比嘉加津夫さんを思う

松岡祥男

 わたしは比嘉加津夫さんとお会いしたことはありませんけれど、比嘉さんの存在なくして、わたしの「吉本隆明さんのこと」という連載は日の目をみることはなかったと思います。なんの注文もなく『脈』の誌面を提供してくれたのです。
 遠いところ(四国の高知)からみていると、比嘉さんはけっこうミーハーでお人好しに映りました。つまり、脇が甘いように感じたのです。きっといろいろ騙されたり、利用されたりして、嫌な目に遇われたに違いないと思いました。でも、比嘉さんはそんなことはおくびにも出しませんでした。それが比嘉さんのおおらかさだったような気がします。そうでなければ、多彩な執筆者を迎え入れ、優れた特集を組むことも、『脈』を存続させることもできなかったでしょう。
 そんな比嘉さんの志の在り処をみごとに示してくれたのは松原敏夫さんの追悼文でした。《はるか若いころ、『比嘉さんは、なぜ書くのか』と尋ねたことがある。すると『そんな問いは無意味だよ、理由があろうがなかろうが書くのが一番いい』と応えた》(『沖縄タイムス』二〇一九年一二月)。
 吉本隆明さんは勤めを終えて帰ると、毎日机に向い、日課のように詩を書きました。それは「日時計篇」をはじめとする膨大な詩群として遺されています。それと同じように、比嘉さんは読むことや書くことを日常化されていたのでしょう。必要に応じて、本を開いたり、パソコンに向かったりするわたしとは大違いです。その姿勢がさまざまな難事や障害を乗り越える持続的な展開力となったものと思います。
 じぶんのことでいえば、『LUNAクリティーク』一号に掲載された宮古の東風平恵典とのネット対談において、わたしが自家発行していた『吉本隆明資料集』をめぐって、北川透らとトラブルになったことが話題に上っています。東風平さんの北川透に肩入れする発言に対して、比嘉さんは話の流れに同調することなく、その意見には同意し難いといいました。その客観的な態度をみて、わたしの比嘉さんへの信頼は揺るぎないものとなったのです。
 いま比嘉さんのご厚意に応えるとしたら、わたしは「吉本隆明さんのこと」の続稿を書くことだと思いました。それが比嘉さんの追悼になると信じて。
 世の中には「俺は吉本隆明を超えた、親鸞も、マルクスも超えた」と自負する凄い人もいます。親鸞は「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と説き、カール・マルクスは労働者の解放を唱え、『資本論』を書きました。また吉本さんは「僕は、生れ、婚姻し、子を生み、育て、老いたる無数のひとたちを畏れよう。僕がいちばん畏敬するひとたちだ」と初期に記して、思想の基礎に据えました。それらを超えるものとなれば、われら具足凡夫はさぞかし救われることでしょう。ぜひとも、その世界観を開示していただきたいものです。そうでなければ、主観的な思い込みにすぎません。もちろん、開示の方法は言語表現に限りませんが。
 わたしはもともと出来がよろしくなく、知力から体力までにわたって、他に優越するものをもっていません。それでも時代の波にもまれながら生きてきました。その経験を拠り所に考えることだけはつづけてきたような気がします。
 ボーダーインクの宮城正勝さんとともに、比嘉さんと『脈』がわたしに与えた大きな影響のひとつは、沖縄への穏やかな関心を開いてくれたことです。全共闘運動の末端にいたわたしは「沖縄奪還」とか「沖縄解放」とかいった政治スローガン的な関心しか持たず、その心情といえば、大江健三郎の『沖縄ノート』の偽善的なレベルを出るものではありませんでした。沖縄がどんなところか、アジア的地勢のなかのポジションなど殆ど知ろうとも、考えようともしていなかったのです。まあ、こんなことはありふれた列島の住民からすると、沖縄の人たちが四国などに興味がないように、琉球諸島を知らなくても何の不都合も生じないでしょう。でも、少なくとも政治的な動きに引きずられたものとしては、みじめな気がします。
 早い話が、吉本さんの『全南島論』のなかの「イザイホーの象徴について」を読んで、その祭儀の様相と歴史的な意味は如実に浮かび上がるのに、その舞台である久高島がどこにあるのか分からないのです。日本地図を引っ張り出して探したけれど、うーん、久米島とは異なるはずだ‥‥‥と考え込む始末だったのです。しかし、この疑問はNHKの「ブラタモリ」の再放送を見て、いっぺんに氷解しました。ああ、こんな島だったのか、小さな小屋に狭い広場、ここで祀りは執り行われ、ひとびとの心のふるさととして悠久的な趣を持っていたんだと分かりました。そして、これは四国の山々で伝承される神楽などの神事と連結していると感じました。
 比嘉さんは真摯な人でした。それは『脈』九〇号の「特集 吉本隆明の『全南島論』」に発表された「沖縄の意味」を読めば、誰でも分かるでしょう。比嘉さんは吉本隆明の『母型論』や「南島論」に迫るため、関連の文献を読み、接近を試みています。
 比嘉さんにならって、いま接近を試みると、ミシェル・フーコーの《それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか》(『言葉と物』)という言説は衝撃でした。
 「人間」という概念は二世紀もたっていない一形象にすぎず、世界史的現在においてもっとも普遍的な「人間性(ヒューマニティ)」など、世界が新しい形を見だせば消えさるものだと言われているのです。
 わたし(たち)は深いとまどいのなかに置かれたのです。マルクス主義の良い側面をたどれば「平等」は実現されると思ってきたものにとって、その根底を突き崩すものでした。むろん、わたしは「神」も「天国」も信じていません。死ねば終わりだと思っています。けれども、少し変化したところがあります。大島弓子さんが言っていたことですが、彼女は小さい頃お堅い考えの持ち主で、みんなが「霊がどうの」「来世がどうの」というのに浮かない感じを持っていたそうです。でも、今はそれを「素晴らしい想像力だわ」とおもうようになったとマンガのなかで書いていました。
 わたしの兄は、交通事故に遭い、意識不明の重体です。兄は乱暴者で、刑務所帰りの知人と酒を飲んでいて、口論になり、挙げ句に掴み合いになって、アパートの前の田圃に叩き伏せたり、また隣の犬がいきなり噛みついたのに怒り、その場で叩き殺して、警察に連行され、姉が引き取りに行ったりしました。もし、そんな兄が死んだら、浄土の蓮のうてなで、娑婆苦を逃れ、安楽に過ごしているとおもうとなんだか救われます。また地獄に堕ちたとしても、閻魔大王を相手に酒を酌み交わしている図を想像すると愉快です。そんな空想よりも、煩悩の現世に存在することが大切なのは言うまでもありません。
 「人間」とその痕跡が消去された世界とはどんなものでしょう。このフーコーの提起に吉本さんは呼応しました。それは先駆的な「世界視線」という概念の導入です。いまやグーグルの衛星画像ですっかり馴染みのものとなっていますけれど、それをはるかに超えたものとして設定されています。

  ほんとは、わたしたちのいう世界視線は、無限遠点の宇宙空間から地表に垂直にさしてくる視線のことだ。しかもこの視線は雲や気層の汚れでさえぎられない。また遠方だからといって、細部がぼんやりすることもない。そんな想像のイデアルな視線を意味している。遠近法にも自然の条件にも左右されない、いわば像(イメージ)としての視線なのだ。この視線は無限遠点からみても一〇メートル上方からみても、はっきりとおなじ微細なディテールまでみえる架空の視線だ。そのうえこのイデアルな視線は、雲や気層の汚れで遮られないだけでない。遠近によってわずらわされないだけでもない。赤外や紫外の、どんな波長の光にも感応する視線でなくてはいけない。この視線はもっとイデアルだとみなすこともできる。たんに光だけでなくどんな種類の電磁波にたいしても、さらにいえば素粒子にもクォークにも感応し、さらに真空そのものの本質にも感応する視線でなくてはならない、というように。

  わたしたちは近畿地方のランドサット映像を眺めながら、ある地質学的な過去の時期に、都市大阪を含む大阪平野が海底にあり、京都盆地も海底か湖底であり、奈良盆地もまた和泉山脈と生駒山脈と吉野山系を水面上に残して、紀ノ川沿いと大阪湾の両方から海水に浸入されて、海底あるいは湖底にあり、琵琶湖の水と通じていたときがあったと、すぐに空想してみたくなってしまう。これは色彩の区別や等高線によって地層の起伏がすぐわかるように記載されてあっても、ふつうの地図をみながらでは決してすぐには生じない空想だ。ここには宇宙空間からの世界視線のもつおおきな未知の特性があるようにみえる。それを仮りにひと口で要約してみれば、人間ははじめて、自己の存在とその営みをまったく無化してしまいながら、しかも自己存在の空間を視る視線を獲得したのだということだ。それは感性の歴史にとって、はじめてのおおきな意味をもつもののようにおもえる。

   (吉本隆明『ハイ・イメージ論』)

 吉本さんはこの「世界視線」を行使し、「地図論」で大和朝廷の成立にまつわる神話や推論を確定的に解体しています。東征伝説の実際的な経路や奈良盆地における偏狭な小競り合いなども含めて、日本列島の住民は「万世一系」などでは断じてなく、いろんな要素の重層と複合で形成されたこと。これに『共同幻想論』や『初期歌謡論』を重ねれば、おのずと初期王朝(天皇一族)によるアジア的専制の確立とその観念的収奪の構造もみえてくるはずです。
 また世界の列強各国は宇宙軍の創設などといい、宇宙空間の占有とその支配権の獲取に躍起になっていますが、イデアルな世界視線から透視し、この動向を無効化できれば、権力の死滅にいたる方法のひとつとなるかもしれません。そこにひととひとびとの全的な自由、つまり歴史の奪回が示唆されているといえるでしょう。フーコーの考えを具体化し、さらに反転させる地平を吉本さんが目指していたことは明らかです。
 その構想が都市論の拡張となり、那覇における講演「南島論序説」になり、ヘーゲルの『歴史哲学』やマルクスの『資本主義に先行する諸形態』などを踏まえた、人類の初源である「アフリカ的段階」の措定へとつながっていったのです。この営みを、比嘉さんは「壮大な論理のロマン」といいました。
 もうひとついえば、吉本さんの主要な著作を歴史年代順にならべると、文芸を基軸にした〈通時的な列島史〉にもなるのです。それを書名(主な対象書物および人物・年代)で呈示すると、次のようになります。

 『共同幻想論』(『古事記』七一二年・『遠野物語』一九一〇年)
 『全南島論』(『古事記』・『日本書紀』七二〇年・『おもろさうし』一五三一〜一七二三年・『アイヌ神謡集』ほか)
 『初期歌謡論』(『万葉集』三一三年〜七五九年の歌を集成〜『新古今和歌集』一二〇五年・『梁塵秘抄』一二世紀後半)
 『源氏物語論』(紫式部、一一世紀初めに成立)
 『西行論』(一一一八〜一一九〇)
 『最後の親鸞』(一一七三〜一二六二)
 『源実朝』(一一九二〜一二一九)
 『良寛』(一七五八〜一八三一)
 『夏目漱石を読む』(一八六七〜一九一六)
 『柳田国男論』(一八七五〜一九六二)
 『高村光太郎』(一八八三〜一九五六)
 『宮沢賢治』(一八九六〜一九三三)
 『島尾敏雄』(一九一七〜一九八六)

 これらに『言語にとって美とはなにか』や『思想のアンソロジー』などを加えると、必然的にみえてきます。『吉本隆明全集』(晶文社)のキャッチフレーズにあるように「長く深い時間の射程で考えつづけた」人なのです。その中心に、大衆の生きる姿が位置していることは申すまでもありません。
 ひとは歴史にその名を刻むことなど問題でなく、家族に愛され、友人たちと葛藤しながら、確かに結ばれ、やれることをやれば、申し分のない人生だったといえるでしょう。これ以上のものはこの世にないとわたしは思っています。
 比嘉さん、お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。
      (2021年1月10日)

   比嘉加津夫追悼集『走る馬』2021年7月発行掲載


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「比嘉加津夫さんを思う 松岡祥男」 ファイル作成:2024.02.21 最終更新日:2024.02.21