『ふたりの村上 村上春樹・村上龍論集成』(論創社)解説

松岡祥男

 大和書房から刊行された『吉本隆明全集撰』(全七巻・別巻一)は未完結に終わっている。未刊の第二巻「文学」には書下ろしの「村上龍・村上春樹論」が予告されていた。刊行の中断によって、それは実現しなかった。しかし、吉本隆明は〈ふたりの村上〉についてさまざまな形で言及している。それを列挙すれば、次のようになる。
【原題→(初出誌・紙)→収録単行本 [*は収録対象]】
@文芸時評 イメージの行方(『作品』一九八一年一月号)→『空虚としての主題』福武文庫[*「イメージの行方」全篇]
A豊饒かつ凶暴なイメージの純粋理念小説ムム村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(『海』一九八一年二月号)→『吉本隆明全集』第一八巻 晶文社
Bマス・イメージ論 解体論(『海燕』一九八二年九月号)→『マス・イメージ論』講談社文芸文庫[*「解体論」全篇]
C村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(『マリ・クレール』一九八五年九月号)→『言葉の沃野へ 書評集成・上 日本篇』中公文庫
Dハイ・イメージ論 像としての文学(『海燕』一九八五年一一月号一二月号)→『ハイ・イメージ論T』ちくま学芸文庫[*「像としての文学」一の1・2、二の1]
Eハイ・イメージ論 走行論(『海燕』一九八六年一一月号)→『ハイ・イメージ論T』ちくま学芸文庫[*「走行論」一の1・2・3]
F新・書物の解体学 村上龍『ニューヨーク・シティ・マラソン』(『マリ・クレール』一九八七年一月号)→『言葉の沃野へ 書評集成・上 日本篇』中公文庫
G新・書物の解体学 村上龍『愛と幻想のファシズム』(『マリ・クレール』一九八七年一一月号)→『言葉の沃野へ 書評集成・上 日本篇』中公文庫
H新・書物の解体学 村上春樹『ノルウェイの森』(『マリ・クレール』一九八七年一二月号)→『言葉の沃野へ 書評集成・上 日本篇』中公文庫
I『ダンス・ダンス・ダンス』の魅力(『新潮』一九八九年二月号)→『言葉の沃野へ 書評集成・上 日本篇』中公文庫
Jハイ・イメージ論 瞬間論(『海燕』一九八九年六月号)→『ハイ・イメージ論V』ちくま学芸文庫[*「瞬間論」全篇]
Kイメージ論1992 現在への追憶 {村上春樹『TVピープル』}(『新潮 臨時増刊 最新日本語読本』一九九二年四月)→『現在はどこにあるか』新潮社[*「現在への追憶」の2]
Lイメージ論1992 反現代の根拠 {村上龍『イビサ』}(『新潮』一九九二年六月号)→『現在はどこにあるか』新潮社
M消費のなかの芸 『国境の南・太陽の西』の眺め(『CUT』一九九三年一月号)→『消費のなかの芸』ロッキング・オン
N時代という現場 2人の村上から「現在」よむ(『山梨日日新聞』一九九四年五月一七日)→『わが「転向」』文春文庫
O消費のなかの芸 『ねじまき鳥クロニクル』第1部・第2部(『CUT』一九九四年七月号)→『消費のなかの芸』ロッキング・オン
P消費のなかの芸 『ねじまき鳥クロニクル』第3部(『CUT』一九九六年一月号)→『消費のなかの芸』ロッキング・オン
Q形而上学的ウイルスの文学ムム村上龍『ヒュウガ・ウイルス』(『新潮』一九九六年七月号)→『吉本隆明資料集一四〇』猫々堂
R村上春樹『アンダーグラウンド』を読む どちら側でもない(『群像』一九九七年六月号)→『思想の原像』徳間書店

 吉本隆明の村上春樹と村上龍への接近は、その時のモチーフによって〈視座〉が違っている。文芸時評的な観点から取り上げたり、マス・イメージの変貌に重点をおきながら捉えたり、文学における〈像〉の問題として扱ったりしているけれど、それぞれの作品の価値と意味を射程から外したことはない。
 吉本隆明の場合、単独の作家(思想家)論は、高村光太郎、カール・マルクス、源実朝、島尾敏雄、西行、宮沢賢治、シモーヌ・ヴェイユなど、すべて年譜を作り、周到な準備のうえ執筆し刊行している。その点、村上龍、村上春樹に関するものは明らかに異なる。そうであっても、現役の作家に注目し継続的に批評したもので、作品論として貴重なものだ。
 両村上の全盛期は過ぎたとはいえ、ふたりとも世界総体との関連に自覚的な、フルタイムの作家なのだ。読者一般というよりも「知的業界」内部において、ふたりの村上の〈価値〉が分からないものはいる。それはとりもなおさず、〈文学〉が分からないということであり、〈現在〉ということを知らないということなのだ。こういう連中は、作家的存在を見縊り、凋落一途のアカデミズム依存と欧米流行の追従しか能がなく、その延長で上野千鶴子や内田樹みたいな大学の社会学者の方が知的で上等だと錯覚しているのかもしれない。冗談ではないのだ。上野や内田といった輩は社会現象に追随しながら解釈と見取図を並べるだけで、エロスは希薄で、創造性に乏しく、おのれの宿命に表現的に挑む力などない。ミス・リードの醜態をさらしていても、それには気がつかず悦に入っているだけだ。
 わたしは、村上春樹は『羊をめぐる冒険』を皮切りに『1Q84』までのほぼ全作品を、村上龍は『限りなく透明に近いブルー』から『五分後の世界』にいたる主要な作品は読んでいる。世代的に両村上に近いこともあって、戦中派の吉本隆明の評価とはズレるところもあるけれど、このふたりの存在はわたしの文学的関心の中心にいたことは確かだ。
 こんなこともあった。わたしは文芸雑誌を買っても、お目当てのものしか読まない。けれど、活字中毒者の妻はわたしに関係なく、いろんなものに目を通している。ある時、わたしが辺見庸の小説を買ってきたら、妻はそれを読んで「辺見庸の本なんか、もう買わないでね」と言った。理由は単純だ。村上龍の亜流にすぎないからだ。
 村上龍のどんなところが好きかといえば、

  お前にはさのうがない、とコーチは言った。さのう? さのうて何や? 台風の時に 堤防とかに積むやつかな、しかし台風とか堤防とかこのコーチは何言うてんのやろ、完全なアホやな。
 「さのうてわかるか?」
  砂を入れた袋でしょ?
 「アホ、左の脳や、脳の左半分や、そこにはな、大切なもんがいっぱい詰まっとんのや、理性的な判断とかやな、比較する能力とか、ものごとを客観的に理解する力とか、お前に欠けとるもんばかりやろ?」
  そんなことよう教え子に向かって言うわ、別にオレはこのコーチに食わして貰ってるわけと違う、張ったろか、ほんま。

 (村上龍『走れ! タカハシ』)

 ここには左翼インテリの〈啓蒙〉意識も、高尚な言説を弄ぶ知識主義者の〈差別〉意識もない。社会の地面にしっかり接地したリアリティが定着されている。そして、なによりも自らの快感原則に忠実だ。
 もちろん、「さのう」はちゃんとある。そうでなければ、土嚢を想起するはずがないからだ。そりゃ、長嶋茂雄がその典型のように体育会系の馬鹿どもの、権力者の言いなりの自己判断力を欠いた迎合ぶりを見ていると、いくらなんでも、じぶんの尻くらいはじぶんで拭けよと思ってしまうのも事実だ。しかし、それが左脳の優位を保証するわけではない。それに阪急の福本豊みたいに「国民栄誉賞」の授与を打診されても、「そんなものを貰った日には立ち小便もできなくなる」といって断わった気骨のある人物も稀にはいるのだ。そういう意味では、村上龍の描写には嫌味も皮肉も含まれていない。風俗を描いても、通俗性に堕さない〈均衡〉がその特長なのだ。
 大風呂敷を広げ過ぎて観念的に空転する『愛と幻想のファシズム』などはいただけないとしても、それでも仲間の連帯意識とその亀裂の場面は弱点を凌駕しているし、『気分はもう戦争』(大友克洋・矢作俊彦)に匹敵する活劇的痛快さも持っている。村上龍が不動の作家的地歩を確立したのは、本人に問うまでもなく『コインロッカー・ベイビーズ』だ。
 吉本隆明は一九八四年二月に、『IN★POCKET』という講談社の文庫本情報誌の村上龍と坂本龍一をホストとする連載にゲストとして招かれ、「内なる風景、外なる風景」という対話を交わしている。それは昭和二七年(一九五二)生まれの村上龍・坂本龍一の二人と大正一三年(一九二四)生まれの吉本隆明が年齢差を超えて、当時の知的状況について忌憚なく語った愉快なものだ。
  村上春樹のどんなところが好きかといえば、

  秋が終り冷たい風が吹くようになると、彼女は時々僕の腕に体を寄せた。ダッフル・コートの厚い布地をとおして、僕は彼女の息づかいを感じとることができた。でも、それだけだった。僕はコートのポケットに両手をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も彼女もラバー・ソールの靴をはいていたので足音は聞こえなかった。プラタナスのくしゃくしゃになった枯葉を踏む時にだけ、乾いた音がした。彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。彼女の求めているのは僕の温もりではなく、誰かの温もりだった。少くとも僕にはそんな風に思えた。
  (村上春樹「螢」)

 ふたりはただ歩いているだけだ。これをデートというのか、わたしは知らない。でも、ふたりが歩く姿は静謐で鮮やかだ。ふたりの息づかいや足音も響いてくるような感じがする。そして、この哀しい色調は風景のなかに深く滲透している。この抒情性こそ村上春樹の特徴なのだ。
 吉本隆明は「文学の戦後と現在ム三島由紀夫から村上春樹、村上龍までム」(一九九五年七月)という講演で、『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』にいたる、総括的な村上春樹論を展開している。

  第一に挙げたいことは、一種の任意小説だということです。これはぼくは余り知らないんですが、読んだ乏しい経験でいっても、例えばアメリカのカート・ボネガット・ジュニアなんかの作品はやっぱり一種の任意小説だとおもいます。大体エッセイを書くつもりなのか物語作品を書くつもりなのか、どちらともとれる短章をあるときにはエッセイ的に、あるときには少し物語的に書きます。それを積み重ねてあるつながりを持ったときに作品だっていっちゃう。その種の影響のあらわれかも知れませんが、村上春樹さんの小説はそういうやり方から出発しています。それを任意小説といいますと、本当に任意につくられています。ある短章では一種エッセイで、例えば季節についての自分の意見をいったというようなことがくるかとおもうと、次にはちょっと物語的な筋があるような短章がやってくる。こういうふうなことが繰り返されていて、たまにはたった二行ぐらいしかないというような短章もある。そういうことの形式的なこだわりとか内容の文体的なこだわりとかということ、それから主題のこだわりというのは一切なくて、まあ任意小説といいましょうか、任意につくられちゃった小説だ、あるいは書いているうちに独りでにこういうふうにかたまってきちゃったというふうにもいえそうな、そういう作品のスタイルがとくに初期ではとても大きな特徴でした。
 (吉本隆明「文学の戦後と現在」『吉本隆明〈未収録〉講演集』第九巻)

 これは文体的な解析に基づいたものといえるだろう。『風の歌を聴け』の魅力は、なんといっても、六甲の山並みの迫る神戸の街の雰囲気と「鼠」の存在感だ。彼が佐々木マキをとても尊重していた理由もそこにある。そして、主人公と「鼠」の親密な関係に女性が登場することで、潜在的な三角関係が生ずる。それは漱石的主題といってよく、その関係の陰影と「鼠」の死が、「螢」を拡大した『ノルウェイの森』を生む原動力となったのである。病める女性との不能の愛を描いた代表作のひとつだ。ついでに言えば、漱石の悲劇の本質は失敗作である『行人』にむきだしの形で露出しているといえるだろう。
 そんな村上春樹の〈転機〉も吉本隆明は的確に指摘している。

  ぼくの理解の仕方では、村上春樹さんは自分の特異な世界のリアリティと、それはそれで特異な世界に違いないんですが、社会性、つまり人々の共同的な体験がつくり上げる世界の意味とが合わさった世界をこしらえることができるようになったのだとおもいます。『羊をめぐる冒険』ではまだ恐る恐るといったらいいんでしょうか、社会派の人がつっこむべき問題に当面して恐る恐る手を出したという描き方をしています。『ノルウェイの森』になると「わかった」という感じだとおもうんです。『羊をめぐる冒険』までの世界に対して、社会派が当然取り上げるべき世界を含んだそういう作品の世界をつくる場合には一ヵ所だけなぞをつくればいい、一ヵ所だけ不明な点をつくればいいんだということだとおもいます。これはぼくの理解の仕方ではかなり意識的だとおもいます。つまり、推理小説でいえばこうやれば解けるというキーポイントがあるわけですけど、それと同じように一種のなぞめいたところをこしらえて、そのなぞめいたところがわかればこの作品の世界、つまり本来の社会派が取り上げるべき問題を含んだようなこの世界の問題が解けるというような、そういう一ヵ所だけなぞめいた世界をつくるやり方をしているようにおもいます。
  ですから、世界を二つの層にしてわかりやすい世界とちょっとわかりにくい世界がある、しかしここになぞめいた描写の箇所、あるいは結節点、あるいは先ほどからいっているコンポジションの一つの定点なんですけど、その定点に、なぞめいた要素を一つこしらえたら、作品は作られていきます。

 (吉本隆明「戦後の文学と現在」)

 この「謎」の設定が、無意識の膨らみをもっているときは、それが作品の含みとなり、ストーリーの豊饒さは増すだろう。先の「螢」でいえば、「僕」と「彼女」の連れ立って歩くシーンには、いつも「誰か」の気配が先行している、逃げ水みたいに。もちろん〈影〉のように寄り添っていると言い換えてもいい。そういうふうにみなせば、この〈気配〉を物語的な構成に転化すると、「謎」の様式を導入することができる。『ねじまき鳥クロニクル』第1部は途中まで『新潮』に連載された。これには惹き込まれた。つづきが読みたくて、発売日に購入し、真っ先にそのページを開いた。それは萩尾望都の『マージナル』以来だった。しかし、その「謎」かけが弾力性と展開力を失うと、作品世界はたちまち通俗的な怪奇的推理小説に失墜する。
 わたしは『海辺のカフカ』や『1Q84』を世間がいうほど良い作品とは思わない。基底にある主題意識が作品の優位性の顕われだとしても、彼は回避したのだ。資質に引き寄せられる必然を。自己破滅を怖れなかった夏目漱石や太宰治や三島由紀夫とはそこで違ってしまったのである。それがオウム真理教事件に対する『アンダーグラウンド』にみられるように「社会的正義派」へ横滑りした主因なのだ。
 村上春樹は『やがて哀しき日本語』が象徴しているように、日本と世界の〈狭間〉にポジションを設定することで、ジャーナリズム的にはうまく自己演出を遂げているつもりだ。しかし、それが本質的には〈虚妄〉の立場ゆえに、村上春樹の大江健三郎化(独善的と読みます)は加速したのである。大江健三郎ほど偏執的ではないけれど。そうはいっても、村上春樹の本領は短篇作品にあり、『中国行きのスロウ・ボート』から『東京奇譚集』にいたる短編集の佳篇は、みずみずしい生命力を湛えたものだ。
 吉本隆明の「村上龍・村上春樹論」は、文学の〈源泉〉を尊重するものであり、さまざまな肯定と否定の交錯する〈現在的課題〉を内包しながら、屹立している。   (2019年7月10日刊)


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