです」と言われたことがある。その時、おれは『VAV』を知らなかった。
 それからかなり時が経過して、脇地炯さんや浮海啓さんなどの同誌への寄稿者から送られてくるようになった。そこに載っているバックナンバーの目次をみて、それが陶山幾朗が内村剛介にインタビューしていた頃を指していることが分かった。いや、これは違うかもしれない。その前に一度、成田さんから『VAV』を送ってもらったことがあったような気がする、その返信で、吉本さんの話を伝えたような記憶があるからね。
 吉本隆明の読書量は凄い。送られてきた本や雑誌が足の踏み場もないくらい積まれていたからな。
 『GenGen』二号に添えられたコメントによれば、成田さんはいま「老、病、孤舟有り(杜甫)」という情況とのことだ。
 おれはできるならば、成田さんに「陶山幾朗の仕事と人」について書いてもらいたいと思っている。それができるのは成田さんしかいないように思うからだ。もうひとつ、欲張りな願望をいえば、成田さんは中国語に通じているようだから、吉本隆明『転位のための十篇』の「火の秋の物語」の中国語訳に挑んでほしい。
 その後、北川透はどんどん孤立していっただろう。
 ああ。かつて盟友であった松下昇を「狂人」といい、菅谷規矩雄のことを「アル中」と侮蔑するような言動に及んで、心ある人々の顰蹙を買った。菅谷規矩雄が深酒に陥ったのは、吉本隆明と埴谷雄高が決裂したことを契機にしたものと思われる。六〇年安保世代にとって、二人は精神的支柱だったからだ。齋藤愼爾さんは『埴谷雄高・吉本隆明の世界』というムックを作ることでこれを克服したけれど、菅谷規矩雄はできなかったような気がする。この事情を汲めば、あんな冷笑的な口吻はあり得ないはずだ。
 末期症状だな。それはわしだって、悪口(あっこう)が先に立ち、仲違いした人物は数々いるさ。しかし絶交したからといって、過去に遡って、一緒に遊んだことや楽しく酒を酌み交わしたことまでを、塗りつぶすつもりはない。そんなことをしたら、じぶんがみじめなだけだ。
 北川透は序列意識が強く、磯田光一にふれて「大関」と言ったことがある。大相撲の「番付」に譬えたんだ。吉本隆明と江藤淳を「横綱」に想定していることが見てとれた。それはそれで一つの見方だが、鮎川信夫・吉本隆明・大岡信亡きあと、じぶんが最大の詩論家であると自認しているだろうから、松岡などという「序の口」以下を相手にするつもりはないと、いまだにタカをくくっているかもしれない。その侮りと驕りが、年来の友人や知人をつぎつぎと失うことにつながっているのさ。これら全て、自らの所業が招いた〈末路〉だ。
 北川透が「私は中日文化賞を受賞した文化功労者だ」と言い張っても、そんなもの、おれからみれば虚しい勲章にすぎない。おさらばだ。
 ところで、発端となった若月克昌はどうしているんだ。蚊帳の外ということはないだろう。
 北川透の最初の手紙は若月に転送した。あれが残っているとおもしろいんだけど、たぶん捨てたんじゃないかな。あんなものを持っていたら気分が悪いだろうし、支離滅裂な錯乱の式神に変異するかもしれないからね(笑)。
 『風のたより』二四号の若月克昌の小説「カレーライス」を読んで、北川透のヒステリー症も、むきになったおれの対抗も、日常的な業務の中に折り畳まれているような気がしたな。上司に「危機管理研修の報告書」の作成を命じられて、好きなカレーを味気なく食べて、メモリーを持ち返り、電気屋へ行って、プリンターを購入し、処理するストーリーだ。その過程に、この間のトラブルの要素は全部は取り込まれているようにみえた。作業が終わり、「何を食べよう? 近くの牛丼屋と中華料理店のメニューを思い浮かべる。//違うな。カレーだな」って、いうんだよね。
 若月克昌の佳作の勝利。おまえの解釈と鑑賞からするとそうなるということだな。でもな、若月の小説は設定が任意的で、無意識の流れがベースだ。楽曲のように創作されてる。言葉はメロディで、いわばビートルズの「ア・ハード・ディズ・ナイト」みたいなものだ。思索の幅を大きくとれば、その無意識のうちに、そういう要素も孕まれているっていう以上じゃないな。
 揉めている事態から遠ざかることは悪いことじゃない。相手に対する反撥や嫌悪に領されることがないからね。それが〈開く〉ということだ。世界は深くて広い。詩壇や商業詩誌の範囲で、詩や文学をみていたら、勘違いの元だよ。
 おまえの「『この世界の片隅に』をめぐって」に関連する資料を川村寛さんが提供してくれた。

 NHKで8月9日、こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」、続いて13日には「あちこちのすずさん」 の放送があり、しばし「高知のすずさん」の思い出に浸っておりました。  高知のすずさん?15年ぐらい前、母が私に「史代から電話があり、今度出版する本の主人公名を、自分の名前の中内鈴子の鈴より頂いて『すず』にするという報告と、戦前教員として生活していた軍港の街(広島県) 呉市の様子などを詳しく聞き取りがあった」と話しました。「この世界ノ」の「すず」はこうして生まれたと思われます。
 高知のすずさんは、こうの史代の祖母、史代は私のめいにあたります。史代は、広島大学理学部を両親に無断で中退し、好きな漫画の世界に入ったようです。当初は苦労があったようですが、「夕凪の街 桜の国」に続き第2弾として映画化され、皆さまに知っていただけるようになり頑張っております。  高知のすずさんは戦前戦後、女子中・高の体育教師を勤め、退職後は悠々自適の生活、初夏には安田川のアユをほおばり生ビール、スナックバーでジンフィズのグラスを傾ける96歳でした。あちらに旅立って8年になります。

        (飯田美智子「高知のすずさん」『高知新聞』二〇二〇年八月二五日)

 こうの史代が高知県にゆかりがあるとは知らなかった。それが世間の広がりというものだ。
 こどもの頃から大きな影響を受けた白土三平が亡くなり、大島弓子が「文化功労者」に選ばれたのにはびっくりした。大島弓子はその連絡(打診)が吹き込まれていたのを聞いて、「オレオレ詐欺」かもしれないと思ったそうだ。
 そうか、あなたはこのたび「文化功労者」に選ばれることになりました。つきましては何百万円お振り込みください、という手のやつと。
 それで大島弓子が出版社に連絡したら、編集部も知らず調べてみますという返事だったとのことだ。それくらい、そういうこととは無縁だったということだ。彼女は何も変わりはしないだろう。おれは本棚から『大島弓子選集』を取り出して、読み返した。「誕生」や「ミモザ館でつかまえて」、「四月怪談」や「棉の国星」、「7月7日に」や「サマータイム」、宮沢賢治原作の「いちょうの実」などだ。
 たぶん萩尾望都の尽力だろうな。
 好きなシーンをひとつ挙げると、『いちご物語』の中の、全子が幼馴染の林太郎の気持ちがいちごに傾いてゆき、全子は初恋にさよならを告げる。それでも学校の当番の日、教室に林太郎と二人でいることが辛くて、用事があると言って先に帰る。「こんなとき 去年の今ごろは 新しい緑の中を 二人でかえったわ」「のどがかわいたときは とちゅうのパーラーで ソーダ水をのんだわ おなかがすいたときは ハンバーガーも 立ってたべたわ」「いやいや 全子 はやく わすれなさい 新緑も西日も ソーダ水も ハンバーガーもノノ」と思いながら。そこへ日向温がやってきて薔薇の花束を手渡し、「かかえてごらん ばらをかかえると どんなときでも 楽しくなるよ」といい、「いざぎよしは この一番咲きのバラにも おとらなかった」と慰めるところだ。
 一方、白土三平は〈反差別〉という基調を作ってくれた。おれはその基調が、いわゆる「福祉」に取り込まれない〈境界〉で突っ張るしかないと思っているよ。立派な人なんだろうが、おれ、宮城まり子みたいの、好きじゃないんだ。
 それは思想のセンスの問題だな。往相というのは自然過程だよな。
 うん。還相というのは、その解体ともいえるからね。
 おまえ、講談社文芸文庫として刊行された吉本隆明著『憂国の文学者たちに』について、この機会にふれておいた方がいいんじゃないか。
 あれは、おれが書名から著作の選択、配列まで全部やったんだけど、あの文庫本を作ったのには事情というか、経緯があったんだ。それをいうと、雑誌『情況』が吉本隆明追悼号を出すに際し、友人の金廣志を通じて、協力の要請があった。それでこの雑誌の傾向からして、吉本隆明の六〇年安保と全共闘に関する著作の再録と、安西美行、松本孝幸、長谷川博之、北島正による追悼文の寄稿、宿沢あぐりの「著書年譜」の掲載を提案したんだ。この提案は了承された。おれもそれを踏まえて書くことになった。
 あの時の『情況』の編集長は、金廣志を介して一度会ったことのある、第二次ブントの戦旗派のリーダーだった大下敦史だよな。
 これが何事においてもアバウトで、しかも身贔屓の親だった。実際の誌面をみたら、吉本隆明の再録もおれの推薦した人たちも、みんな三段組みになっていて、編集部とつながりのある愚鈍な最首悟や糞の友常勉などは二段組みだ。そのうえ、原稿料も編集費も無しなのに、おれの紹介した寄稿者には掲載誌すら送ってなかった。
 それはひどいな。
 それでおれが文句を言ったら、みんなに送ったんだ。二段組みと三段組みの違いなんて、そんなことに拘らないものからすれば、どうでもいいことだ。安西さんみたいに三段組みが好きという人もいるくらいだから。しかし、業界の一般性からいえば、紙幅の都合があったにしても、その扱いの差別性は歴然としている。『試行』を例にすると、村上一郎が割り付けをやっていた時代には三段組みがあったけれど、吉本隆明単独編集になってからは、掲載する以上はみんな〈同等の扱い〉にするという方針のもと、全部二段組みだ。そういうこともあって、おれとしてはちゃんとした「六〇年安保・全共闘論集」を作りたかった。もうひとつ言っておけば、あの『情況』は完売だ。
 それで今度は逆に、版元探しを金廣志に依頼したんだよな。彼からたどりたどって、刊行の見通しが立ったということだな。
 うん。書名は通常なら「擬制の終焉」だろうけど、文芸文庫ということもあって『憂国の文学者たちに』にしたんだ。この東京大学新聞に掲載された文章については、齋藤愼爾さんが言及したことがある。その示唆に拠るものだ。『情況』に再録された六篇に、七篇を増補した全一三篇の構成だけど、巻頭の詩「死の国の世代へ」は最初から確定していた。いちばん悩んだのは、結びの「革命と戦争について」だった。これは『甦るヴェイユ』から抜粋だからだ。吉本さんは当初『試行』終刊の時の直接購読者への寄贈本にしようと考えていた。この話は聞いていた。けれど、小川哲生が『吉本隆明全集撰』の中断によって、会社を退社し、新たな出版社に就職したのを応援するために、この論稿を提供したんだ。だから、吉本さんにとって重要な著作だ。それから一章だけ抜粋するのはためらいがあったけれど、吉本さんのモチーフを考えると、これがもっともふさわしいと判断したんだ。
 おまえがリアルタイムで立ち会ったのは、一九七二年の「思想の基準をめぐって」以降だな。「思想の基準をめぐって」はインタビュー形式の叙述がなされているが、『どこに思想の根拠をおくか』の編集担当者の間宮幹彦の質問事項に、書いて応答したものだ。
 うん。間宮さんから聞くまで分からなかった、だから『インタビュー集成』に入れたんだ。それまでの軌跡を総括したものといえる。また吉本思想の分水嶺にもなっている。これをベースにして、思想と現実の接点をたどるように、それ以前の論考も編んだ。
 主体への引き寄せ、それが鹿島茂の「解説」の扱い方との差異だな。
 コロナ感染の間隙をぬって、幸徳秋水の墓前祭に東京からやってきたTさんという人に会った。彼は地方・小出版流通センターでアルバイトをしていた時に、深夜叢書社の実務のいっさいを引き受けていた入江巖さんから、『意識としてのアジア』を貰ったそうだ。それ以来、おまえの書いたものはずっと読んでいるとのことだった。入江さんをはじめ共通の友人や知人が多く、話は盛り上がった。大下敦史の話も出た。大下さんはバロン吉元の『柔侠伝』のファンで、娘の名前を「朝子」にしたそうだ。これは意外だったな。
 『柔侠伝』には熱烈な読者がいたからね。『TBS調査情報』の榎本陽介さんやあがた森魚もそうだった。安西美行さんがバロン吉元のアシスタントをやっていて、バロンは風吹ジュンと対談して、舞い上がり結婚するんだと言っていたらしい。たしか九州のどこかで仕事をしていて、仕事の合間に安西さんがボートで海にでて、沖へ流され出し、漕いでも漕いでも陸から遠ざかり、波に呑まれて遭難しそうになったそうだ。潮の流れが読めなかったこともあるけど、それ以上に対処方法が間違っていた。引き潮に逆らって岸を目指すんじゃなく、むしろ潮の引きに添って、横に逸れることが必要だったと反省していたな。その時、バロンに物凄く叱られたと言っていたね。

  舳先は常に波に対して直角に立てる。
  横っ腹で波を受けては危ない。
  水を?くのはオールの先端だけで充分だ。
  オールが半分以上濡れているヤツはシロウトだ。
  オールの角度は舟に対して90度まででいい。
  めいっぱいうしろに振るのは力のムダだ。
  波を乗り切るだけじゃない。風の向きと大きな潮の流れにも気を配れ。
  これは比喩でも何でもない。
  まだ中学生だった私が、父から生涯唯一手取り足取りたたき込まれた、”貸しボート屋の息子”直伝のボー トの操り方だ。

                    (吉本多子「吉田さんの写真集に寄せて」)

 『柔侠伝』は『昭和柔侠伝』『現代柔侠伝』の三部作なんだが、そんなに大ヒットしたわけじゃない。いわばプロレタリア文学のマンガ版といえる。あの頃の『漫画アクション』はなんといっても『嗚呼!!花の応援団』、オメコオメコと草木もなびくの青田赤道だ。バロン吉元も『巨人の星』の川崎のぼるも、マンガをやめて、画家になった。画家になって成功したのは『ガロ』に何作か投稿した藤井勉だな。川崎のぼるは貸本漫画の衰退期、栄養失調の餓死寸前だった。出版社に拾われて寮(寄宿舎)に入所している。そこで『大平原児』なんかを画いて食い繋いだ。あ、話が流れているな。
 どんな話をしたっていいのさ。
 長崎県の西村和俊さんがおまえの詩に言及していたぜ。

 丸太足場の上から
 見下ろすと
 高さは足下にあった。


           (松岡祥男「仕事」)

 あゝ麗はしい距離(デスタンス)
 常に遠のいてゆく風景ノノ

 悲しみの彼方、母への
 捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。

                (吉田一穂「母」)

 午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白?の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら
                            (伊東静雄「空の浴槽」)

 この三篇を引用して、次のように言っている。

 いずれも短い詩だが、それなりに完結している。もちろん、さらに展開していくことも可能である。松岡祥男さんの詩「仕事」の場合はどうだろうか。完結しているとみることも、さらに展開していくことも可能だと思う。/
 この三行を今から続いていく詩の出だしと見るならば、〈わたし〉は、建設現場あるいは工事現場の高いところにいる、ということになる。たぶん、そのように軽く読み流して、次の詩句へ読み進んでいくと思う。しかし、これは三行の詩として独立させてある。つまり、この三行で自立的な表現として主張し得ると作者は判断していることになる。/
 詩作品の中の〈わたし〉は、言葉を書き記している作者そのものではなく、三浦つとむの把握を借りれば作者の観念的に対象化された存在である。言いかえれば、作者によって派遣された物語世界の語り手や登場人物たちのように表現世界という舞台に立って感じ考え行動する存在である。その場合、〈わたし〉の感じ考えることは、作者や時代の大気のようなもの[の]影響下にあることは確かである。だから、詩作品の中の〈わたし〉をよく知るには、作者について知る必要がある。/
 〈わたし〉のいろんなことがわからないなら、読者にとってすれちがいも起こり得る。〈わたし〉は、この仕事にすでに十分慣れているのか、まだその仕事に就いたばかりであるのか、それぞれによって「高さ」の感覚も違ってくるように思われる。この詩が収められている詩集『ある手記』の「あとがき」は、1981年12月とあるから、詩作品は三十歳位かそれ以前に書かれ、表現された言葉のきっかけになる作者の体験もそ の頃かそれ以前ということになる。/
 この一つの作品からはむずかしいが、この詩集『ある手記』全体の流れを踏まえると、日々思い、悩み、振る舞う〈わたし〉には不可解に感じられるこの世界、しかしそれでもそんな日常のささいに見える場面に〈わたし〉の生の場所はあると感じ取られている。誰でも気ままに心穏やかに日々生きていきたいのに、人は家族を出ていろいろと張り巡らされたクモの糸のようなこの世界に出て行かなくてはならない。そうして、生きつづけるならば何らかの自分の場所というものを獲得していかなくてはならない。/
 作者が、日々の仕事で丸太足場の上から見下ろすことは何度もあったに違いない。そうして、ある時ふとそのことの意味に突き当たったのである。この作品で〈わたし〉は、日々の自分の場所に内省的に出会っているのだと思う。/
 わたしは1、2度位は鉄パイプで組まれた足場の上に上ったことはある。しかし、その上で仕事することのない人々は、下から足場を見上げ、その高さを感じることになる。その高さは何メートルということに言い直せる客観性を持ったものと思われるかもしれない。また、その高さに届きがたい感受があって、うわあ高くて恐そうだななどの印象も伴うかもしれない。それはひとつの「客観性」とそれに伴うものであることは確かだが、それが高さにまつわる客観性の全てではない。この詩で〈わたし〉が高さを感じ取って足場を踏みしめている、これもまた、足場の外からではなく内からの「客観性」とその感受であると言うことができる。/
 この短い詩もまた、〈わたし〉はそんな場所で日々仕事をして生きているんだという、先に述べた、この社会や世界で十全に生きたいという願望を潜在させた〈自己慰安〉としての〈歌〉と見なすことができるように思われる。/
 言葉は、長ければ良いということはない。もちろん、長ければいろいろと複雑なイメージも展開も盛り込めるということがあるが、校長の長い中身のない話のようにうんざりすることもある。したがって、表現された言葉の長短に表現の価値の大小はない。短くて鋭く刺さる言葉もあれば、長くていろいろとイメージの旅でもてなしてくれる言葉もある。/
 最後に、松岡さんの詩でわたしが気に入っているものをひとつ挙げておきたい。初めて読んだ時には、「ランボーの「銘酊船」(「酔いどれ船」に触発されている?)とメモしていたが、ランボーのその詩がきっかけだとしてもひとつの自立した独自の表現になっている。これは、自分を慰めるという意味の強い〈自己慰安〉としての〈歌〉ではあるが、たぶん誰にも思い当たることがあるような普遍的な心の場所からの表現になっていると思う。

    破れ船

 ひとりの深みから
 未明の空見あげると
 ながれる白い雲
 胸ひらき
 からだを解いて
 すこしなら唄ってもいいか?

 雨の日の噴水が好きだ
 誰もいない公園も悪くない
 水浸しはいい
 おもいっきりぬれるんだ
 酒精が踊る
 よっぱらいはすてきなんだ
 ゆらぐ歩道と街がたまらない
 ふらつく足が偉大なのさ

 唄ってもいいんだよ
 いのるすべもしらず
 すがるものもないのなら

              (西村和俊「詩の入口から(2)」、注・行アキ箇所ツメ)

 いやあ‥‥‥、なにもいうことはないよ。じぶんの貧弱さに俯くしかない。
 おまえ、金魚の糞みたいに見做されることが何度かあっただろう。
 ああ。もろにそう言われたことは二度あるよ。一回は夜間高校の部落研のリーダーの嶋について、隣の学校で臨時の事務員をやっていた同じ夜間の女の子を訪ねた時だ。奨学生同士のやりとりがあって、おれはただ傍らにいただけだけど、その子が「どうして、こんな人がついてきているの」とあからさまに言った。もうひとつはアパートの隣の部屋に住んでいて、いつも酒盛りをしていた石井さんと一緒に、詩の同人誌をやっている奴と喫茶店で会った時だ。石井さんとそいつが文学や同人雑誌について意見交換をしたんだけど、おれは黙って聞いていた。そしたら、その男が唐突に「こんな何も分からないようなのが一緒なんだ」と。
 賢そうにも才気があるようにも、まるで見えなかったんだろうな。おまえはそれに対して、どう思ったんだ。
 べつに。そういうの、慣れてたからね。
 しかし、覚えているってことは、引っ掛かっているんだ。逆のケースもあっただろう。
 うん。建設現場で働いていた時、別の美装屋と組んで仕事をしていて、休憩時間におばさんのひとりがおれのことを「この子は、きっと何かやる」と、みんなに言ったんだ。おれのなにをみて、そう思ったのかは知らないけど。
 それはノノ。
 じぶんではよく分からないけど、風貌や振舞から、そんなふうに映ったんだろうね。
 主観と客観の〈空隙〉の鏡のひとつだな。だけど、そんなことはなんでもないぜ。要するに『ガロ』を創刊した長井(勝一)さんが小柄ということもあって、用務員のおじさんと思われたことと同じじゃないか。
 むかし北島正さんが心配してくれたんだけど、職場で苦しい立場に追い込まれていたら、嫌でも険しい顔つきになるよね。そんなことはじぶんではどうしようもない。
 リストラに遇った時期だな、それも階級的表象かもしれないぜ。
 ひとつだけ分かっていることがある。新生児が産声をあげ、ことばをしだいに習得してゆくように、書くという行為においても、習熟過程がある。それはとても不自由なもので、ふつうに話しをする分には、じぶんの思っていることや考えていることを伝えることができる気がするのに、いったん〈書く〉という過程に入ると、たどたどしく、まっとうなものにならないんだ。それが話し言葉と書き言葉の断層だ。おれの願いは、ふだん話しているように、書くことのうえでも自在に表現したいということだった。それで表現手段は〈詩〉しかなかった。しかも、一年に数篇だった。
 高知大の全共闘で新聞記者になったトシアキが、おれの『同行衆』に載ったものをみて、「止めたら」と言ったからね。
 世間に通用するレベルになかった、その見込みもないということだな。
 自己表現の〈衝動〉自体は普遍的なもので、誰でも持つものだ。歌うにしろ、描くにしろ。
 春の夢のように消えてしまうにしてもな。結局は鎌倉(諄誠)さんだな、そんなおまえを見捨てなかった。おまえの場合、その落差が激しいのかもしれないな。なんで、こんな奴を吉本隆明や小山俊一などが評価するんだろう。じぶんの方がずっと知識も才能もあるし、人格においても優っているのにと思っている面々は大勢いるだろうし、おまえはそういう場面に直面したこともあったよな。 松 そんなことは問題じゃない。要は始まりがあって、それなりの起伏があり、いかに終わりまでまっとうするかだ、それが〈世界〉と向き合うことなんだ。そこでは持続と展開、初源性と現在性、原理性と位相、それが文学と思想を貫くものと思っているよ。
 新聞社の偉い手になったトシアキと二〇年ぶりくらいに偶然会ったら、「松岡、いいぞ。おまえの連載はおもしろい」と言った。その時、おれは基本的には何も変わちゃあいないと思ったけどね。
 そんなことより、おれ、詩集をプレゼントされたことがある。ひとつは『同行衆』のメンバーだった筒井さんが原油基地反対運動で現地へ赴く時、新潮文庫の『伊東静雄詩集』を餞別にくれた。もうひとつは宇和島にいた小山俊一さんを訪ねた時、岩波文庫の『シカゴ詩集』をもらった。そういう厚意というのは、なにものにも代え難いと思っているよ。白土三平から〈反差別〉というスタンスを、そして吉本隆明から〈原理・原則〉の大切さを学んだような気がする。
 おまえのいう〈原則〉というのは、べつに難しいことじゃない。〈立場〉を置き換えれば、すぐに分かることだ。
 おまえは「危ねえ奴」と思われているから、そういうことはないだろうが、例えば脅迫文みたいなものが送られてきたら、おまえなら、その全文と氏名を公開し、公然と批判するだろう。その手の輩は『鬼滅の刃』の「鬼」と同じで、世の闇に棲息し、人々の心の陰に暗躍している。だから、日向に引っ張り出せばいい。中途半端な態度は禁物だ、つけいる隙を与えるからな。
 そうだけど、もっと良い方法は、完全に無視し、全く相手にしないことだ。脅迫文を送ってくるような奴に潜在するのは、フロイト的にいえば、劣等感の裏返しの自己顕示欲と、誰かに構ってほしい幼児退行だからね。余程の因縁がなければ、ひとりでに消沈するさ。
 白土三平の良さは、『カムイ伝第二部』でいえば、草加竜之進がアヤメを伴って、夙谷の枯木屋敷へ行き、キギスやその仲間に、雪駄造りを推奨し、モツ鍋を囲む描写に、よく現れている。
   基本的には忍者もので、誇張された展開からいえば娯楽作品そのものといえる。またサディスト的な傾向が強く荒んだ部分もあるが、マンガ表現の深化と拡張に寄与したことは疑いない。田中優子の講釈などくそくらえだ。不満はいっぱいあっても、四方田犬彦の『白土三平論』のトータル性を越えることは難しい。基礎になっているのはアンデルセンだな。それにリアリズムの要素が加わっている。だから山本周五郎を尊重していた。
 そうであっても、白土三平の影響は大きい。『忍者武芸帳』や『サスケ』などに出会わなければ、部落解放運動や学生運動に関わりを持つことはなかったんだ。もっと痛切なことをいえば、いまでも仕事にあぶれ途方にくれている夢をよく見る。もう古稀を過ぎ、そういうことから上っているはずなのにノノ。
 いまだに呪われているんだ、それはどうしようもねえな。
              『続・最後の場所』11号2022年7月発行掲載(原題「〈還相〉ということ」。ただし最終校正で表題を変更予定だったが、それが省かれたため、そのままになった)


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「北川透の末路および白土三平追悼 松岡祥男」 ファイル作成:2023.03.29 最終更新日:2023.04.08