ある返信 ―山本哲士たちの愚劇

松岡祥男

 Y・K様

     1

 いつもお便り、ありがとうございます。
 暮れの12月30日に「街道と民家(10)」ほか、年明けの1月5日に「『吉本全集』のリコールの署名集め」のネット記事のコピー、受け取りました。
 晶文社『吉本隆明全集』第30巻(第31回配本)をめぐって、こんな動きがあることは知りませんでした。

『吉本隆明全集』のリコール・正しい再刊行と編者の新構成を要求します。

発信者:吉本隆明 研究会 宛先:晶文社
先日(2022年12月)晶文社より刊行された「吉本隆明全集30 1970-1997」には重大な欠陥があります。収録している作品のタイトルを改竄しています。
このことに抗議し本書のリコールと正確なものの再刊行を求め、編者の新しい構成を求めます。
「吉本隆明全集30 1970-1997」の収録タイトルが「心的現象論」だとされ、解題ではそうしたと書かれています。
しかし、「心的現象論」は、その連載1回目から終刊までの「1965〜1997」の〈1つ〉の総体です。それを待ち望みながら、全集でそうなるのを期待していたのですが、真逆の改竄がなされています。
1965〜1969は「序説」、1970〜1997は「本論」です。
私たちが持って読んでいるのは、「心的現象論・本論」(2008年7月10日、発売:星雲社)。そして「心的現象論・本論」(「知の新書SONDEOS」2022年1月31日発売)です。
著者名で「本論」とされています。
全集であるにも関わらず、既刊本のタイトルを吉本氏死後に、勝手に変えている。
吉本隆明本人は「心的現象論」は「序説」と「本論」からなると決定され、実際に箱入り布製の書は「序説」と「本論」とから成り立ち、デザインには氏の自筆の題字が書かれています。
これは生前に出されている。明らかに、山本哲士氏の解説を待つまでもなく、全集収録箇所は「本論」であり、心的現象論は「序説+本論」です。
このほうが筋が通り、納得できます。この本論部分(1970〜1997)を「心的現象論」とするのは、明らかに全集編者の勝手な改竄です。
問題の全集
「吉本隆明全集30 1970-1997」(2022年12月 発売:晶文社)
A)
収録構成の元になっている本 発行:文化科学高等研究院出版局(EH E S C)
「心的現象論・本論」(2008年7月10日発売 発売:星雲社)
「心的現象論・本論」(2022年1月31日発売 知の新書SONDEOS)
B)
序説部と本論部の合本愛蔵版 発行:文化科学高等研究院出版局(EH E S C)
「心的現象論」箱入り上製布製(2008年8月8日発売)
この既刊刊行本A・Bの存在を無視・排除したような組み立てを、全集が意図的にしているのが読者には伝わってきます。構成は同じで何ら新しさなどないのに、書籍タイトルの改竄です。
私たちは、以下の点を心配し、抗議します。
●著者本人無視の全集の制作
本人が作り、本人が刊行したものを、全集が勝手に書き換える(校閲を最優位に立てて)、前代未聞の出鱈目さは、吉本思想を歪めるものでしょう。
●刊行物の無視ないし排除
「心的現象論・本論」には、初版本の誤植を直し、パンフレットで合本愛蔵版に挟み込まれた初版未収録の「本論まえがき」を補完した「知の新書」版があります。全集の解題は、この「知の新書」版のことを全く記述せず、不正確です。しかも文化科学高等研究院出版局への悪意をチラつかせた、嫉妬叙述を「校閲」の正当性主張によって、名誉意識でなしているように感じます。そんな嫉妬と名誉欲など、はた迷惑です。「試行」原稿の記述を勝手に編者判断で修正しているようなものを、我々読者は望んでいないし、信用できない。「試行」に即した当時からの軌跡そのものを正確に知ることが偉大な書にはだいじです。E H E S C版「本論」の方がはるかに誠実で、厳格にやっています。不十分さは、皆で協力して改善すべきで、排除するなど信じがたいことをやっている。解題には、刊行されていない書をあげ、初版本に対して「加えられた」とし、刊行されている書を排除している、信用し難いものであり、かつ勝手に他のあちこちで「思われる」と余計な推論を述べている。
●本論と心的現象論の形成過程の無視
読者は、2007年4月「吉本隆明の「心的現象論」了解論」の雑誌特集によって、また読書人のインタビュー記事(2007年6月)によって、吉本氏が山本氏たちと「心的現象論」の刊行への企画と、そこへの吉本氏の意欲を知らされた。そして実際に1年後に刊行物として現れた。大変な作業がなされていたのが推察されますが、その経緯は何ら踏まえられていない安易な解題には、全集をもはや信用できないことが現れています。
●全集全体は、ただの資料集になり下がっている
全集全体は、ただ時間順に単行本と論文や小論が、ただ同じレベルで並べられ、単行本ごとが放ったあのダイナミックな著者の意志が全く剥ぎ取られたつまらないものになっており、川上春雄の禁欲的で正確な書誌解説に比して、杜撰なただ自己主張しているだけの不快な解題が、吉本思想を貶め、解体しています。こんなつまらない、しかも資料的にも不正確な全集によって、吉本思想の真髄を壊さないでもらいたい。
以上のことから、以下の点を求めます。
◎リコール、そして新たな再刊
第30巻=不良品のリコールを求め、「心的現象論・本論」として再刊行し、「解題」が正確なものの再刊を要求します。
◎編者の解任と新たな編集体制と全集の構成
全集は、序説と本論とを分離し、「心的現象論」の全体を解体している。
編者が、一人によって、明らかに吉本思想全体がぼかされ、しかも偏曲されている。吉本本人を無視し、既刊本を無視し自分だけが正しいと主張し、自分の主観を勝手に述べているようなこの編者の解任を求めます。監修者、助言者を少なくとも数人で編成し、全集が正しく厳しく制作され、意味あるものになるよう、ちゃんとした編集者数人をもって公正にきちんとなされるのを求めます。新たなしっかりした編集体制の構築によって、年代順などではないテーマ性が、著作集や全集撰のように、はっきり構成された新たな全集刊行を今後求めます。
◎『定本 心的現象論』(序説+本論)の刊行
言語美、共同幻想論、心的現象論と3つの本質がそれぞれ並び立つよう、「序説と本論」とが1つになった「心的現象論」の真っ当な定本の刊行を求めます。その際、「本論」の名称を全集のように排除するのは、思想の歪曲であって、許されるべきではない。吉本本人の残したものとして刊行すべきです。
全集の編集の間違いを変え、正しい深みのあるものにしてもらいたい。全集賛同者をただ宣伝に使うのではなく、実際、巻ごとに関与協力させるべきです。そこに、編集者は従い支えるべきです。ただの一人の編者の横暴さ次元に落下されています。つまり、歴史的な思考の波及成果が、何にも生かされていない。
我々は、アカデミズムに迎合することなく、固有の思想を開き、日本・世界・人類を深く本質から考察した吉本思想を貴重な財産だと尊敬し、多くをそこから正しい刊行書によって学んでいきたい者たちです。
我々は、真っ当な全集を求めます。バラバラにされたものなど必要としない。
出版社の都合によって、思想総体への歪みがなされるのをゆるさない。
読者は、もはや出版社産物の間違いには従っていないことを主張し、本書に限らず、読者も入れての諸々の出版がなされていくことを願いかつ追求します。
代表:町屋英ニ 竹山道夫

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賛同者からのコメント
山本 哲士
正確な認識によってのご支援ありがとうございます。全集のもとで、著者本人の意志が死後に勝手にねじ曲げられるという信じ難いことが、明らかに周到な意図をもってなされました。全集が既刊行物の書名を勝手に変更することは、表題の問題だけでなく思想自体を歪めます。今後のためにも許されてはなりません。当方、発行者としても、また個人的に吉本思想の研究者としても、正しいことへの画定に尽力させていただきます。心的現象論は「序説」と「本論」からなるとご当人は画定され、確かに「心的現象論・本論」を本人とともに私どもが刊行しました。本人ご自身で刊行書を見ておられますことも、お伝えしておきます。
文化科学高等研究院出版局代表

             (賛同数の動向を除き、全文を引用。行アケ箇所は詰めた)

 山本哲士たちは間違っています。
 もっといえば、これが徒党左翼の〈病〉です。
 『吉本隆明全集』の編集と解題に異議や批判があるなら、公然とそれを表明すればいいだけです。リコールも、そのための署名活動も成り立ちません。
 この人たちは視野が狭く、怖ろしく独善的です。
 晶文社の『全集』の構成については、わたしも協力しました。その構成表(企画書)は著者・吉本隆明に手渡され、承諾を得ています。その段階で『第三〇 心的現象論[1970〜1997]』となっていたのです。
 山本哲士たちは著者死後、編者(間宮幹彦)が書名を勝手に「改竄」と主張していますが、無知な言い掛かりにすぎません。
 愚かにも〈墓穴〉を掘っているだけです。

 なぜなら、この「企画書」は吉本隆明本人がみており、これについて著書でも言及しています。
 また、わたし(松岡祥男)も所持していますし、著作権継承者である吉本多子(ハルノ宵子)の手元にもあります。おそらく次女吉本真秀子(吉本ばなな)も知っているはずです。これをみれば、「吉本隆明研究会」なるものの〈邪推〉によるデマゴギーの流布は一目瞭然です。従って、この「吉本隆明研究会」のアッピールを全面否定する〈証拠〉も〈証人〉も揃っています。

     2

 この人たちの根本的な〈錯覚〉は、著者との交流において、じぶんたちが最優先かつ絶対的と思っているところです。そして、関与した〈作品〉はじぶんたちに帰属すると勘違いしているのではないでしょうか。そこから、すべての錯誤は発生しているようにみえます。
 著者に限らず、個の〈存在様式〉は多層で多面的です。吉本隆明の他者とのつきあい方を知りたければ『追悼私記 完全版』をみればいいのです。そして、なによりも

 長い書物を旅して
 ゆるやかな傾斜から
 ころげ落ちるくらいの
 線ともうひとつの線で囲まれた
 卦のあいだの路を
 戻ってくる

 疲れた夕暮みたい 真っ赤な眼のなかに
 ひっかかった
 風がひるがえすと
 こわれた字画として
 まぶたのうらの皮膜を傷めつける
 はじめて字が読めなくなる日
 それまでに

 もうこの人を去らなくては
                 (吉本隆明「字の告白」)

と胸の中で詠じた〈詩人〉なのです。
 それは物の価値についてもいえるのではないでしょうか。
 『吉本隆明全集』は既に30巻、出版されています。その実績を誰も無視することはできません。
 これが気に入らないというのなら、「テーマ別編集の全集」を企画し、晶文社版とは別に作るしかないのです。そんな力がこの人たちにあるでしょうか。そうでなければ、じぶんたちの利害と面子に固執した、盲目的なバカ騒ぎでしかありません。
 かく言うわたしは著者歿後、年代順の『全集』とは別の本を編集してきました。それを列挙すれば、次のようになります。

▼『追悼私記 完全版』(講談社文芸文庫・2019年4月刊)
▼『ふたりの村上 村上春樹・村上龍論集成』(論創社・2019年7月刊)
▼『地獄と人間 吉本隆明拾遺講演集』(ボーダーインク・2020年4月刊)
▼『詩歌の呼び声 岡井隆論集』(論創社・2021年8月刊)
▼『憂国の文学者たちに 60年安保・全共闘論集』(講談社文芸文庫・2021年11月刊)
▼『ことばの力 うたの心 短歌論集』(幻戯書房・2022年7月刊)

 それぞれのテーマの編集本があった方がいいと思ったら、作ればいいのです。
 この人たちの誤謬のひとつは、大主題主義的なところです。主要な著作に重きを置き、小さなものはどうでもいいと考えています。著者は〈重層的な非決定〉を唱え、〈大衆の原像〉をその思想の核心に据えた人です。短い文章も、単なる座興ではありません。深い思索と強い意志に貫かれたものです。「わが子は何をする人ぞ」や詩集『渡月橋まで』の帯文、〈感性の固有曲線〉という分析と指摘、それら個々の文章がどれだけ力を持ち、いかにその人の人生を鼓舞したか、そういう意味では原理的かつ体系的著述に決して劣るものではないのです。
 「全集全体は、ただ時間順に単行本と論文や小論が、ただ同じレベルで並べられ」などという中傷は、およそ〈全集〉とはいかなるものかを知らないド素人の見当外れの放言であり、〈文筆の本質〉を考えたこともない愚鈍な発言です。

     3

 間宮幹彦は全集の編成を決定するために、先行する『吉本隆明全著作集』(勁草書房)や『吉本隆明全集撰』(大和書房)はもとより、いろんな単行本を参照。『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』(未来社)と『擬制の終焉』(現代思潮社)などの構成をヒントに熟考のうえ、「編年体の全集」の骨格を組み上げたのです。『吉本隆明全集撰』のように著者自撰、各巻構成と配列も著者が決定したものと違って、誰が手掛けても完璧ということはないでしょうが、これを「出鱈目」とか「つまらない」などというのは、悪意に満ちた誹謗でしかありません。それは取りも直さず、クレーマーの甚だしい不見識と品性の下劣さを物語っています。
 編者の間宮幹彦は1945年北海道・室蘭生まれ。東京大学を卒業し、筑摩書房に入社。最初の仕事は筑摩綜合大学で、吉本隆明の「南島論」の講演を担当しています。そして、初めて作った本が吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』(1972年5月刊)です。吉本隆明はその「あとがき」で《はじめはやや投げやりであったわたしの姿勢は、努力をかたむける氏をみているうちに、〈これはいかん〉と感じて、しだいに居ずまいをこそこそと正して、辻つまをあわせるまで、わたしを感化したのだから不思議である。このよき人に幸あれ。》と記しています。そして、『悲劇の解読』『宮沢賢治』『島尾敏雄』『夏目漱石を読む』などの単行本を手掛け、『源実朝』『源氏物語論』『初期歌謡論』『柳田国男論・丸山真男論』『最後の親鸞』などを文庫本化したのです。また映画雑誌の編集を経て、全集担当となり、中島敦や立原道造などの全集を作っています。おそらく、この時期にいつか「吉本隆明全集」をじぶんの手でと思い、本格的な準備を始めたのでしょう。
 さらにいえば、間宮幹彦は川上春雄が亡くなった時、兼子利光とともに福島県の川上の自宅に何度もおもむき、遺品の整理を行い、吉本隆明関係の資料を日本近代文学館に寄託したのです。
 その間宮幹彦に「嫉妬と名誉欲」という非難を浴びせています。思わず、笑ってしまいました。じぶんたちの姿と思惑を、言葉の鏡に投影しているだけです。
 誰しも長所も短所もあるでしょう。
 わたしも『全集』の「解題」に不満や異論を持っています。第30巻でいえば、間宮幹彦は『宇宙・生命・エゴ――ライヒは語る』や『リトル・トリ―』の引用が長いことにふれて「助走的なノートの位置にあるといえるように思われる」と言っています。これは苦しい言い回しが現しているように、一面的です。確かにそういう側面もあるでしょうが、ここに〈編集者〉と〈表現者〉の差異があるような気がしました。「引用」に対する洞察が浅いのです。例えば言葉の喧嘩(論争)の場合は相手の発言を読者(第三者)に事情が分かるようにするために「引用」し開示します。そうしないと話が通じないからです。また優れた詩(作品)に出会った時などは、それを「引用」(書き写すこと)で一字一句たどり追体験する意味もありますし、また他者(読者)に読んでほしくて呈示することもあります。要するに〈表現〉にとって「引用」は多義的です。ウィルヘルム・ライヒやフォレスト・カーターの引用を「助走的なノート」と決めつけることはできません。もちろん、商業雑誌に発表する場合は、著者はこういうやり方はしませんが、じぶんの主宰する雑誌の場合は、「引用」を多くして、対象(他者の著作)を読者と〈共有〉するということもあり得るのではないでしょうか。わたしは『吉本隆明資料集』に収録するために入力と校正の作業をやりましたので、ライヒの発言や『リトル・トリ―』の表現をたどる著者の〈行為〉をある程度は追認したと思っております。そこからの実感です。
 なにはともあれ、山本哲士たちが主観的な思い込みを並べ、出鱈目な要求を掲げて、事情を知らない外野の人々を煽り、多数派工作をしても通用するはずがないのです。

     4

 この世は大学出や知的人士だけで出来上がっているわけではありません。そんなもの、下手をすれば差別と抑圧の温床でしかないのです。「文化」「科学」「高等」「研究院」、なんとご立派な看板でしょう。夜間高校中退のわたしのようなものは近づくことさえ憚られるような気がします。
 このアッピールの発起人(町屋英二・竹山道夫)がどれくらい吉本隆明の著作を読み、理解しているかは知りませんが、こと「心的現象論」だけに限定しても、山本哲士らの企画によるものしか挙げておりません。これが管見的言説なのか、それとも詐欺的猿芝居なのかは断定できないにしても。ここで、彼らのいう「心的現象論 本論」の書誌事項を掲げましょう。

▼初出 「心的現象論」 『試行』第二九号(1970年1月発行)〜『試行』第七四号(1997年12月発行)[*これが原典であり、これにリアル・タイムで立ち会った『試行』購読者が最初の読者である]
▼「色の重層」 『is』増刊号特集「色」所収(1982年6月発行)[*これは『試行』第四九号の「了解の水準(1)(2)」を加筆・訂正し、再発表したもの]
▼「原了解論」(『母型論』(学習研究社・1995年11月刊収録)[*これは『試行』七三号の「民族語の原了解(1)(2)(3)を推敲したもの]
▼連載資料「心的現象論 眼の知覚論・身体論・関係論」(『吉本隆明が語る戦後55年』F(三交社・2002年2月発行)〜K(2003年11月発行)
▼『心的現象論 眼の知覚論・身体論』(『吉本隆明資料集56』猫々堂・2006年7月刊)
▼『心的現象論 関係論』(『吉本隆明資料集59』猫々堂・2006年10月刊)
▼『心的現象論 了解論T』(『吉本隆明資料集65』猫々堂・2007年6月刊)
▼『心的現象論』普及版・机上愛蔵版(文化科学高等研究院出版局・2007年6月刊)
▼『心的現象論 了解論U』(『吉本隆明資料集68』猫々堂・2007年9月刊)
▼『心的現象論 了解論V』(『吉本隆明資料集72』猫々堂・2008年2月刊)
▼『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局・2008年7月刊)
▼『心的現象論 序説+本論』(文化科学高等研究院出版局・2008年8月刊)
▼知の新書『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局・2022年1月刊)

 以上が、客観的な書誌です。
 町屋英二・竹山道夫はEHESC版が「無視・排除」されているがごとく言い募っていますが、吉本隆明の許諾のもと『吉本隆明資料集』として発行された「心的現象論」の「各論」(全5冊)をどうして無視するのか、ぜひとも答えていただきたいものです。それは間宮幹彦の「解題」も同様です。マイナーなものは排除してもいいと考えているとしたら、きわめて傲慢な権力的態度です。

      5

 町屋英二・竹山道夫・山本哲士らの陰謀的な画策に加担した人たちに告げておきます。よく知らないことに〈同調〉するなかれ。それは主体性の喪失であり、自滅への道です。
 町屋英二・竹山道夫・山本哲士はじぶんたちの錯誤行為をただちに自己批判し、「謝罪文」を公表のうえ、速やかに編者・版元・著作権継承者に謝罪すべきです。もし、このデマゴギーを撤回しないとなれば、「名誉毀損」および「威力業務妨害」で告訴ということもあり得るでしょう。
 わたしは確信をもって断言できます。吉本隆明のモチーフをほんとうに理解していれば、こんな愚劇はあり得ない!と。
 この一連の策謀によって、山本哲士は対談集『教育 学校 思想』(日本エディタースクール刊)や『週刊読書人』連載の「戦後五〇年を語る」という画期的なインタビュー、「良寛」や「アフリカ的段階について」の翻訳の推進などの営為のいっさいを台無しにしたのです。それは思想者としての〈死〉を意味します。
 その腐った思想から漂う死臭を清めるため、わたしは〈線香〉を焚くように、この「返信」を認めた次第であります。

 今年もいろいろあるかもしれません。
 まだまだ上がることはできないような気がしました。
 本年も宜しくお願い致します。
                            (2023年1月12日)

   追補

 「ある返信 ―山本哲士たちの愚劇」は、吉田惠吉さん提供の「『吉本隆明全集』のリコール・正しい再刊行と編者の新構成を要求します」のプリント・アウトを読んで書きました。
 その後、「山本哲士ブログ」、晶文社「告知文」、間宮幹彦「『吉本隆明全集』第30巻(晶文社刊)に対する山本哲士の誹謗中傷を反駁する」を読みました。
 それらによってじぶんの発言を変更するところはありません。ただ「心的現象論」の書誌において遺漏がありました。それを追補します。

▼「了解論」(『季刊iichiko』第94号・2007年4月発行)[*これは『試行』四六号から五三号掲載の「了解論」8回分の再録]
                           (2023年1月25日)


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「ある返信 ―山本哲士たちの愚劇 松岡祥男」 ファイル作成:2023.01.14 最終更新日:2023.01.26