コロナ状況下、脇地炯さんを追悼する

松岡祥男

 どうしてる?
 どうしてるって言われても、どうもしてねえよ。新型コロナのこともあって、相変わらずのひきこもりさ。おれ、歯が悪いこともあって、出掛ける時はマスクをずっとしていたんだ、コロナの影響でたいていの人がマスクをするようになった。それで、この人、どうしてマスクしているんだろうと、花粉症なのかなという具合に特別視されることはなくなったよ。
 そんなことを気にしてたのか。
 いや、気にはしてない。どう見られようと関係ない。最近、吉本隆明さんの『詩歌の呼び声―岡井隆論集』を菅原則生さんと二人三脚で作った。これは岡井さんが亡くなったこともあり、その追悼の意味も籠めて、計画を立てたんだ。それで『現代詩手帖』の岡井隆追悼号をみたんだけど、それに「岡井隆代表歌百首」(黒瀬珂瀾編)というのがあって、それをみると、「これはちょっと」と門外漢のおれでもおもった。膨大な歌の中から百首を選ぶというのは、とても難しい。例えば『家常茶飯』という歌集があるだろう。これはおれにとっても痛切な歌集だ。

 一度は世界を否定しようと決めたのだ左翼だつたとはさういふことだ

 さうなれば世界の方でも黙つてないその復讐が晩年に来た

 左翼つていまは伝説でさへないがあの頃途方もなく現実だつた

 ソビエトの崩れたる朝ぎらぎらとした日のなかで茄子を洗つた

 左翼つて左の翼うつくしい翼だつたよだから飛べない

 どこからでも死はおびきだせただろうワイングラスを拭きながらでも

 システムバスのゴム栓をぬき湯をおとしそれからまつすぐ死へいつたのだ

 ソ連邦の消えたあとも消えるはずのない傷ついた過去を持ちて生きてた

 青春期に左翼を病んだひとはいまも骨髄にふかあい病巣を抱く

 それがわかる、といふのは無論ぼく自身その病を引き摺つてゐるからなのだが

                          (岡井隆『家常茶飯』)

 これはひとつづきのものだ。「代表歌百首」は《左翼つて左の翼うつくしい……》一首を採っている。どうしても一首となれば、おれなら《青春期に左翼を病んだひとはいまも骨髄にふかあい病巣を抱く》を採る。
 人生の終わりに、最後に行きたい所へ連れて行くというNHKのドラマ「天使にリクエストを」を見ていたら、塩見三省演ずる老アナーキストが、江口洋介、上白石萌歌、志尊淳のチームの看護師の志尊に、最後に聞きたい歌はないかと訊かれて、「生活の柄」と答える場面があった。これにはちょっとびっくりした。
 高田渡の「生活の柄」を知ってる奴なんて殆どいないだろう。
 それで、車を運転している江口が歌う。

 歩き疲れては、
 夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
 草に埋もれて寝たのである
 ところ構はず寝たのである
 寝たのであるが
 ねむれたのでもあつたのか!
 このごろはねむれない
 陸を敷いてはねむれない
 夜空の下ではねむれない
 揺り起されてはねむれない
 この生活の柄が夏むきなのか!
 寝たかとおもふと冷気にからかはれて
 秋は、浮浪人のままではねむれない。

                (詩・山之口貘 歌・高田渡)

 江口は最初の3行を復唱した。これは脚本家の大森寿美夫がその方がカッコいいと思ったからだ。
 山之口貘は根強く読み継がれているからね。一見なんでもないような感じがするけれど、一字一句ゆるがせにしていない。最初の2行と「寝たかとおもふと冷気にからかはれて」という行がこの詩の芯だとしても。
 江口が高田渡を真似ずに、じぶんの歌い方をしたのがよかった。高田渡の歌では「自転車に乗って」がいちばん好きだな。しかし、話題がテレビしかないのは貧乏の証拠だ。知り合いの家に家族で寄宿しつづけた山之口貘ほどではないにしろ。目も悪くなり、本を読むのに苦労するようになったうえに、金は無い。そうなると、情けないことにどうしても必要なものしか買わない。それは行動においても同じだ。あれをやろうとか、あそこに行こうと思っても、また「今度」とおもい流してしまう。これが老化の実態だ。若い時はそうじゃなかった。やりたいことや思ったことは実行に移していた。むかしは「還暦」というのは大きな節目だったような気がするが、平均寿命が延びて、いまや通過点にすぎない。じぶんのことで言っても。
 そういうことでいえば、いまの世の中で節目となるのはやっぱり「定年」だろうね。『風のたより』二一号を福岡の田中洋勲さんに送ったら、その中の若月克昌の小説「ミスガイデッド・エンジェル(妹はエンジニア)」に出てくる、カウボーイ・ジャンキーズの『トリニティ・セッション』をプレゼントしてくれた。

 俺たちは炭鉱夫、固い岩を掘り進む
 坑道へと下りて行く
 灯油ビンを背負って
 斜坑へと進んで行く

 列になって
 列になって
 穴を掘り進め
 班長がやってきて
 時間までに掘り終われと言うまで

 粉塵が
 肺の中に溜まるのがわからないか?
 それは若い坑夫の
 命を奪っていく
 2年で
 塵肺に侵されて
 黄金を求めた俺は
 命尽きようとしている
 黄金を求めた俺は
 命尽きようとしている

           (「マイニング・フォー・ゴールド」)

   一曲目のこの曲を聴いて、すぐ気に入った。むろん、歌詞(英語)の意味は分からないから、その声とメロディに惹かれたんだ。言語論の多くは文字に重点が置かれている。しかし、文字の表音性や表意性よりも、音声や文字以前の表出、つまり胸中の思いや呻きや叫びのようなほうが先行する。おれは音楽が分からないけれど、それでも身辺には歌は流れていた。歌謡曲は好きじゃなかった。それにもかかわずラジオの歌謡番組は聞いていたからね。
 音痴で身を固めていても、滲入してくるからな。買い物はわしの役目で、スーパーマーケットに行くと、その店のテーマソングが流されている。それが忌々しいことに耳について離れないからな。例えば鮮魚コーナーで「魚 魚 魚を食べると 頭が良くなる」なんて、くだらない曲が流れていて、それがこびりつくんだ。
 おれたちの世代でも、音楽のベースは学校で習った唱歌だよね。流行ということでいえば、ビートルズの登場とその波及としてのグループ・サウンズが大流行したけど、それほど動かされなかった。「高校三年生」や「恋の季節」くらいには引き込まれたけれど、そういう意味では極めて浅い関心だったような気がする。しかし、高校のクラスのニシオカに誘われて授業をさぼって「ウッドストック」の映画を見た。あれは衝撃だった。これで、おれの音楽に対する意識が完全に変わった。そのあと、ニシガワに関西フォークを教えられた。これはおれにとって、歌詞の七五定型を破る口語自由詩への開明みたいなものだ。これなら、おれにも詩が書けるかもしれないと思ったんだ。初めて作ったミニコミ誌の誌名はニシオカの提唱した「get freedom」だった。
 歌詞の訳を読んで、長兄がトンネル工事の坑夫として全国を渡り歩き、肺をやられて、長い闘病生活のすえに死んだこともあって、痛切に響いたな。しかし、歌の力って凄いな。NHKの朝ドラ「エール」をみていたら、甲子園球場で「栄冠は君に輝く」を歌う場面があった。歌詞と曲はともかく、山崎育三郎の歌唱は圧巻だった。
 田中さんには以前にも、高橋悠治ピアノのサティ・ベスト・セレクション『ジュ・トゥ・ヴ』を送ってもらった。それはたまたま持っていたので、友人にあげた。吉本さんが音痴の典型として挙げているのはカフカだ。

 彼らは、言葉を話したわけでも、歌をうたったわけでもなく、そろいもそろって苦虫を咬みつぶしたような深い沈黙をまもっていた。が、その大きな沈黙のなかから、まるで魔法のように音楽を浮かびあがらせたのである。すべてが、音楽であった――足の上げおろし、ある種の頭のうごかしかた、走るときの動と静、ぱっと散ったときのたがいの構え、また、七匹で形づくる一分のすきもないコンビネーション。たとえば、たがいに前足を相手の背中にのせて、順に櫓をくみ、先頭の一匹が残りの六匹の重みを垂直にささえる。あるいは、地面に身体を伏せたようにして、いろんな複雑な図形をえがきながら移動していき、一糸の乱れも見せない。
                     (カフカ『ある犬の研究』前田敬作訳)

 吉本さんは次のように言っている。

 そのうちに七匹の発する音楽は力をまし、「わたし」を拉し去って、どんなに力をふりしぼってさからい、うめき声をあげても、「四方八方から、上からも下からも、あらゆるところから押し寄せてくる」音楽に引きずりこまれ、圧倒され、うちひしがれ自失してしまう。七匹の犬は「わたし」をじぶんたちのなかに、音楽家たちの一員であるかのように引きずりまわし、投げこんだ。そしてわたしは「彼らがみずからつくりだした音楽に臆することなく身をさらしているその勇気」や「へこたれずに平然としてそれに耐えている力」に驚嘆する。
 犬族だった「わたし」はここで「音楽」だと感じているものは、体感異常の分裂病者に変身したカフカが「音楽」だと感じているのと、記述上の位置からはほとんど等しい。ここでも執拗な意志でも働いているかのように、ひとびとが音楽だとみなしている音階の秩序や諧調やその持続の波形、演奏家によるその解釈と批評の楽器による演奏、といったものを「音楽」と呼ぶことが回避されている。群れをなした七匹の犬のあらゆるコンビネーションの動作、そして音声にならない膨大な部分の音声を潜在させているような、低くて短かく強いうなり声、「わたし」をおなじ動作のなかに捲き込んでしまう力が「音楽」とみなされる。だがこれは自然音や動物の吠える音声、その動作と体形のようなものの律動、これらが「音楽」だといわれているのでは、まったくない。つまり自然音主義とはまったくちがう。聴くものの位相が犬族に変身したときだけ、ほんとに「音楽」として聴えてくる犬のうなり声や動作やコンビネーションが「音楽」なのだ。人間の位相からは、犬のうなり声もどんな動作も「音楽」としては、まったく聞えない。だから「音楽」の概念を、自然音や人工自然音や環境音響の世界にまで拡張すればいいというのとも、まったくちがう。分裂病的な体感異常で犬族に変身してしまうとき、はじめて犬のうなり声や動作が「音楽」として聞えてくるのだ。カフカはここのところではじめて考想化声のように「音楽」が成り立つのを感じている。分裂病の音階としては三以上の音階なのだが、これは入口の像(イメージ)に当っている。カフカには音階そのものであるJ・ケージや宮沢賢治のようには、音楽が茸や鹿やカッコウなどから聞えてこない。じぶんが茸や鹿やカッコウや犬になるという体感異常を経なければ、それらの発する音や動作が音楽には聞えない。だが、それこそがほんとうの入口なのだ。

                 (吉本隆明「像としての音階」・『海燕』初出)

 吉本さんはカフカがどうしても音楽に対して身構えてしまい、心身が硬くなってしまうことを指摘し、そして、それに融和(同化)するには、『変身』にみられるような、ある転位が必要だと言っている。
 だけど、犬の呼吸法は一般的に音楽の練習では取り入れられているんじゃないか。そういう意味ではカフカは音楽に対して無理解じゃない。
 おれなんか中学校で英語の授業がはじまり、隔絶した言語環境ということもあって、ついていけなかった。さらに音痴であることが強烈に影響して、そのリズムを受け入れることができず、苦手意識に囚われた。まあ、教師の教え方にも問題があったのかもしれないけれど、その苦手意識は思春期ということもあって、一種の拒絶反応に転化していったような気がする。爾来、外国語は全く身についていない。これはほんとうは頭の良い悪いでも、学習力の問題でもない。まあ、教師や優等生連中はただの落ちこぼれとみなすだけだろうが。そういう意味ではカフカよりひどいといえるかもしれないよ。
 パーフェクトな人間なんて存在しない。みんな、どこかに欠陥を持っているはずだ。それを恰も公準があるがごとく設定するからろくでもない事態を生むんだ。吉本隆明はその主因を胎乳児期に求めている。そうだとすれば、これは克服することは不可能だ。しかし、人間という存在は音痴であろうが、身体能力が著しく劣ろうが、そんなもの関係なく別の能力でカバーしながら、生きているんだ。神奈川で重度の肢体不自由な存在をつぎつぎに惨殺した野郎がいたけれど、彼等の一人ひとりがどんなことをその内なる世界で思い描いていたかは外部から窺い知れないんだ。経済的尺度だけで人間のなにが推し量れるというんだ。これは自己投影にすぎない。ほんとうはおのれの〈影〉を抹殺しただけなのだ。そんなことで、他の命を奪う権利は誰にもありはしない。
 狂気は誰の中にも内在する。

 分裂病やパラノイアの幻聴のように、幻聴に病的な意味が与えられるばあいをかんがえてみる。幻聴のどこに病的と呼ばれる過程があるのだろうか。
 本来的にいえば、幻聴のばあいでさえ音源と聴覚器官とのあいだには、音源が心の内部に架空に存在し、それをあたかも外部にあるかのように、架空の音源の振動によって触知しているという純粋に心の過程と、もうひとつ、現在の高度にシステム化された社会を、あたかも原始的な共同体であるかのように幻覚して、氏族内婚制の共同体の掟てのようにじぶんに圧倒的な強制力を及ぼしてくる共同意志を架空に仮設する過程と、このふたつの過程がはっきりと分離してつかまえられていなくてはならない。ところが幻聴が病的な過程にはいると、この心的な過程と社会の像(イメージ)の原始的共同体への退化の過程とが、混合し、混乱し、ついには融合してしまって、じぶん自身に区別できなくなってしまう。あるいは別の言い方をすれば、心の退化の過程像と社会の退化の過程像とが混合し、融け込んで区別がつかない状態を獲得したときに、分裂病やパラノイアの幻聴の病像が産みだされるといってもよい。わたしたちが精神の病気や異常でいつも体験するたったひとつの状態、つまり病いや異常の発現のきっかけは現在の具体的な人間関係や社会関係のひとつの場面でうけた衝撃や傷が基になっているのに、その真因は乳胎児期からプレ・アドレッセンス期までの両親(とくに母親)、兄弟姉妹、近親との接触障害に潜んでいるとかんがえざるをえないのは、この二系列の退化の融合状態こそが病像(このばあい分裂病またはパラノイアの幻聴)を産出する基体だからだとおもえる。
 幻聴が病的な状態で音源の像(イメージ)としておもい浮べることができるのは、当然なことに二つの系 に分けられる。ひとつの系統は何らかの意味で誇張された両親(とくに母親)、兄弟姉妹、近親の像(イメージ)である。もうひとつの系列は共同体が共同幻想として誇張し流布したゴッグ、マゴッグ、悪魔、神、自然、首長などの畏怖すべき像(イメージ)である。幻聴はこれらの像(イメージ)を音源としておもい描くことになる。もちろんもうひとつ、幻聴それ自体も像(イメージ)に転化される。あたかも音の周波数にしたがってオシログラフィックな画像や映像を出現させるように、幻聴の高低強弱にしたがって大小の火花が揚がるという病者の体験はありふれた体験といえよう。

                 (吉本隆明「像としての音階」・『海燕』初出)

 でも、英語をはじめとする外国語ができなくったって、日本で生きていく分には多少不便であっても、やっていけるさ。日本がアメリカの占領下にあったこと、また日米安保ということでアメリカの影響は浸透しているけどね。
 昔は中国、今はアメリカってことだな。
 脇地炯さんが二〇二一年一月一八日に亡くなった。元旦に年賀状をいただいていたので、まさか……と。
 どうして脇地さんを知ったんだ。
 脇地さんは『吉本隆明資料集』を購読してくれていた。それで、脇地さんが吉本さんにインタビューした「大衆の原像」を『資料集』に再録する際には、新たに小見出しを付けてもらったんだ。『違和という自然』(思潮社)ではひとつづきで、読みにくかったからね。脇地さんは一九四〇年和歌山県生まれ。北海道大学卒業後、毎日新聞に入社。銀座セゾン劇場広報宣伝部を経て、産経新聞に転職し、定年まで勤めた。新聞の文芸記者って因果な稼業という気がするな。物書きでもなければ、編集者でもない、いろんなコネや情報網を必要とする。なのに実質はほとんど無いという。
 まあ、マスコミ関係はみんなそうじゃないかな。
 脇地さんとより親密になったのは、「猫々だより」に執筆してもらったからだ。その時、名前が「火」に「同」になっていて、脇地さんから「名前が間違っている、作字したのか」という連絡があった。「いや、違います。パソコンで出したものをそのまま使ったんです。申し訳ありません」と答えた。しかし、「炯」がどうしてそうなったのかはいまだに謎だ。その後、何度か試みたけれど、その字は全く出ないからね。それが大きな契機になって、手紙や電話でのやりとりが始まった。脇地家はもともとは高知県西部(四万十川のある幡多地方)の出とのことだ。脇地さんは流すことができなかった人だ。それが特異のような気がする。例えば『文学という内服薬』(砂子屋書房)の巻頭に置かれた「文学者と常識」という文章がその典型だ。脇地さんは安部公房作の演劇「人さらい」の感想を新聞に書いた。それを『安部公房の劇場 七年の歩み』に収録させてほしいという申し出があり、承諾した。ところが本が刊行されても、いっこうに送ってこない。それで電話したけれど全く相手にされなかった。怒った脇地さんは安部公房本人に抗議している。そしたら安部公房は謝罪し、すぐに女優の山口果林に直接届けさせたという。おれなら、本を送ってこなかったとしても「いい加減な奴らだ」と思い、流すだろう。おれの乏しい経験からいっても、マスコミ関係者というのは後始末はあまりしない。原稿を依頼し入手すれば終わりで、その原稿が紙面に掲載される頃には次の業務に取り掛かっているものだ。そのため、顔写真が必要なので原稿に添えてくれと言われ、それに応じて提供し、「要返却」と伝えてあっても、返ってくることは稀だ。脇地さんは異質だよね。
 そうだとしたら、あっちこっちで衝突するんじゃないか。
 脇地さんから聞いた話で、ここから先は《文責松岡》ということでいえば、かなりあったらしい。大江健三郎とインタビューかなんかの約束していて、一方的に反故にされ、電話で抗議すると「お前なんか相手にする気はない」と言われ、ガッチャン!とのことだ。またセゾンに勤めていた時、西欧映画の上映会のパンフレットを作るのに、四方田犬彦に原稿依頼した。ところが監督の氏名の表記が四方田だけ異なっていたので、脇地さんが「統一したい」と伝えると、四方田は嫌だったら「わたしはこれで通します」といえばいいところを、「そんなことを言うなら、堤(清二)さんに言いつける」と言ったそうだ。つまり、社長に告げ口するということだ。四方田がいくら良識ぶったって、その本性は権威にすがりつく世渡り上手にすぎないことは、このことでも知れるってもんだ。脇地さんは頑固だけど虚言を弄する人じゃなかった。
 だから、信頼していた。
 うん。末期癌と分かった中上健次は家を出て、別の女性と暮らしていた。中上健次の最期を看取ったのはその女性だ。それで脇地さんは同郷の先輩として、その女性と中上家がトラブルにならないように計らったらしい。
 そういうことを言うなら、『VAV(ばぶ)』の陶山幾朗・成田昭男との間で問題になった『試行』に「褪色」という作品を発表した沢清兵は、内村剛介のペンネームということに関連して、内村家の表札がよく変わっていたというのは脇地さんから聞いた話だ。陶山幾朗は内村剛介については、じぶんがもっとも打ち込んでいるので、誰よりもよく知っていると思い込み、「沢=内村」という意見を頭から否定し、これは「なんらかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する」などと言ったんだ。それが専門家がはまる陥穽のひとつだ。異説に接したら、それを検討するのがほんとうなんだ。陶山幾朗は脇地さんとも交流があったから、いろんなことを聞くことができたはずだ。そうしたら、別の角度からの人物像が得られただろう。ソビエトに抑留されたことが内村剛介の決定的な体験であることは疑いないけれど、帰国後の動きも重要なのに、陶山幾朗は抑留問題に深入りしていった。
 浮海啓さんの大学の後輩にあたる名古屋の六〇年安保世代のHさんから直接聞いた話では、当時の学生仲間では「沢=内村」説は通り相場になっていたそうだ。どうしてかというと、内村剛介の筆名で『日本読書新聞』に発表した文章が「褪色」の文体とそっくりだったからだ。陶山幾朗はプロの編集者で、『内村剛介著作集』も編んでいるんだから、文体は人格であるという側面も考慮したら、よかったとおもう。まあ、内村さんも吉本さんも、陶山さんも亡くなった。確かめるとしたら、もし『褪色』の原稿が残っていれば筆跡鑑定でもやるしかないだろう。おれは『試行』の発行者である吉本さんの証言は信憑性が高いと思っているけど、べつに固執するわけじゃない。
 脇地さんの話でもっとも同情したのは、新聞社の仕事は時間に追われるハードな仕事だから、休日はぼんやり過ごしたいだろうに、詩人のMさんが毎週のように日曜日の午後に訪ねてきたとのことだ。訪問する方は〈順序と完備〉の予定調和的な行動なのだろうけど、新婚の夫婦にとってはきつい。
 あれはつらいよね。休日というのは前の晩に飲みに行ったりして、朝遅く起きて、ふたりでゆっくり朝食をとり、さて午後は買い物に行くか、散歩に出るか、なにをするにしても自由な、くつろぎタイムだ、そこへ来客。
 まあな、週休二日の時代じゃなかったからな。Mさんは翻訳が本業で在宅ワークだから、息抜きだったかもしれないけれど。
 脇地さんは埴谷雄高を最大の師とおもっていた。埴谷の「自同律の不快」に共感したからだ。これは少年時代に教師のこどもということで、土着の漁師のガキどもに謂れもなくいじめられたことが影響しているとおもう。この被害体験がいろんな理不尽な仕打ちや齟齬に対する反発の核になっていることは間違いない。
 そういうこともあって、他者を表面的な経歴や学歴で決して判断しなかった。
 おれは『VAV』二五号に掲載された「『倫理』のあとさき」という論考が脇地さんの面目をもっとも示したものだと思っている。六〇年安保闘争後の学生運動の負の病理に対する渾身の批判だ。
 中上健次にふれて、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」の《この「殺意」は「父」に対して「少年」が必ず抱くもので、その実現の不可能性に気付いたとき、彼は「少年」期を脱して「父」の世界に踏み入るのだ》という古典的な見解を呈示したあと、中上健次は秋幸という分身を通して、浜村龍造を越えようとしたと脇地さんは述べている。「なかうえ」(本名)と「なかがみ」(筆名)の狭間の作家の悲劇を見通した、温かい理解といえるな。
 そういう意味でいえば、村上春樹の『海辺のカフカ』は「父親殺し」の本質に到達していない、中途半端なものだ。そこで村上春樹は「父」になりそこねている。親のもつ〈無償性〉を受け容れることができなかったんだ。だから、変なこだわり方をしている。父親の戦中の身の処し方に対して、個人がどうあったかよりも、国家の動向やその共同意思が圧倒的に支配するから、それを根底的に批判することが重要なんだ。個々人の想いや振舞は、そこでは従属的なものでしかないからだ。
 それは村上春樹の世界認識が徹底性を欠いていて、横滑りしているってことだろ。
 脇地さんは大学卒業時、編集者を目指し国文社の募集に応じて、ほぼ採用が決定しかけていたけれど、土壇場になって日頃から出入りしていた田村雅之が採用されたと聞いた。おれは脇地さんは「編集者」や「新聞記者」よりも、父親と同じ学校の先生が向いていたような気がするな。まあ、誰だってうまく順当な道をたどれるわけじゃないからね。
 ほんとうはご冥福を祈り、合掌するだけでいい。余計なことは言わずにな。
 その通りだけど、おれは亡くなった人の無念の思いみたいなことを察するならば、やっぱり悼む気持ちを、想い出とともに語ってもいいとおもう。それが追悼するということじゃないのかな。

    2

 ところで、おまえは坂井信夫・築山登美夫とのケンカに決着をつけるべく『風のたより』二三号に、「おれのパンク・ロック」を書いただろ。
 うん。ほんとうは築山登美夫の「微茫録二〇一一」(『雷電』三号・二〇一三年二月発行)を引用して、俎上にあげることも考えたけれど、こんなもの引用したら、俎板が腐るかもしれないとおもい、一点に象徴させたんだ。それがないと、殆どの人が築山の文章なんか読んでいないだろうから、話が見えないからね。仲間内のメールの安易なやりとりを公開することで、墓穴を掘ったのさ。もうそんなことはどうでもいい、おれの言いたいことはあれで終わっている。
 そうだが、築山の《吉本氏は「吉本資料集」での吉本氏以外の人の発言は、すべて「引用」とみなして、文藝の世界では、引用は全く自由で、それが不自由な学界とはちがふんだ》云々の、《不自由な学界》というくだりは、口先だけの築山と違って、おまえはその具体的な事情を知っているだろ。それは言っておいてもいいとおもう。
 あれは『甦えるヴェイユ』(JICC出版局)の初版の「使った本」のなかでシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』(田辺保訳)が抜け落ちていて、田辺保から抗議があったんだ。それで吉本さんは補訂した。ところが、田辺保はこれを「盗作」呼ばわりした。このことは吉本さんから直接聞いた。もちろん、学会と文芸の世界の相違もあるだろうが、それ以上に、田辺保はヴェイユの『工場日記』をじぶんのものと錯覚している。これは〈ヴェイユの著作〉であって、田辺は訳しただけだ。訳書の選択と翻訳の労はあるから、引用して活用しているのだから、文献としてリスト・アップしなかったことは〈抜かり〉だけど、「盗作」などと言うのは倒錯だ。この手の勘違いは学会特有で、狭い世界で体裁を整えることに躍起になり、世間知らずのいびつな慣習を形成しているような気がする。
 その〈病的な習性〉を文学の世界で体現しているのが大江健三郎だ。ある雑誌が大江の特集を組もうと考えて、企画の申し入れをしたら、大江はお宅は以前わたしの批判を掲載したことがあるから、特集を組むことを許さないと言ったそうだ。完全に病気だよ。誰かが大江の批判を書いて、それを掲載したからといって、それがその雑誌の〈総体的意向〉であるわけがないじゃないか。誇大妄想と被害妄想は表裏一体だ。じぶんのことを少しでも悪くいうものは認めない。大江は「戦後民主主義」を表看板にしているけれど、実際は真逆で、排他的な王国の専制君主みたいなものだ。他者の権利や意見を尊重しないなんて、そんなもの、民主主義とは言わない。その昔、「吉本隆明をどう粉砕するか」という特集を組んだ雑誌『流動』や『マス・イメージ論』批判を三号にわたって特集した『日本読書新聞』などの〈組織的な攻撃〉とは明らかに異なるからだ。
 田辺保に限らず、学会のしきたりが絶対と考え、あげくには翻訳したものをじぶんの〈所有物〉と見做す錯誤が罷り通っている。むかし新聞記事で読んだんだけど、『中原中也研究』という雑誌で、ある研究者が中原中也のランボーの訳には小林秀雄の訳の盗用箇所があるという文章を発表したとあった。それを読んで、おれはバカじゃないかと思った。ランボーの〈原詩〉は厳然と存在する。その翻訳は人それぞれであっても、訳の語彙が類似するのは当然だ。ましてや、小林と中原は長谷川泰子をめぐって三角関係に陥った間柄だ。こんなことを問題にする研究者も阿呆だが、記事にする新聞もその見識を疑うね。
 まあな、瀬尾育生がじぶんの文章をインターネット上で「引用」することも「言及」することも認めないと、『現代詩手帖』二〇一八年二月号で書いていただろう。
 なにをトチ狂っているんだ。あらゆる言論は〈自由〉だ。おれが認めないのは〈匿名〉によるものだ。はっきり名告って発言するなら、どんな媒体に、どんな意見を〈公表〉してもいい。それ以外に〈原則〉はない。もし、その発言が根拠のないひどいものだったら、逆に批判にさらされ、炎上するだろう。もっといけば、名誉棄損で訴えられるかもしれない。言うまでもなく「拡散希望」なんて余計なことだ。いかなる発言も本質的には発言主体に帰属するからだ。そうでなくても、個の主体性はどんどん希薄化している、システム社会に吸引されて。自ら〈顔〉も〈身体〉も無い、亡霊のナレーターの位置に移行するなんてナンセンスの極みだ。そんなの、機能的な接続のひとつにすぎないさ。しかし、こんなことを言っても通用しない。なぜなら、多くはスマホで〈世界〉とつながっていると思っているからだ。〈原理〉は貫徹するとしても、現状はどうしようもない。瀬尾は、もし誰かがネット上で「引用」し「言及」したら、そいつを告訴でもするというのか。
 変な〈序列意識〉があるのさ。そりゃ、おまえなんか『現代詩手帖』みたいなところでは無名の存在にすぎない。しかし、世間全般でいえば事情は変わるかもしれない。だいたい、瀬尾も北川透も思潮社を持ち上げるだろう、じぶんたちが世話になっているから。だが、この会社は近年著者印税も払わないブラック企業のひとつだ。まあ、知っていて頬被りしているのか、そういうことに疎いのかは、分からないけどな。
 瀬尾育生は藤井貞和と「湾岸戦争」をめぐって論争しても、すぐに妥協して、一緒に雑誌を出したりする。業界癒着の典型じゃないか。瀬尾はバカな排斥的な宣明をやるよりも、じぶんの発言や行為に最後まで責任を持つことだ。〈著者の許諾〉を得たかも定かでない、瀬尾育生責任編集『吉本隆明詩論集成』(全9巻・思潮社)の広告を『現代詩手帖』は何回も出した。それが霧散すると、今度は晶文社の『吉本隆明全集』が刊行中なのに、『吉本隆明アンソロジー』の計画をたて、別の出版社に持ち込んだ。これも頓挫した。この不始末をいったいどう思っているんだ。〈他者の著作〉に関与するのは、たいへんなことだ。じぶんの著書よりも配慮と尽力を要する。
猫 おまえは『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)『追悼私記 完全版』(講談社文芸文庫)『ふたりの村上』(論創社)『地獄と人間』(ボーダーインク)『詩歌の呼び声』(論創社)と吉本隆明の本を作ってきた。いろんな人の協力を仰ぎながら。こういう本を作ることによって、吉本隆明の魅力が伝わればいいなあと思っているからだ。『宮沢賢治の世界』の場合でいえば、地方在住ということもあり、版元探しは難しい面がある。それと全十一講演のうち、「宮沢賢治の童話について」と「いじめと宮沢賢治」は音源の入手がどうしても必要だった。これも素人では困難だ。それで小川(哲生)さんに相談した。この本の実現は、おまえにとって自家発行の『資料集』とは別の可能性が開けたことを意味したんじゃないか。
 それには絶対条件がある。それは〈著者もしくは著作権継承者〉に印税が支払われることだ。これが保証されない限り、どんな企画も成立しない。
 そうだな。中沢新一みたいに他人任せのお気軽ホイホイとは訳が違うからな。まあ、中沢は社会的身分と実績が補填するから、それでも通用するんだろうがな。大江健三郎のことでつけ足すと、息子がプールで溺れているのにブレイクの詩を口ずさむシーンがあっただろ。あれでいえば、わしらが庇って立たなければならないのは家族だけだ。わが子が危ない場面にあれば、身を挺してでも救うべきなんだ。それはいじめであろうが、不慮の事故であろうが、変わりはしない。一方、戦争などの非常時において、「祖国のため」とか「親兄弟を守るため」という心情はすべて共同幻想に吸収され、共同意思に転化される。だから、個人の意思や想いは無化される。それが逆立ちということだ。また自分自身が困難な局面に直面したら、どういう態度を取ろうと恣意性に属する。逃げようが、立ち向かおうが、妥協しようが、その時の判断でいい。おまえはパンクって言うだろ。パンク・ロックなんて重厚なクラシックの名曲に較べれば、雑音(ノイズ)の一種にすぎないかもしれないぜ。
 うん。おれがよく聴いているアルバムはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』だ。その中にオーケストラの演奏が挿入されている。それは奥行のある豊かなものだ。しかし、詩の本質性のひとつである直截性ということでいえば、パンクというのは瞬時にハートを射抜く力を持っている。それは捨てがたい。北川透がレンガを積むように城壁を築いているとしても、その構築を支える思想の骨格が脆弱なら、現在的な一撃で瓦解するさ。あとにはガラクタが散らばっているだけとまではいわないけれど。北川透の「『最後の親鸞』という思想詩」(『飢餓陣営』三八号)でいえば、北川透は〈往相〉も〈還相〉も、親鸞の〈本願他力〉も、全く分かっていない。始めから終わりまで〈抽象のレベル〉がまるで違う。つまらない嘴入れただけの、こんなものが通用するとおもっているところが、その精神の貧困の証明なのだ。地下鉄サリン事件の時もそうだった。麻原彰晃やオウム真理教と真向かうことなく、「朝日新聞」に呼ばれて、野次馬的な見解を述べた。そんな自分をお粗末とは思わないのか?
 そうだな。遠藤ミチロウでいえば、「スターリン」というバンド時代の体を張った圧倒的な迫力に較べると、ソロになってからの活動は抒情的で落ち着いたものになった。全国あっちこっちのライブハウスをまわるのは体力勝負だからな。「スターリン」のようなやりかたしてたら、身が持たない。忌野清志郎ほどメジャーじゃなかったけど、根強いファンがいるからな。
 やっぱりジャックスの早川義夫の影響は凄いな。遠藤ミチロウにしても、あがた森魚にしても、その出立には彼の存在があったといえる。ところで、岡井隆に関わることで、佐々木幹郎が『現代詩手帖』の岡井隆追悼号に、吉本・岡井論争において、岡井の主張に同意するみたいなことを書いていた。なんの根拠も示さずに。
 アーチストとしての共感からの発言なんだろうが、怠慢の誹りを免れないな。あの論争における吉本隆明の主張は散文的表現がもっとも現在的で、そこからすれば短歌は古典的な表現形式にすぎないと言ってるんだ。岡井隆はそれに抗することができなかった。もちろん、吉本隆明の論拠は準備された『言語にとって美とはなにか』の体系に基づくもので、それは表現史の歴史的展開に基礎をおいたものだ。これは思想的な問題にもつながっている。一般的なことばのひろがりは必ず高度な先端的な表現をも呑み込んでゆく。それは大衆の存在様式とつながっており、権力の移行過程とパラレルということだ。もっとあっさりいえば、佐々木幹郎は「狭い居住スペースに他人の本なんか置くところはない」と言ったことがある。これは実感に基づくもので、ちっとも悪い印象は持っていない。だけど、吉本隆明はじぶんの著書なんか手元に置いてなかった。主著ともいえる山本哲士らが出した「心的現象論」でさえ一冊も残ってなかった。おそらく全部、ひとにあげたり、古本屋行きだ。なんか、そんな違いのような気がする。
 そういう意味でも『言語にとって美とはなにか』は多様な要素が含まれている。表現行為というのは、必ずじぶんの生きている時代の限界を突破しようという衝動をもっているから、現在の言語水準を超えるように働くことは当然だけどね。この〈形式と内容〉の問題を抜きに、あの論争を語ることはできないとおもう。岡井隆は晩年まで『記号の森の伝説歌』の原型である『野性時代』連載の「連作詩篇」に言及している。独特なこだわりだ。ただ、岡井隆は現代詩のなかでは吉岡実と谷川雁の詩を高く評価していた。そりゃ、吉岡の「四人の僧侶」や谷川の「毛沢東」は優れた作品だけど。これは自らが短歌を選んだことと通底している。しかし、岡井隆はその理解線を実作において突き破っていった。
 門外漢のくせに、そんなことを言っていいのか。
 そうだけど、こんな雑文を書いていても、徹底的にやれば、少しは類推は利くようになるからね。「前衛短歌」と謳われた岡井隆の歌は、『家常茶飯』をみれば分かるように平明化している。一見、おれの言葉遣いとあまり変わらない。これは最初の吉本・岡井論争の、吉本隆明の指摘の実践ともいえる。もちろん、その過程では現代短歌史に屹立する作品を残していることは疑いないけれど。しかし、一般性でいうなら、塚本邦雄・岡井隆よりも寺山修司だろうね。演劇・映画など横断的に活躍したからだ。その中心は短歌だ。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

 言いたいことは分かるが……。
 『記号の森の伝説歌』への論及で参考になるのは、石関善治郎の『吉本隆明の帰郷』と吉田文憲の「胎児の夢を乗せた「舟」と「文字」」(『吉本隆明詩全集6』「解説」)だ。『母型論』との関わりをはっきり示した。この詩集に対する評価はここからはじまるといっていい。おれも連載時からずっと読んでいた。最初の頃はモチーフをうまく引き絞ることができないで散漫な感じがしたけれど、しだいに白熱化してきて、「「無口」という茶店」あたりで頂点を迎え、圧倒的な作品になった。

 「無口」という茶店のところで
 乃木坂は黄昏にあう
 粒になった夕日の肩に
 髪の毛みたいに闇が流れ落ちる

 うまく神話に触れてきた
 ふるい村の話からはじまって ちょうど
 いちばん辛い暗礁の日々まで
 涙ぐむ祖母の肩を抱いて
 もっとその奥にある
 「無口」という茶店で
 慰めている

 さっきから
 すすり泣きは 一瞬ごとに深い
 言葉の終りまで沈んでいる
 祖母はそのごとに若がえった
 眼をまっすぐこっちにむけて
 もうそのつぎのことだわよ 無言で
 誘ってくる

 界隈は額縁だけかがやいて
 妙な袋小路のところでは
 組み紐師の妾になった
 神話の比売が祀ってある
 はじめて祖母と出会ったのは
 乃木神社のくら闇
 「婚」の字をたくさん紙に刷って
 いっせいにばらまいた 「帯子」という子が
 いまはじめて女になった
 そういいながら小走りに寄ってきた
 がまんできないわよ わたしだって
 母を産むまえに どうしたって
 あなたと片をつけておかなくっちぁ そういいながら

 たしかその日
 祖母は乳房を晒布でおさえていた

                   (「「無口」という茶店」・ルビ省略)

 江藤淳に『一族再会』という作品があるだろ。あれは一族の行状を歴史に結びつけようとしたものだ。それに対して『記号の森の伝説歌』は出自の内在化といえる。江藤の描き方は一般的で通りはいいけれど、逆にいえば表層的で虚偽が混入する度合いが高い。これまでの通俗的な歴史の扱い方からすれば、そういう場面に登場する人物というのはろくでもない奴が大半を占めている。江藤淳はそのあと『海は甦える』という伝記物に手を染めたからな。生誕から死にいたるひとの生涯を考えると、生命の世代的な継続というのは、内在的で深く、それこそ親鸞のいう〈順次生〉ともいうべきものだ。この詩集はそこに基盤をおいている。「島はみんな幻」という詩が序詩にあたるといえるけど、「魚」や「鳥」や「樹木」というキーワードの解読は難しいとしても、目指されている地平は明瞭だ。固有にして普遍的といえる〈エロスの源泉〉をめぐる旅だ。通常は現在から過去へ遡行するけれど、この詩集の方法は逆で、生誕前の暗闇から、誕生がまるで死の出口をなすように展開されている。
 いずれにしても、『記号の森の伝説歌』は『母型論』の達成に匹敵するものだ。それが吉本隆明の目指した〈普遍文学〉の方向性なのだ。同じようなところに注目している瀬尾育生についていえば、彼は花田清輝と吉本隆明の論争にふれて「問題の次元自体がすでに歴史的に消滅してしまった部分があり」なんていうだろう。確かに思想の展開と歴史の現状からいえばそういえるけれど、依然として日本共産党は残存しているし、その影響力もそれなりにある。党の方針として埴谷や吉本などの「反党分子」や三島由紀夫のような「反動作家」の書いたものは読むなという指導は貫かれていて、党に忠実な党員は愚かにもそれを履行しているだろう。つまり、瀬尾はその現実へ下降し、また思想の発展と深化へと転換するという、リアルな思考が欠落しているんだ。日本の左翼の動きの裏面には中国共産党の意向の影が大きく作用しているなどと言い出すと、話が逸脱する惧れがあるけどね。
 そういう言い方をしなくてもな、筑摩書房が呉智英の『吉本隆明という「共同幻想」』というゴミ本を出しただろ。この本の中味は呉智英がその昔、秋田書店が発行していた『プレイ・コミック』というコミック雑誌に、埋め草記事として書いたものをそのまま引き延ばしたものだ。業界の隙間に潜り込み、巧みに世間を渡る小利口者だ。瀬尾や加藤典洋みたいな高尚な方々は、こんな低俗な奴ははじめから相手にしないだろう。確かに志向性において決定的な差があるかもしれないが、それがすぐ隣に棲息していて、無知や俗情と結託することで、それなりに迎え容れられているのも事実だ。こういう雑多な要素を、じぶんの問題として払底するには不断に否認するしかない。誰もが相対的な存在にすぎないからだ。そりゃ、いまごろ花田清輝なんかを問題にしている連中をみると、バカじゃないかとおもうさ。無視して済むうちはいい。しかし、状況によっては避けて通れない局面だって生まれるはずだ。
 瀬尾が「贅沢で野蛮な時間の使い方」と評した「いま、吉本隆明25時」のイベントに、呉智英は講演者として登場しているからね。こんな奴を呼んで来た主催者の一人もマヌケだが、本音を隠して、無内容なことを講談調で喋った呉智英もどうしようもない屑だ。
 要するに、対象的に不毛であるということはあるにしても、その不毛性というものはじぶんが克服したものでなければ、思想の血肉にならないということだ。例えば主題主義というのはいまだに滅亡していないし、その傾向性も一定の力を持っている。
 抜刀斎でござるよ。そんなことより、おれ、考え直したことがあるんだ。初刊の『記号の森の伝説歌』(角川書店・一九八六年)なんだけど、この造本・装丁を杉浦康平+赤崎正一が手掛けている。これは評判が良くなかった。吉本さん自身も、これは「やりすぎ」と、そして、読む意欲を「相当な程度減殺される」と言われた。でも、デザイナーからすると、この長編詩を読んで、そこに流れるメロディを感じ、それを押し出したかったんじゃないのかな。それで「信貴山縁起」をフォーマットに、一行一行中揃えにして、背景にマッチした書体を用い、波動する譜面みたいな組みにした。最大の難点は、詩本文の文字が小さいことだ。この組詩は、誰かが曲をつけて、朗唱したら、おもしろいとおもう。この詩は、吉本さんの心の歌なんだ。

幻覚が完成したとき
着いていた
目的地は追放された者に はじめて
存在する

すべての陸地はうねりながら
揺れている
海だ

                       (連作詩篇「海」・松岡がアレンジ)

祖母からみれば
文字はみな
荒れはてた路の茂みに
捨てちまった子供たちの骨だ

                           (「祖母の字」・ルビ省略)

 それは一般的に、詩はみんなそうだという意味を超越して、ということだな。
 うん。その後、原稿通りの天付きになったのは当然で、もう初刊に戻ることはないだろう。いま、おれが切実に思っていることをいうと、牛乳が飲みてえ。蕎麦が食いたい。魚では鯖がいちばん好きだった。ところが、近年食物アレルギーというやつで、全部ダメになった。信じられない。いつのまにこうなったのか、まるで分からない。おれだけの問題だったら、純粋の体質変化ということで済む。しかし、そうではない。これはいろんな要素が複合して、こんなザマに陥ったんだ。それを〈学〉のある面々にぜひとも解明してもらいたいと思っているよ。癌の手術で入院したとき、朝食に牛乳が出てきた。それで久しぶりに飲んだら、ものすごく美味しかった。ところが、顔がかぶれ、医師も看護師もドン引きとなった。症状はそれだけで、幸い体調を崩すことはなかったけれど。
 そうだな。花粉症なんて一般化したからな。山間地に生まれたから、家の垣根は杉だったし、家の後の風よけも杉の木が並んでいた。それで杉や檜の花粉なんていくらでも飛散していた。ガキどもは木に登り、枝を揺さくり、花粉を飛ばして遊んでいたんだ。そのころは花粉症なんてものは深窓の令嬢の病というのが通り相場だった。それがこの有様だ。まあ、総体的な環境汚染から食生活の変容までが影響しているんだろうが。
 おそらく、もう元には戻らない。ゲリラ豪雨の頻発する日本列島の気象変化と同じように。
 政府は遂に新型コロナに感染した人でも、重症でない場合は自宅療養にするという方針を出した。これはふつうの人は死んでもいいということだ。無能の野党は、これに対して「中等症」については考慮すべきなどと迎合的なことを言っている。これまでのやり方から考えても、宿泊療養施設を拡充すればいい、それが自宅療養より良いことは分かり切ったことだ。こいつらはみんな棄民勢力であり、人殺しなのだ。
 コロナ対策の政府分科会の尾身は、コロナの蔓延を「災害」と言った。ふざけるな。そんなことをいうなら、こちらは言うべきことは山ほどあるんだ。コロナ感染はもう2年近くも続いていて、政府は有効な対策をとらず、ワクチンの供給も遅れ、後手後手のごまかしの政策に終始してきた。そんな中、強欲IOCに従属しオリンピックを強行した(それに参加した選手たちを非難するつもりはない)。そのツケが一般大衆に及んでいるんだ。これは戦時下の疲弊状況に匹敵するかもしれない。
 その責任は全部、政府にある。そんなことは分かりきったことだ。テレビで他人事のように上っ面の戯言を並べる菅(首相)や小池(東京都知事)を見るのも嫌になった。うんざりだ。
 おれたちはコロナに屈服しない。人類はアフリカに発生し、この地球上に分布した。その過程でさまざまな災厄や疫病も克服してきた。だから、いまわれわれは生きている。仮にコロナウイルスと共存することになったとしても、そこに派生する犠牲の強要や権利の剥奪を容認しない。政府が潰れたって、おれたちは滅びはしないからだ。
                             (2021年9月1日)

附記 政府の「原則入院は中等症以上でそれ以外は自宅療養を基本とする」という2021年8月3日の通達に対して、「陽性者は全員入院」という方針を掲げ実行したのは和歌山県だけです。

                『続・最後の場所』10号2022年2月発行掲載


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「コロナ状況下、脇地炯さんを追悼する 松岡祥男」 ファイル作成:2023.03.29 最終更新日:2023.04.11