文学という泉 第3部      松岡 祥男

    目  次
     師走の風に
     未知よ、ひらけゆけ
     二人の先達を思う
     私の漱石体験など
     心に浮ぶうたかた
     青柳裕介さんの横顔
     桜の季節に寄せて
     年度の替わり目に
     新貧困社会について
     秋に寄せて
     冬の空に
     若葉の頃
     吉本隆明さんと高知
     主権在民ということ
     安倍内閣の暴挙
     言葉の力を信じて
     「膏取り」一揆について
     わが家の下に学校があった
     第二の産声
     あとがき

     師走の風に

 師走の風が吹きぬけてゆく。迎えを待つ人たちのそぶりもなんとなく落ち着きをなくし、そわそわしているようにうつる。意図されたわけではないのに、ひとりでに待ち合わせ場所が生まれる。これも街の生理のひとつなのだ。待つ人があの待ち時間独特の、一分が十分近くにも思われてくる焦燥をやわらげるように少し吹きさらしの通りから奥まり、視線の拡散するゆとりのある地点が選ばれる。迎えのバスや車にとっても好都合の流れの大通りのわきのポケットというところ。そこで毎朝拾われてゆく。
 車窓を過ぎる街路樹もすっかり落葉してしまった。あわただしく混み合う道路状況をよそに、おもいはとりとめもなくただよってゆく。山の雑木林はしろくその幹や枝をさらし、杉や檜の植林も赤茶がかり、冷え込みのなか、コウゾ蒸しがはじまっているだろう。いくらぼくが早く眼をさましても、もうおかやんは近所のコウゾ剥ぎの手伝いに出ていた。白い息を吐き吐き寒さにふるえながら、用を足して、またふとんへもぐりこむ。いまごろ、こしきがまからコウゾが蒸しあがり、もうもうと立ちのぼる蒸気のなか、水がうたれ、輪がほどかれ、おかやんたちはそのアクで爪といわず指といわずまっ黒に染めながら皮を剥いているんだ。そんなことを思いえがき、ふたたびねむりにつく。車はやっと市内をぬけ、現場をめざしている。そうだ、コウゾは大豊の方ではカジといった。皮を剥いだあとのカジガラは木質がかるく燃えやすくて、たきつけにもってこいだった。ボオボオ燃えるたき口で火にあたりがてら、火の番をするのが子供の仕事だ。あったまると火の勢いを確かめてからカジガラをもってチャンバラをやった。そんな場面が心のバック・ミラーに映る。遠くをみると、山の方はしぐれている。

 別にグレてる訳じゃないんだ ただこのままじゃいけないってことに
 気付いただけさ
 そしてナイフを持って立ってた

 僕やっぱりゆうきが足りない「I LOVE YOU」が言えない
 言葉はいつでもクソッタレだけど 僕だってちゃんと考えてるんだ
 どうにもならない事なんて どうにでもなっていい事
 先生たちは僕を 不安にするけど
 それほど大切な言葉はなかった

 誰の事も恨んじゃないよ ただ大人たちにほめられるような
 バカにはなりたくない
 そしてナイフを持って立ってた
                           (甲本ヒロト「少年の詩」)

 風は渡っていても、どこにも風穴はない。働いていても無声の歌は流れない。高度資本主義の利害の網状組織化、元請けの下に下請けがいて、下請けの下に孫請けがいて、孫請けの下にというタテの序列にはじまるシステムなのだ。それが冬空よりもどんよりたれこめている。いまの世の中、動けば金なのだ。そして、なんでも経費でおちる。結構なことだ。
 社会的にも経済的にもめぐまれないものは身を縮めじっとしているほかはない。疎隔と差異の冪乗でありながら奇妙にも均質化された精神の風景がひろがっている。缶コーヒーを買ってきて、煙草に火を点ける。ちょっと一服さ。タダ券が手にはいったのでめずらしくザ・ブルーハーツのコンサートに行った。めかしこんだ男の子や着飾った女の子たちが最大の見物だった。オジンでやんのとやしべられるだろうが。じぶんに爪先立つことのできる彼らは、きっとからだで感じることができるんだ、風のにおいを。ザ・ブルーハーツのステージは単調で、観客のニーズに合わせるようにステップを踏んでいるだけのようにみえた。過渡期なのだろう。ぼくはちょっぴり失望して会場を出たのだった。やることをやってればいいってもんじゃないよ。仕事と違って生きるってやつは。ここがはねたら一杯やろう。
 師走の風が足元を吹きぬけてゆく。どこの酒場にも呑んべえがいるだけなのだ。そこでは文化人なんて嫌なおじさんでしかない。知りたくもない。さようなら、一九八八年。
                     (『高知新聞』1988年12月26日)

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     未知よ、ひらけゆけ

 「お正月といえば 炉燵を囲んで お雑煮を食べながら 歌留多をしてたものです 今年は一人ぼっちで年を迎えたんです 除夜の鐘が寂しすぎ 耳を押えてました 家さえ飛び出なければ いまごろ皆揃って おめでとうが言えたのに どこで間違えたのか だけど全てを賭けた 今はただやってみよう 春が訪れるまで 今は遠くないはず 春よ来い 春よ来い 春よ来い」(作詞 松本隆「春よ来い」)と「はっぴいえんど」が唄ったのは一九七〇年である。「はっぴいえんど」というロックバンドは、松本隆、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂の四人のメンバーからなる、日本語のロックの草分け的存在だった。
 「春よ来い」は、永島慎二の連作『漫画家残酷物語』の「春」という作品をベースに作られたものだ。永島慎二の漫画が、青春の鬱屈を描いて痛切であるのに対して、「はっぴいえんど」の歌は、紋切り的に風俗を写したものだ。それにもかかわらず、「家さえ飛び出なければ」というフレーズによって、当時の情況と密接にクロスしていたといえる。

 その頃わたしも、家を飛び出したわけではないけれど、高知市内のアパートを引き払い、退路を断つようなかたちで、渭南の海辺で働いていた。賄いつきの住み込みのような待遇だったので、ものぐさな性格の自分としては助かった。やがて、年の瀬になり、正月休みを貰って、高知市へ帰ってきた。けれど、自分の部屋はなく、大杉の実家に帰る気にもならない。泊めてもらおうと当てにしていた友人は、あいにく不在だった。行く処がない。さんざん迷惑をかけていたので親戚を頼るわけにはいかなかった。そうかといって、どこかに宿をとるようなまねもできなかった。
 途方にくれたわたしは、ある大学の部室にもぐりこみ、そこで年を越した。もちろん。寝具があるわけではない。部屋にあった体操着をかきあつめ、丸く身を縮めて寒さを凌いだ。「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ/冬は背中からぼくをこごえさせるから/冬の真むかうへでてゆくために/ぼくはちひさな微温をたちきる」(吉本隆明「ちひさな群への挨拶」)そんな思いを抱いて。

 目をさますと、障子がすこし明るくなっていました。ぼくはそっと布団から抜け出し、縁側に出ました。寒さは体を締めつけます。杉の垣根のむこうの遠い山際が白んでいます。もうすぐ、初日が顔を出すでしょう。ぼくは白い息を吐きながら、ズック靴をつっかけ庭に降りました。なにがうれしいといっても、正月には都会(まち)に出ている兄ちゃんたちが帰ってきて、家族がみんな揃うことです。朝靄の中、なんとなく村全体も賑わってみえます。ぼくは大きく朝の空気を吸い込んで、坪を日の出の方向に歩いてゆきました。朝日を迎えにゆくように。
 そうだ、下(しも)の家のサダと、山に入り、ハゼの木を伐り、オナガやユズリ葉を採って、田に祀るゴウヅエを拵えた。日が暮れてからそれを持って、夜道をたどって、家々を廻った。戸口で手渡すと、どこの家も小遣いをくれた。それがぼくらのお年玉だったんだ。  そんな和やかな夢が見られたらいいのに、寒気は容赦なく眠りを破る。子供から子供へ伝わる習俗、少年期の甘美な夢を結んでいるわけにはいかない。わたしは震えながら夜明けを待った。「冬きたりなば春遠からじ」そんな季節のめぐりなぞ、何の頼みにもしない時代の奔流の中に、その時いたのだ。
 「はっぴいえんど」の「春よ来い」も、そんな時代背景のエコーのひとつだったに違いない。

 そしていま、二〇世紀も残すところ、四年のところに立っている。二〇世紀は、その歴史が物語るように戦争の世紀だった。戦争はいうまでもなく国家間の利害の対立に基づくものである。したがって、戦争を揚棄する道は、国家という共同幻想を越えることだ。しかし、産業経済の発展とは裏腹に、戦前も戦中も戦後も、日本人の精神構造はほとんど変わっていない。自由民権運動を掘り起こそうと、戦中非転向を持ち出そうと、無効である。それは蹉跌の証でしかないのだ。
 なぜなら、象徴天皇制が存立するように、いまだに日本のアジア的な劣性は払底されておらず、橋本内閣はアメリカの要請を無抵抗に受け入れ日米安保条約の対象範囲をほぼ全域に拡大し、集団自衛権にまで拡張してしまった。これは数少ない取り柄であった日本の戦後過程を無意味化するものだ。
 さらに、宗教的な集団や政治的な組織はいたるところで、人心を漁ることをやめない。差異をなし得ない政党は団子状態で末期的な症状を呈し、利権に結びついた官僚と転倒した市民主義者が、権力そのもののようにのさばっている。そして、それに追随するマスコミや識者。この様相を世紀末というのだ。無党派層が増えるのは当然である。そこに人々の自立と大衆的な背反を望むのは、ひとりわたしだけではないはずだ。
 誰しも年頭には、健やかでつつがない一年を願う。わたしも、その思いにおいて人後に落ちない。しかし、その一方で、若返るように、根底的な地殻変動を期待しないわけにはいかないのだ。
 未知よ、ひらけゆけ。
                       (『高知新聞』1997年1月9日)

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     二人の先達を思う

 この一年の間に、二人の先達を失いました。鎌倉諄誠さんと松岡俊吉さんです。二人とも高知の地にあって、狭い地域の殻に閉じこもることなく、海の広さと空の高さを知る文学者でした。ですから、普遍的に思索し、同時代的に生きることができたのだと思います。
 鎌倉諄誠さんは、仁淀川の上流、吾川村名野川に昭和十三年に生まれています。中学卒業と同時に県外の紡績工場に集団就職しましたが、会社が労働争議で閉鎖され、仕方なく帰郷しています。家の農業を手伝いながら、隔日の仁淀高校定時制へ通学し、高知大学に入学しました。時代は六〇年安保や勤評闘争で大きく揺れていました。その荒波をまともに被り、その中からさまざまな活動を始めたのです。その中芯にあったのは、詩だったと思います。
 鎌倉さんの著書は、東京の出版社から上梓された『センスとしての現在の根拠』や『水の武装』をはじめ三冊の詩集があります。その作品は、時代を真摯に生きた、痛切な言葉に貫かれています。
 鎌倉さんは、同時に「反戦運動」の活動家でした。鎌倉さんが生きておられたら、今度のイラクへの自衛隊派遣に対して、こう言うでしょう。アメリカ・ブッシュ政権は国連の同意もなしに、未だに見つからない「大量破壊兵器」を口実に、一方的に戦争を仕掛けたのだと。そして、石油資源強奪と、「民主国家建設」を名目に歴史の段階の差異を無視し、イスラムの人々とその心を蹂躙しているのであり、それに追従する日本政府は、侵略という世界史的犯罪に加担しているのだと。いまこそ、理想の社会構想を胸に描きながら、世論操作に抗して自由に振る舞うことが大切だと。
 ありし日の鎌倉さんの風姿を思い浮かべると、そんな言葉が深く響いてくるのです。
 松岡俊吉さんは大正八年ソウル市に生まれた典型的な戦中世代です。敗戦後、北海道でいくつかの職務を経て、帰高しています。それから執筆を始め、『高知文芸』『高知作家』に「島尾敏雄の原質」や「吉本隆明論」を発表しました。そのいずれも、他の認めるところとなり、中央から出版されました。その著作は、作家論として朽ちることのない重要な位置を占めていると思います。
 松岡さんは、自爆艇震洋の特攻隊長であった島尾敏雄氏と海軍の同期生であり、ご自身も人間魚雷回天の兵士でした。死が日常的であった戦争の日々をくぐっています。ですから、百数十万人の犠牲者によってあがなわれた日本の戦争放棄の憲法を、一度も、主権者である国民の総意を直接問うことなく、政策的に侵犯し、なし崩しにしている小泉内閣の政治暴力を肯うはずがありません。
 また外地に生まれたことから、旧日本軍が朝鮮半島の人々を強制連行し、苛酷な労働に従事させた歴史的事実を実際に知っており、北朝鮮による拉致は、国家による反人道的行為であり、国家間の利害を超えて、それぞれの家族の意思に沿って、解決すべきだと思われるのではないでしょうか。
 松岡さんとは三回しかお会いしたことがありませんでしたが、優れた文学の表現は、世代や立場を超えて、読者の心を捉えて止まないものと思います。
 この卓越した二人の先達の著書は、いまでは入手しがたくなっています。でも、高知市には「県立」と「市民」の充実した二つの図書館があります。また県下の図書館はネットワーク化されて、誰でも手にすることができるものと思います。
                      (『高知新聞』2004年3月10日)

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     私の漱石体験など

 日本の明治以降で、最大の作家は夏目漱石だと思います。西欧志向が強く、外国文学を尊重する人は、あるいは森?外の方が重要であると言うかもしれませんが、じぶんの文学体験に照らして、もし、夏目漱石の小説に出会ってなかったら、ほんとうの意味で、本を読んだり、ものを書いたりすることはなかったのかもしれません。
 わたしは子供の頃からマンガが好きだったのですが、いわゆる「本好き」では全くありませんでした。それが、時代のさまざまな契機によって、本を手にするようになりました。その中に文学書も含まれていました。いまでは、最初に漱石のどの作品を読んだのか、はっきりと思い出すことができませんが、二十歳前だったと思います。『我輩は猫である』から『明暗』にいたる主要な作品を夢中になって読みました。
 『我輩は猫である』の始めの方の社会諷刺や人物描写は、滑稽でギャグマンガにも通じるものがありました。また、『坊っちゃん』は、学校や教師を痛烈に批判していて、坊っちゃんや山嵐の痛快な活躍ぶりを熱血マンガのように昂奮して読みました。『三四郎』は、こちらも青春の真っ只中でしたので、女性への淡い思いや友人との交流など、痛切な共感を覚えるものでした。そして『それから』『門』『行人』『こころ』『道草』と読み進んでゆくうちに、しだいに深みにはまっていったのです。
 そこには、大いなる憂鬱を抱え込んだ作家としての漱石がおり、その渦巻く問題意識と資質を、小説の中に投入し、人生の真実に迫るリアルな世界を築きあげていました。これこそ本物だと思わせる作品の力と、本質的な作家は、時代を超える貴重な存在であることを、わたしのなかに深く刻み込んだのです。
 この漱石体験がなかったら、文学、言い換えれば本の世界に、持続的な関心を寄せていたかは怪しいかぎりだと、じぶんでも思っています。
 夏目漱石に関する評論や研究などは、溢れるほどたくさんあります。言うまでもなく、それだけの魅力とスケールを漱石が持っているからです。その中でも、もっとも優れたものは江藤淳の『夏目漱石』と『漱石とその時代』ではないかと、わたしは思っています。その江藤淳の著作に劣らない画期的な漱石論が、この夏、登場しました。
 吉本隆明の『漱石の巨きな旅』です。これは、最初にフランスで発表され、今度初めて本になったものです。この作品は、漱石の二つの旅、即ち英国留学と満韓の旅の意味を追跡し、作家漱石の核心を解明したものです。これに同じ著者の『夏目漱石を読む』を合わせれば、まさに江藤淳の漱石論と双璧をなすことは間違いありません。
 それにしても、作家やその作品に対する世間の遇し方はいろいろで、おもしろいものがあります。たとえば『坊っちゃん』は、愛媛県の松山を舞台にしていますが、作者は決してその土地を誉めてはいませんし、主人公もそこが居心地が良いとはちっとも思っていません。むしろ嫌っているといった方が正確です。それなのに、『坊っちゃん』は地域振興に活用されています。また作中の「マドンナ」は、憧れの女性の代名詞のようになっていますが、その内実は、最後に山嵐が痛罵するように「かの不貞無節なる御転婆」でしかありません。こんな世間の扱いを漱石が知ったとしたら、微苦笑するでしょうか。それとも、癇癪を破裂させるでしょうか。
                      (『高知新聞』2004年8月11日)

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     心に浮ぶうたかた

 ひとつの町に、三十年近く暮らしていると、町が少しずつ変貌してゆくのがわかります。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。」という鴨長明の『方丈記』の有名な書き出しの指摘する通りです。
 通称「闇市」と言われた商店街の、北の入口にあったケーキ屋さんは店をたたみ、「闇市」そのものも取り壊されて、消滅してしまいました。もちろん、私は終戦直後の賑わいは知りませんが、それでも越してきた頃は、それなりに活気がありました。ほろ酔いで、暗いトンネルのようなアーケードをくぐっていると、時間を逆戻りするような感覚がやってきて、好きでした。
 また「闇市」以西の、戦災を免れた中須賀や旭の町並みは、戦前の風情をとどめているように思えて、郷愁に誘われるみたいな、なんとなく安堵するような気分になりました。車が入って来ない狭い路地は、散歩に最適でしたから、よく妻と連れ立って、その辺りの猫たちをからかいながら歩いたものです。ひとつの町が、歴史やその時代をひとりでに物語っているのです。
 表通りにあった老舗の薬屋さんも、閉店してしまいました。チェーン店のドラッグ・ストアに押されたからです。同じ商品が安い値段で購入できるとなれば、誰だって安い店の方へ行きます。その店にしても、それはもう仕入れ値から違うのですから、どうすることもできなかったのでしょう。でも、それによってお金に換算できないものも失われます。その薬屋さんは、薬に関する詳しい知識はもとより、外科の病院はどこそこが良いとか、鼻の治療はあそこが権威だとか、医療に関係する情報などもたくさん持っていて、親切に教えてくれたりもしていました。寂しいというよりも残念です。
 そんな事を会津の友人に、電話口で話したら、彼は「松岡さん、もっと凄いことになっていますよ。チェーン店の進出で、地元の商店は店を閉めて、商店街のあちらこちらでシャーターが降り、さびれる一方へ持ってきて、そのチェーン店自体も収益が思ったほど上がらないものだから、撤退してしまい、何にも無くなってゆくんです」と語ったのです。私はしばらく言葉が出ませんでした。
 何事にも両面性があります。「闇市」の跡は、両側に舗道のある明るい通りになり、不燃物を出す場所も、そこが使われることになりました。それまでは、交通量の多い橋の上でしたから、それで随分楽になりました。だから、町が変わってゆくことは、一概に悪いとは言えません。
 よしもとばななさんの『海のふた』(ロッキング・オン)は、そんなひとつの土地の移り行きを、愛着をこめて描いた優れた小説です。舞台は西伊豆の土肥ですが、その底に流れるものは同じように思えます。私も一度訪れたことがあります。自動販売機の缶コーヒーが値上げになった頃で、どこでも一二〇円になっているのに、土肥は一一〇円のままでした。これにはちょっと驚きました。見捨てられているのか、ただチェンジが遅れているだけなのかは、わかりませんが。
                       (『高知新聞』2005年2月9日)

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     青柳裕介さんの横顔

 今は亡き青柳裕介さんと一度だけ会ったことがあります。それは昭和四四年のことだったと思います。
 手塚治虫が、白土三平の「カムイ伝」の載っていた『ガロ』に対抗する形で、『COM』という漫画雑誌を創刊し、その月刊誌に、新人発掘と読者の交流のための「ぐら・こん」(グランド・コンパニオンの略)というコーナーを設けていました。
 青柳さんは、そこに投稿していました。「陽炎」という作品が佳作第一席になりました。これは応募の原稿サイズを間違えたために、入選作から外れたものでした。青柳さんは次の作品「いきぬき」で、みごとに入選をはたしています。
 「陽炎」や「いきぬき」は、青春漫画で、「漫画家残酷物語」や「フーテン」の永島慎二の影響のもとに描かれたものといえるでしょう。その鬱屈した青春像は、とてもリアルで、強い共感を呼ぶものでした。そして、宮谷一彦や岡田史子などとともに、注目の新人となったのです。もちろん、漫画好きで、青春の入口にいた私も、いっぺんにファンになりました。
 その頃は、大学生が漫画を読んでいると騒がれるくらいでしたから、漫画は「市民権」を得ていませんでした。ザ・ビートルズの音楽でさえ、大人からは忌避されていたのです。そんな中、『ガロ』のつげ義春を筆頭に漫画作品は、「子供の娯楽」から自己表現へ転位する側面を獲得していったといえます。
 しばらくして、「ぐら・こん」の集まりが高知市の文教会館で開かれました。この開催は『COM』の編集長が高知県の出身だったことも関係しているかもしれません。このとき、社会人一年生だった私も行きました。そこに、青柳さんも参加していたのです。青柳さんは、まだ板前の仕事をしており、仕事の合間を見つけて描いていると語っていました。私は初めて見る原画の美しさに驚くとともに、作品のストーリーやネームに編集の手が入っていることを知りました。そして、新堀や下知界隈の身近な情景が、克明に描き込まれているのに親しみを覚えました。
 私は青柳さんの代表作は「鬼やん」だと思っています。彼をビッグな漫画家にしたとされる「土佐の一本釣り」には、あまり心動かされませんでしたし、その頃を境に、彼の作品を読まなくなりました。それは私自身が時代の波瀾をくぐり、内在的な思考に沈湎していったからかもしれません。そこから見える彼は、縁遠く、浮いたものに映りました。
 別の言い方もできます。私の関心は拡大して、文芸から思想までにまたがるようになり、漫画の読み方も変わってゆきました。地元出身の漫画家でいえば、楠みちはるの「シャコタン・ブギ」や西原理恵子の「ゆんぼくん」などの、感性の現在性に注目するようになっていったのです。
 作家は作品の中にしかいません。作家を尊重することは、その作品につきあうことです。また、作家をほんとうに顕彰するのなら、その作品集をしっかりしたものとして残すことだと、私は思います。それは漫画でも同じです。
 若き日の青柳さんは、漫画に情熱をそそぎ、ひたむきに創作に打ち込む表現者の片鱗を垣間見せてくれました。その横顔はいまだに、私の中から消えていません。
                       (『高知新聞』2005年8月3日)

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     桜の季節に寄せて

 ゆきとみえて風にさくらのみだるれば はなのかさきる春のよの月(西行)

 花といえば桜、桜の歌といえば西行法師、そんなことになるのかもしれません。日本列島は南北に連なっており、桜の開花も、満開の時期も、少しずつずれています。また、同じ地方でも、平野部と山間地では異なります。
 桜への思いは、人それぞれでしょう。
 私にとっては、花見の宴の、浮かれた酔狂な振舞いの恥ずかしい思い出も、葉桜の下の、春の日差しに包まれたうたたねの記憶もありますが、一等は、母に連れられた小学校の入学の日です。記憶は薄れ、そのときの自分の姿も、入学式の様子も、おぼろになっていますが、校庭の満開の桜だけは、はっきり覚えています。  学校にあがることは、大きな出来事でした。山の集落に生まれ、点在する農家や田畑、家の近辺から離れることはありませんでした。もちろん、今のように早いうちから、保育園や幼稚園へ通うこともありませんでしたから、小学校は未知の世界への第一歩でした。希望と不安に、胸をいっぱいにしていたことが、思い起こされます。
 そして「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる」という中原中也の詩が、春の風のように、心の中を吹き抜けます。しかし、ほんとうは、そんな自分の感傷よりも、母に連れられて出かけたことが、ずっと大切なことだったと思います。一家の柱である父が亡くなったあと、母は四人の子供をかかえて、どこへも出かけることはありませんでした。きっと、私の入学式は、母にとってもハレの日だったのだと思います。
 もうひとつ挙げれば、年の瀬に、母がパーマをかけに美容院へ行くとき、付いてゆきました。母を待っている間、店に置いてあった漫画週刊誌を穴があくほど読みました。殆ど連載物の途中でストーリーは分らないのですが、それでも夢中になっていました。赤塚不二夫の『おそ松くん』が載っていて、その回は六つ子がそれぞれ個室を欲しがり、父親に部屋を区切ってもらい、個室が出来る話でした。ギャグ漫画なのですが、ちゃんと子供の夢を捉えたものでした。じぶんの部屋というものがあったらいいなぁと、私も憧れました。
 時代はくだり、季節の移り行き、暮らしの節目も、その輪郭がぼやけています。昔ご馳走と思っていた食べ物は、いまでは、いつでも手に入れることができます。それだけ豊かになったのなら、いいことです。
 でも、今の世の中を見回しますと、そうとばかりは言えません。私の頃には、家が貧しくて学校に来られない子供がいました。また、その費用が払えない親もありました。もう、そんな時代は過ぎてしまったんだと、私も思っていました。ところが、政府のひどい経済政策や企業の暴力的なリストラなどの影響で、給食費も払えない家庭が増えているとのことです。東京のある区では四〇%にものぼっているそうです。貧富の差がどんどん拡大しているのです。
                    季節はめぐります。経済も基本は循環だと思いますが、社会の血のめぐりは良くありません。それでも、辺りの自然の明るい気配に気持ちはゆるみます。
                      (『高知新聞』2006年4月12日)

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     年度の替わり目に

 今年の冬は、かつて経験したことのないような暖冬でした。三月になって寒くなりましたが、それでも春の訪れはとても早くて、庭の沈丁花や雪柳の白い花も、盛りをすぎました。
 春は、新しい匂いを運んできます。入学や転校・転勤といった異動の時期でもあります。山間の農家育ちの私は、生まれた土地から離れることは、社会に出るまでありませんでした。そのせいかもしれませんが、転勤や異動などの身辺の変動には億劫さが先に立ちます。他人のことでも、大変だろうなと思ってしまいます。しかし、これは人によって全く異なるようです。引っ越しが大好きという人もいるからです。
 私が子供だった頃、新学期になると、クラスに転校生がやってきました。それは私たち地元の子供とは、異なった雰囲気をもっていました。そして、たいていは小綺麗な恰好をしていて、勉強が出来るように思えました。昭和の半ばといった時代でしたから、私たちの多くは、鼻みずを垂らし、それを服で拭うものですから、袖口がテカテカ光っているような有様でした。そこから見ると、転校生は眩しく映ります。その眩しさは、一方では憧れとなり、一方では反感になったように思います。
 地元意識の現れかもしれませんが、転校生を謂われもなくいじめたことを、いい大人になってからも自慢する者がいるくらいです。もちろん、私も土着の悪ガキでしたから、その列に入っていたのです。都市部と違って、古くからの村落は、人や物の流入や移動は稀で、地域は強く結ばれた面がありました。それは悪くすると、風通しの良くない排他的な心の働きをします。また逆に、一度受け入れると、懐が深く温かい情を通わせる所もあったように思います。
 子供心には、なぜかわからないのですが、だんだん慣れて、親しみを覚え、仲良くなった頃、また何処かへ転校して去ってゆくのが、転校生の常の姿に思えました。なにか、この世の不可解さの一端を垣間見るような気がしたものです。
 宮沢賢治も「風の又三郎」という童話で、その独特な世界を「どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ すっぱいくゎりんもふきとばせ」という話のイントロでも分かるように、ダイナミックに描いています。
 私は転校生の心を推し量ったことはありませんでした。後年、やたらと、いろんな物をプレゼントする人がいて、怪訝に思ったことがありました。彼は子供の時、転校を繰り返していたと語りました。それで私は、そうなのか、そうやって見知らぬ同級生の輪の中へ入ろうとしてきたんだと、勝手に納得したことがあります。
 物事は、境遇や立場で大きく違ってみえます。
 地元の子供と転校生もそうですが、もっと大きな事でいえば、イラク戦争でも、アメリカの側からすれば無法の「テロ」であっても、イスラムの方からすれば必死の「抵抗」なのです。その断層の深さが、人間の歴史の現在を物語っています。
                      (『高知新聞』2007年3月28日)

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     新貧困社会について

 こんなに、ひどい世の中になるとは思っていませんでした。石油・食品を筆頭に、物価の高騰は止まるところを知りません。原料価格の上昇が基底にあるため、商品の値上げは仕方の無いことのようにみえます。それでドミノ倒しみたいに、次から次へと値上がりしています。それによって、貧富の格差は広がり、低所得者層は貧困にあえぐようになっています。まるで新貧困社会の到来のようです。
 ところで、その物価の高騰の原因に何があるのかを問うと、原油を例にすれば、決して産油国が産出量を減らし、価格をつりあげているわけではありません。株式の投機的な投資によって市場価値が浮遊化し、原油は二重価格化しているのです。これをコントロールするには、政府が調整策を実施するしかありません。
 ところが、ガソリンに課せられた暫定税が期限切れになり、一時無効になると、政府はすぐにも道路財源が涸渇して、道路整備が全く出来なくなるがごとく言い、また地方の行政機関も、それが財源不足につながるとして、税の復活を要望する有様でした。根本的な考えが間違っているとしか思えません。
 社会の主役は、今生きている人々です。この社会の基層を形成する人々が活気づくことが、世の中の全体の活性化につながることは自明です。社会が疲弊し、人々が困窮していても、国家や地方行政は安泰などという、逆立ちはあり得ないことです。この困難を乗り切るには、一時的にでも税率を下げ、救治策を打ち出すべきなのです。
 また、企業はリストラに始まり、社員の正規採用をどんどん減らし、派遣や臨時やパート労働などでまかなうことで、利潤の確保を図っています。これは社会保障費を支払わず、働く者に犠牲を強い、使い捨てていることを意味します。こんな基本的人権さえ侵しかねない企業エゴは、社会の基礎を破壊するに止まらず、人心を荒廃させます。衝動的な凶悪犯罪を多発させている大きな要因として、これら政府や企業の姿勢があるのではないでしょうか。その全体的な圧迫感と産業の循環速度が、多くの人からゆとりや潤いを奪い、その吐け口を他へ転嫁するほかないように追い込むからです。
 私は自分を半人前と思っています。それで、ちゃんと生活している人に接すると、相手の方が年長者だと思ってしまいます。自分よりも遥かに、しっかり生きているように見えるからです。
 そんな私でも、例えば関西のある知事の「幹部職員の自衛隊への体験入隊も考えている」などという発言を聞くと、さすがに「この若僧が」と思わざるをえません。行政の職員は、その仕事を真っ当に遂行することが公務です。それ以上の職務への責任はないはずです。まるで専制君主まがいの独裁的な発言であり、その幼稚さを物語っています。社会的立場として上に立つことと、人間的な存在価値とは別のことです。そんな人と人とのあり方の基本すら知らないようにみえます。
 暗い話になってしまいましたが、私は、人間だけが、自然やこの世界に立ち向かうことができるのだと思います。
                      (『高知新聞』2008年8月22日)

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     秋に寄せて

 秋は収穫の季節です。私の幼い頃には、お月見の日、山から青いすすきを採ってきて、縁側に祀り、団子やさつまいもや黍を供えました。そのあと、食べるのです。芋はまだ若くて、ほんとうは水ぽくてそんなにおいしくないのですが、甘いものがご馳走だと思っていましたから、とても楽しみにしていました。いまでは、そんな生活の習俗も、なつかしい思い出になってしまいました。
 毎年、山梨と長野の友人が葡萄を贈ってくれます。私の育った高知県の山間地では、葡萄も林檎も、馴染のないものでした。やっぱり気候や風土の関係でしょう。そして、地元では取れないものに、ひとは憧れるのかもしれません。秋田の友人は、憧れの果物は蜜柑だと言いました。北の方では蜜柑は穫れなかったからです。その反対で、高知県でいちばん好まれた果物は、林檎だったように思います。
 葡萄を初めて食べたのは、いつだったのか、覚えていません。野葡萄や野性の梨は自生していましたので、食べたことがあります。でも、梨は石のように固くて、これは敬遠するしかありませんでした。それで、いちばん馴染の深い果物は、柿ということになりそうです。私の姉の話では、子守りの姉たちが近所の渋柿の熟したのを、持ち主に無断で取って食べていたら、その家のおじいさんに見つかって、おじいさんは「おまえらが黙って取るのなら、木を伐る」と言ったそうです。姉たちは泣きながら謝ったそうです。かく言う私も冒険心も交えて、柿泥棒をやりました。それで事が露見して叱られました。でも、そんな体験から世の中の仕組みやルールを学んだような気がします。そんな経験がいい方向へ生かされるなら、そういう悪戯も、一概に悪いとは言えないのではないでしょうか。
 私は物事を知らない人間です。つい最近まで、芭蕉とバナナは同じだと思っていました。芭蕉は、村の水の湧く場所に植えてありました。実がなったことはありません。花が咲き、実が出来始める頃には、秋になってしまい、熟れるどころか、形をなさないのだと思っていたのです。芭蕉とバナナとは、同じバショウ科の多年草ですが、どうも種類が違うようです。それにしても、どうして芭蕉を植えたのでしょうか。芭蕉の葉を何かに使っていたのかもしれないとか、また水辺に芭蕉を植える習俗があり、芭蕉の大きな葉で井泉を守護する信仰があったのかも知れない、などと思いを巡らしています。こんな推測や空想も悪くありません。狭い日本列島でも地域の気候や風土で、作物や生活の様相は異なっています。これは考えると愉快なことですし、また好奇心を誘うように思います。
 柳田国男に『明治大正史 世相篇』という著書があります。日本の古い習俗と新たな時代の開化が軋んだり交響したりする、人々の暮らしの変遷と、叡智や迷蒙、変わらない心の姿が捉えられた名著です。いまからみれば、その時代はのどかな時間の流れる世界に見えますが、当時は凄まじい変貌だったに違いありません。たぶん、現在の高度に発達した社会の急激な変容に劣らないような。
 こんな思い出がじぶんにとって救いのひとつであるように、過去(歴史)を振り返ることも、明日の示唆へつながっていると思うのです。
                     (『高知新聞』2009年10月30日)

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     冬の空に

 新しい年を迎えても、のどかな正月の雰囲気というのは、もう薄れてしまっています。その生活習俗の基底をかたちづくってきた農耕社会が崩れてしまったからといえるでしょう。冬は農閑期でした。秋の収獲を終えて、年の瀬はその一年の締め括りということであり、正月は春の到来を待つことを意味していたと思われます。
 けれど、社会の構造は大きく変化しました。情報、流通、医療などの第三次産業が産業の中心となり、その高度化と経済循環の速度によって、私たちの生活時間は規定されていますから、ゆったりした「お正月気分」のようなものは払底してしまったのだと言えます。
 そんな社会状況の中にあっても、私たちはそれに完全に同調できるわけではありません。それぞれの暮らしの中に、固有の時間の流れがあります。また、人間の身体と精神を統御する生命リズムのようなものも具わっているからです。ですから、うまくバランスを取ることが大切だと思います。
 年齢を加えたこともあるのでしょうが、一日は忙しくなく過ぎても、一年を振り返ると、ほとんど手応えのようなものはなくて、ただ年を重ねただけという気がします。
 一休さんは「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいるそうですが、その仏教的な意味を問わないとすれば、私も、この六年の間に四人の肉親を失いました。
 母が亡くなったときは、自分が生きていることの支えを無くしたような気がしました。また働き者の姉が亡くなったときには、身内の扇の要を失ったような気がしました。
 二人の兄についても、痛切な思いがあります。長兄は、農業では日々のたつきが成り立たず、土木工事へ働きに出て、継いだ家を守りました。末っ子の私には及びもつかない、家長の自負があったように思います。
 もう一人の兄は、中学校を卒業して集団就職で関西に出ましたが、やがて高知に帰り、園芸の勉強をして、その仕事に就きました。四男ということもあったのでしょう。私のような甘えはなく、自分の道を切り開いたのでした。
 日頃から、もっと行き来していればというような後悔はいっぱいあります。こんな時代になりますと、誰もが自分のことで精一杯という感じになって、おのれの日常に押し込められてしまうからかもしれません。
 私には、ひそかな自恃みたいなものはあっても、自慢できるようなことは、何もありません。それでも、母や姉に伝えれば良かったと思うことはあります。
 そのひとつは、私が平成七年に本紙に連載した「文学という泉」が、「大学入試」の「国語」の試験問題に使われたことです。
 自分としては、そんなことはどうでもいいと思っていたのですが、母や姉は、きっと喜んでくれたでしょう。体が弱く、ひきこもりがちで、とても世間を渡ることは覚束ないと、心配ばかりかけた償いに少しはなったかも知れないからです。
 冬の晴れた空を見上げながら、そんなことを思いました。そして、こんな〈ふるさとの空〉は、誰の心にも広がっているはずだと思ったのでした。
                      (『高知新聞』2011年1月14日)

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     若葉の頃

 東日本大震災から一年がすぎました。ほんとうなら復興の春が始まるところでしょうが、福島第一原発の壊滅事故が収束しないかぎり、春の訪れは遠いような気がします。
 しかし、人間は有史以来、幾多の困難を乗り越えてきたのだと思います。
 そう思うと、少しは気持ちは軽くなります。また、日が長くなり、空気がゆるみ、辺りの風物も明るい感じになると、不思議なもので、気分もいくらか和らいできます。
 ひとの生涯においても、若葉の頃というのは、初々しく輝いたものといえるでしょう。
 先日、小林哲夫という人から『高校紛争1969―1970』(中公新書)が送られてきました。この本は、その時代の紛争の記録と証言です(その中の「紛争の源流をたどる」という章では、高知県の勤務評定をめぐる出来事も取り上げられていますが)。
 その年代の高校生といえば、もうみんな還暦を迎えています。そんな昔のことをいまさらという思いもありますが、青春の切実な体験というのは、その人の一生を決定してしまうかもしれません。少なくとも、私にとってはそうでした。
 この本の「あとがき」に、私の友人の名前が出ていますので、その紹介だと思いますが、来信がありました。下調べをしていて、追手前高校の生徒会役員処分撤回運動について、教えてほしいということでした。
 その手紙には、全国の高校における紛争を網羅した年表が同封されていました。高知県の事も出ていました。

▼一九六九年十月四日 高知女子大学で高校反戦会議結成大会を開催。追手前高校、学芸高校、土佐高校などの生徒が参加。
▼一九六九年十二月十日 追手前高校 一部生徒が授業をボイコット。講堂で集会。

 私は追手前高校の定時制(夜間)の学生でしたが、この二つには心が動きました。それが同世代ということでしょう。
 全日制の生徒会で活動していた私の友達三人が停学になったのは、その翌年度です。彼らは学校の処分を不当として、自主登校しました。そして、撤回を求めたのです。そのことに、この本も触れています。
 当時、大学紛争が全国的に広がっており、高校生もその影響を受けていました。そういう時代背景のもとに、私たちの思いや行動はあったことは確かです。
 しかし、単なる模倣ではなかったと思います。自分なりに考えたうえで、行動していたからです。どんな外部からの指示も、誰からの教唆も受けたものではありません。とても自然な自主性でした。それだけは、どんな立場からの偏見や悪意や誤解にさらされても、決して朽ちることのない青葉の誇りなのです。
 その時から四十年以上、私も生きてきました。世の中は物凄く変わりました。むろん、携帯電話もインターネットもありませんでした。そういう意味では、便利で自由は拡大されています。その反面、価値観は平板になり、社会は高度に管理されるようになっています。それが多様性の中の貧しさにつながっているような気がします。自分で考えること。それはどんな時代になっても、変わることのない原則だと思います。
 若き日の姿は、誰にとっても大切なように。
                       (『高知新聞』2012年4月9日)

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     吉本隆明さんと高知

 吉本隆明さんが亡くなって一年になります。吉本さんは「戦後最大の思想家」と言われています。また、立場も考え方も全く異なる石原慎太郎前東京都知事でさえ、こんな人は再び現われないだろうと言いました。
 吉本さんは、一九二四年(大正一三年)生まれで典型的な戦中派です。日本の敗戦を徴用動員先の富山県魚津市で迎えています。敗戦の衝撃と、戦中と戦後との深い断層に陥没した世代と言えるでしょう。そのことを考え抜くことが、吉本さんの思想形成そのものであったのです。
 代表作は、詩でいえば『固有時との対話』『転位のための十篇』や『記号の森の伝説歌』、思想評論でいえば『共同幻想論』や『最後の親鸞』や『母型論』などでしょうが、私にはその弛みない思索と研鑚の全過程が、不滅の姿に映ります。
 高知との関わりについて言いますと、一九八〇年八月に高知市の夏季大学の講師として来高しています。
 この時、初めてお会いしました。吉本さんは私たちの要望に応えて、講演の翌日を空けてくださり、三十人ほどの集まりに出席してくれました。そして、そのあと私の家に足を運んでくれたのです。種崎で泳いだ潮の感触と、あなたがたの顔が、高知の印象として刻まれています、と手紙に書かれていました。
 吉本さんは義理がたい人でした。本山町出身の大原富枝さんの『婉という女』を高く評価していて、中上健次などと主催した二十四時間連続の講演と討論のイベントに、講演者として大原さんを招いています。大原さんは涙ながらにご自分の半生について語りました。私もその場にいて、俯いて聞いたのです。
 大原さんの遺言の求めに応じて、本山町寺家にある大原さんの墓に、吉本さんは真情のこもった碑文を寄せています。
 思想家としては、決して基軸のぶれない徹底した姿勢を貫いた人でした。
 例えば「芸術的抵抗と挫折」という論文の中で、槙村浩の詩の誤謬を痛烈に批判しています。『マス・イメージ論』では、安岡章太郎の『流離譚』を取り上げ、その作品の構造的な欠陥を鋭く指摘。さらに、雑誌仲間だった清岡卓行や詩人の倉橋顕吉などにも言及しています。
 そんな吉本さんですが、家庭をとても大切にした人でした。病弱な夫人に代わって、毎日のように買い出しにゆき、炊事当番をやっていたことはよく知られています。また、自分は二人の子どもを育てたこと以上のことはしてないとも語っています。
 次女の吉本ばななさんが「キッチン」で作家デビューした時、たまたま上京していた私は、俳人の齋藤愼爾さんと一緒に訪ねました。夜分だったのですが、吉本さんはばななさんを呼ばれました。そして、話しているうちに、私が「ばなな」というペンネームは変わっていますねと言うと、吉本さんは紙に「波奈奈」と書いて、こうしたらどうかと、ばななさんに示しました。私は即座に横から良くないと言いました。すると慌てて、それを上半身で覆い隠したのです。その恥かしそうな身振りは、少年のようでした。ばななさんは、友人に占ってもらった筆名なので、これでいきますと、きっぱり言ったのでした。
 吉本さんの魅力は尽きることはありません。その本質的な思想と同じように。
                      (『高知新聞』2013年3月18日)

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     主権在民ということ

 先日、荷物を取りにきてくれた宅配の人に、「8月はものすごく雨が降って大変だったでしょう」と言うと、「そうですね、荷物が濡れると困るので苦労しました。日本はいったいどうなるでしょう。亜熱帯みたいになって」と言いました。
 50ミリとか100ミリとかの豪雨が、全国各地で降っています。地球温暖化の影響なのでしょう。この気候の変化は、元には戻らないような気がします。
 第二次安倍政権になってから、災害や事故が増えたように感じます。でも、そんなことに責任があるとは思っていないのかもしれません。
 近代以前の古い時代のアジアやアフリカでは、天災や疫病がつづくと、それは為政者のせいとみなされていました。
 供物を捧げたり、お祓いをしたり、それでも災厄が治まらないときは、その禍の責を取る形で、年号を変えたり、首長そのものの罷免が行われています。
 それは未開の思考法と言えるでしょうが、人々の苦難と直結していたという意味では、血が通っていたともいえるでしょう。
 自然の災害に対しては、場当り的な対処ではなく、抜本的な方策が求められることは言うまでもありません。
 そして、内政と外交にわたる、もっとも重要なことは、国の方向性です。
 「集団的自衛権の行使」を自民党と公明党の政府与党が閣議決定しました。
 私は、高村光太郎の「根付の国」という詩を痛切に思い起こしました。日本も日本人もどうしようもなく、卑屈です。もちろん、私もその一人です。
 日本国憲法第二章第九条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあります。
 これは明確な規定であって、どのように拡大解釈しても「集団的自衛権の行使」などというものに行きつくはずがありません。
 国家主義者や歴代の政権担当者がいうように、この憲法は占領軍に押しつけられたものであり、また現在の国際情勢に適合しないものだというのなら、「主権在民」の憲法に則って、国民投票によって直接、その総意を問うべきです。
 それを卑劣にも回避した「解釈改憲」などという手法を弄するところに、この国の政治的倒錯は極まったといえるでしょう。だいたい国民を欺いて、「国を守る」もなにもあった話ではないのです。
 国家は共同の幻想です。その国家の本質と、個々の実存は逆立ちしています。それが相互規定的な国家間の険しい利害の壁を解消していく根拠といえます。
 ジョン・レノンの「イマジン」に歌われているように、戦争のない平和な世界は、人類の願いです。軍隊や兵器の要らない世界の実現は、人々の夢なのです。それは、いろんな政党の思惑をはるかに超えたものだと、私は思っています。
 その願いや夢に、もっとも近いのが日本国憲法の「戦争放棄」なのです。
                      (『高知新聞』2014年9月15日)

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     安倍内閣の暴挙

 安全保障関連法が強行採決されました。これは法律学者の指摘を待つまでもなく、日本国憲法に違反したものです。ごく普通に、憲法の前文と第9条を読めば、誰だっておかしいとおもうでしょう。
 前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し」とあり、また第9条には「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあります。さらに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるのです。
 そこからいえば、安保法制は明らかな憲法違反です。政府が自国の憲法を遵守しないという、恐るべき事態に至ったのです。これは暗黒の時代の始まりといっても過言ではありません。私たちが交通法規を守らず、信号を無視し、好きな速度で車を運転したら、どんなことになるでしょう。
 たしかに国際社会では国家間利害による紛争や、宗教対立に根ざした内戦やテロが絶えたことはありません。東アジアにおいても、中国の覇権主義的な軍備増強と強引な海洋侵出がなされ、北朝鮮は核兵器の開発をほのめかしています。そういった近隣間の軋轢はあっても、それと国の基本的な指針たる憲法を踏まえるということは次元の異なることです。
 この国際状勢に即応するために、新たな安保法制が必要というのなら、まず国民投票によって、憲法を改定しなければなりません。なにごとも国民の同意のもとに進めるというのが民主主義の根本です。日本の政治は、これを基礎に据えたことは一度もないのですが、それでも、それを表面的な建前としてきました。それすらも、かなぐり捨てた今回の政治決定は、一党独裁の中国や北朝鮮と、実質変わりはしません。
 暗黒政治の第2幕目は、すでに始まっています。それはマイナンバー制度による国民の徹底的な国家管理と、政府による言論統制です。反対意見の持ち主や批判勢力に対する恫喝と暴力の行使、その一方で、合法的締め付けです。それは沖縄の辺野古基地移転反対運動に対する官憲の強圧的な抑え込みと右翼の襲撃、地元新聞2紙を潰せという暴言に、端的に現れているといえるでしょう。
 この戦後70年を無に帰すような安倍内閣の歴史的退行が、大日本帝国の復活を目指しているとしても、日米安保条約によるアメリカ依存という矛盾をはらんでいます。アメリカは、日本をけっして運命共同体などとは思っていません。あくまでも同盟国の一つとして対しているにすぎません。そんなものに全面的に頼ることはできないはずです。そうであれば、日本が大国に軍事的に対抗するには核武装するしかないと、いずれ言い出しかねません。そんな考えは、あまりにも愚かです。
 日本列島は土地も狭く、資源も乏しいのです。そんな日本の行く道は、経済的にも社会的にも、自らを全世界に向かって開いてゆくことです。その大切な足場のひとつが、第9条の「戦争放棄」ではないでしょうか。
 どんな権力的な強権をもってしても、人間は人種や民族を超えて連帯しうるということ、国家という共同幻想と個々の生存とは逆立ちするという本質を覆すことはできないはずです。これが私たちの拠って立つ自由の根拠であり、私たちの戦後が培ってきた開明性ではないでしょうか。
                      (『高知新聞』2015年11月9日)

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     言葉の力を信じて

 私は一九五一(昭和二六)年生まれで、会社でいえば退職を迎える年齢になりました。六五年の人生において、自分の基礎となっていることは、たぶん眠りのなかで見る夢に、無意識に現れるのではないでしょうか。
 私の場合、それはおもに両親や兄弟の姿と、故郷の風景です。山の畑や小さな谷川の流れ、道の曲がり具合や一歩一歩踏みしめた地面なども、リアルに出てきます。
 父、母、七人兄弟のうちの四人が、もう他界しています。
 思い出はたくさんあります。
 門松やしめ縄を作り、餅をつき、三が日は村の者が互いに挨拶に廻り、家々で酒や御馳走を振る舞い、賑やかでした。そんな中、出稼ぎから帰ってきた長兄が酔って、沖縄の「安里屋ユンタ」を歌う姿が、鮮やかに甦ってきます。
 川魚は別として、海の魚は行商のおばさんが売りにくる、じゃこやうるめの干物でした。板前になった次兄がある時、カツオ一尾まるごと持ってきて、三枚におろし、藁火で炙り、氷水にさっとつけ、カツオのたたきを作ってくれました。これが初めてでした。こんなに美味いものがあるのかと思いました。
 私たちは、南向かいの高い山を毎日見て暮らしていました。三番目の兄が向こうからみる景色は、さぞかし眺望が開け良いだろうと思っていて、実際に行って見たらがっかりしたそうです。どうしてかというと、四国山地の険しい山並がみえたからです。私も裏山から見て知っていました。殊に、冬の雪に閉ざされた山々の表情は、なんだか恐ろしい感じがしたのです。でも、これはヴィジターの印象にすぎません。日々見ていると、馴染みの展望ですから、おのずと趣は異なるはずです。
 ある冬の寒い日に、四番目の兄は、収穫を終えた芋畑で火を焚いて暖を取ろうとしました。それが北風に煽られて、枯れ草に燃え移ったのです。それに気が付いた家族みんなが、上の桑畑から駈け降り、服を脱いで叩き消しました。それ以来、その兄は何事に対しても、とても慎重になりました。決定的な出来事だったのでしょう。
 私にとって、いちばん大切な思い出は、母の畑仕事のそばで、ぼんやり過していた時だと思います。なんの憂いもない、ほんとうに幸せな時間でした。
 いま、向かいの山をみると、家の数は子ども頃からすると、半分以下に減っています。それは私たちの集落も同じです。過疎が進み、限界集落を通り越して、消滅寸前という有様です。
 村を離れた人々も、私と同じように、自分の故郷の暮らしを胸のなかに温めているはずです。でも、それは残念なことに、誰にも受け継がれません。
 私は若い時、詩を書きはじめました。それから、ずっと言葉の表現に執着してきました。それは半面では体が弱かったからかもしれませんが、言葉は失われた過去やかけがえのない情景を再現できます。そして、他の人に伝える力があります。それに惹かれたのだと思います。
 世の中は便利になり、物はあふれているようにみえます。しかし、昔に較べると、人の心は痩せているような気がします。言葉は、キイボードを叩けば出てくるものではありません。心のなかから、泉の水のように湧き出るものです。
                     (『高知新聞』2017年12月18日)

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     「膏取り」一揆について

 先日、鶴見俊輔について調べる必要があって、図書館に行った。『鶴見俊輔書評集成』(みすず書房・全三巻)を見たのだが、どういう基準で書評の採録を決定したのか、まったく判らないものだった。全体的な鶴見俊輔の書評リストもない。言うまでもなく、わたしが見たいと思ったものも収録されていなかった。これは杜撰な編集というほかないものだ。
 仕方がないので、筑摩書房版の『鶴見俊輔集』(正・続全十三巻)も閲覧することにした。司書の人が書庫へ本を取りに行ってくれているあいだ、することがないので、郷土コーナーの棚を見ていると、『大豊町史 近代現代編』があった。『古代編』は持っているけれど、『近代現代編』は刊行されていることさえ知らなかったのである。結局、目的とするものは見つからず、わたしは『大豊町史』を借り出してきた。
 還暦を過ぎて里心がついたのかもしれないが、じぶんが生まれ育った時代の村の様相というのは、〈原風景〉のようなもので、自己形成の背景をなしているような気がする。ルーツを探るというような大袈裟なことではなく、関心を惹いた事柄について、書いてみたいとおもう。
 第1章が「行政」になっていて、これにいきなり吉野川水系の大豊地方には影響のうすかった「徴兵令」をめぐる騒動が記されている。

  小区の戸長の主な仕事が、戸籍を作りその移動を把握することであったのは、兵隊を広く国民全体から徴集するための準備と深いかかわりをもっていた。
  軍務官副知事大村益次郎は、洋式訓練をする計画をもっていたが、明治二年(一八六九)七月兵部大輔になって間もなく、長州の刺客に襲われ、十一月に死去した。
  大村の遺志を継いだのは、明治三年(一八七〇)八月、ヨーロッパから帰国した山県有朋である。山県は明治四年七月兵部大輔となり、翌年陸軍大輔となった。この山県を中心として徴兵制度は確立されていった。
  すでに明治三年十月には、海軍はイギリス式、陸軍はフランス式という兵制統一の布告が出され、翌年二月には薩・長・土三藩の兵約一万からなる「御親兵」(明治五年に近衛兵と改称)をおいて天皇守衛の任に当たらせていた。
  明治六年一月十日徴兵令は発布された。その諭告文の中に、
   天地ノ間一事一物トシテ税アラザルナシ、以テ国用ニ充ツ。然ラバ則チスタルモノモトヨリ心力ヲ尽シ国ニ報ゼザルベカラズ、西人之ヲ称シテ血税トス(中略)。且ツ国家ニ災害アレバ人々其災害ノ一分ヲ受ケザルヲ得ズ、其故ニ人々心力ヲ尽シ国家ノ災害ヲ防グハ、則チ自己ノ災害ヲ防グノ基タルヲ知ルベシ。苟モ国アレバ即チ兵備アリ。兵備アレバ即チ人々其役ニ就カザルヲ得ズ。是ニ由テ之ヲ観レバ、民兵ノ法タル、モトヨリ天然ノ理ニシテ、偶然作意ノ法ニ非ズ。
 とあり、この諭告の中にある兵役を「血税」と表現し、しかも「西人之ヲ称シテ」とあることから、民衆を最も刺激した。
  「血税というのは血をしぼりとられるのだそうだ。徴兵で若いものをとって逆さにつるし、その血を西洋人に飲ませるのだ。
  横浜の異人たちが飲んでいるブドー酒というのがそれだ。赤い毛布や軍服や軍帽も血で染めたのだ」。
  このような流言が全国に及んだ。そして「血税」反対、すなわち徴兵反対は大分・岡山・鳥取・島根・香川の各地で一揆にまで発展した。香川県(当時名東県)下の諸郡では、村吏・戸長宅、邏卒出張所をはじめ学校、提示場など約四百か所、ほかに民家約二百軒が打ちこわされ、その取り調べに一か月余かかり、処罰されたもの二万余人といわれる。
  高知県では俗に「膏取り騒動」と呼ばれる一揆がある。これは吾川郡池川郷用居の竹本長十郎が首謀者で小松内府重盛の末裔なりと自称し、世論の動揺するに及んで、平兵部輔の名をもって、諸郷に檄文を発し、自ら惣大将を名のり、名野川・池川の郷民はたちまち一揆に雷同し、彼らは用居を出て川口に本陣を定め画策した。
  一揆はやがて土佐郡本川・森郷へも波及した。脇ノ山村の山中良吾は、大酒家で腕力があり、酒をあおって一揆の頭領となり、衆を指揮した。登川原には手に手に刀・槍・竹槍・猟銃を持ち、蓆旗を立てた、おおよそ三百人が集まり気勢をあげた。
  森郷では、井野川の士族和田米蔵が、山中陣馬を説いて一揆に引き入れ、やがて本川・森・池川・名野川の衆と合流した。山中陣馬は総大将となり暴挙をおさえ統制していたが、一揆の成功がとうていおぼつかないことを悟り、ひとり責任をとって明治五年正月六日中切の山中で切腹、のちに土居川原で梟首された。竹本長十郎は足痛で川口の医家で療養中を捕らえられ、伊野川原で梟首刑となった。
  竹本・山中を失った一千に余る民衆はしょせん烏合の衆で、この騒動は間もなく鎮静した。大豊地方は、森・本川と同じ嶺北であるが、このような一揆も、参加したものもいない。ただ、磯谷の当時副戸長であった森孝三郎の墓石碑に「(上略)其間遭遇千戸籍編成、徴兵令発布等所謂維新創業之際人心不穏、君善説明大義鎮撫部民(下略)」とある。
  これによって、百事一新の明治創業期に、この地方でも徴兵令につながる戸籍の編製、特に徴兵令発布後の流言、隣郷の一揆の様子など伝わり、民心が大きく動揺したであろうことが十分うかがえるが、森孝三郎らの説得で静穏に過ぎたようである。

                  (『大豊町史 近代現代編』「徴兵令の発布」)

 「酒をあおって一揆の頭領となり」などという、まるで見てきたような記述の仕方は、逆に先行する歴史書を引き写していることを窺わさせるものだ。
 それはともかくとして、明治維新が及ぼした社会の動揺が浮かびあがってくる。この一揆は仁淀川水系の各郷を中心として起り、一大一揆の様相を呈している。維新政府の意向を受けた藩中央(明治元年の府藩県治制の布告により、土佐藩は高知藩と改められ、山内豊範が土佐守改め高知藩知事となっていた)は、これを鎮圧した。それには武力的威圧にはじまり、懐柔、騙し討ち、裏切りの強要、あらゆる手段が使われたことは想像に難くない。実際の衝突が回避されたことは、当然、両義的な意味をもつだろう。若い時なら、民衆の叛乱として戦闘を評価しただろうが、いずれにしても敗北は免れないから、その敗北の深傷をおもうと、なんとも言えないというのが、正直なところだ。
 町史の記述は、迷妄な「流言」によって、一揆が組織されたように書いているけれど、そんなことは断じてない。もちろん、その時代特有のいろんな〈思い込み〉や〈無知〉もブレンドされていただろうが、「徴兵令」が「血税」であり、郷の若者の血をしぼりとるものであるという「徴兵令」の本質は、まさしく見抜かれていたのである。
 近代国家の建設に〈国軍〉の形成は不可欠であり、そのために国家の統制の下に民衆を置くことが要請されたのである。これは国権主義の一枚岩的な強制であり、もとより「天然ノ理」などというのは詭弁にすぎない。そこに内在する〈矛盾〉も〈疎外〉も〈逆立〉も、すべて捨象されているからだ。しかし、国家的な支配を根底から否定する思想はなかったから、敗北は決定されていたのである。だからこそ、この「徴兵令」の文言を徹底的に批判しぬくことだ。それが梟首された一揆の先導者の魂の〈救抜〉につながるのではないだろうか。
 太平洋戦争が無条件降伏に至らなかったとしたら、国体は護持され、軍部は残存し、徴兵制も存続していたかもしれない。国家の最大の政治的暴力は〈戦争〉であり、そのための「血税」が徴兵にほかならないことは歴然としている。
 そこからいえば、鶴見俊輔・小田実らの「ベ平連運動」は厭戦の勧め以上のものではない。
                            (『蟹の泡』第2号2013年1月)

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     わが家の下に学校があった

 わたしは松岡晴之・喜代の第七子(六男)として、高知県長岡郡大豊村日浦上屋敷一八八番地に、昭和二十六(一九五一)年一二月一三日に生まれている。
 明治維新の県・郡地区制によって、明治四年九月長岡郡は三十の区に分けられていたとのことだ。そのとき、日浦集落は日浦村として独立していた。日浦村は本村・崎内・安戸の三地区からなり、私の家は本村の中の西村にある。本村には神社があり、それが村の中心だったといえるだろう。
 明治二十一年四月、市制・町制が公布され、それによって翌二十二年四月に十七か村が合併されて東本山村となり、大正七年六月大杉村と改称されている。
 そんなことは近年知ったことだ。さらに驚いたのは、日浦村に小学校があったということである。『大豊町史』によれば、日浦井ノ下二百十一番地の一に小学校があり、この学校敷地の跡は通称「学校ヤヂ」と言い、現況は畑である、とある。その跡地はわが家のすぐ下なのだ。
 本流の吉野川と支流の穴内川の合流地点に近い地勢なので、二つの川に挟まれ、山は低く傾斜地になっていて、広い土地など皆無に等しい。そんななか学校跡地は珍しく広く、わたしの子どもの頃は麦畑だった。

  慶応三年十二月九日王政復古がなり、新しい統治機構が確立すると、それに応じた政治理念として五ヶ条の誓文が示された。また開国に伴って、諸外国の圧力に対抗するため、国民の意識統一を図る必要が生じた。
  そこで平田派の国学思想を中心に、皇国思想・神国思想の普及教化が重要視され、教育制度の中でも特に初等教育の充実を企図して、学制が発布された。
  しかし一面では西洋の科学文明に遅れている日本が、追いつき追い越すためには、科学教育の推進も絶対に必要なことであった。
  学制の中の「被仰出書」は、多分に西洋思想の直訳的な教育目的が示されていて、その身を修め才能を伸ばし、業を昌にして生を遂ぐるには学問は不可欠であり、学問こそは立身出世の基本であると個人主義の思潮が底流となっている。
  従来の学問は武士以上の階級のものと思われていたり、学問は国家のためにするものであると考えられたりしていたが、すべての国民が、自分が身を立てるためには学問をしなければならない、と述べて、功利主義的な教育観を主張している。
  文部省顧問のアメリカ人モルレーの指導勧告によって、アメリカ式民主教育を取り入れ、自主的、地方分権的な教育の導入を図った結果、明治十二年学制を廃止して、新しく教育令を施行した。しかし地方の分権化は必然的に地方の経費負担を増加させて教育の後退をまねいた。
  明治十三年、教育令を改正して、国家統制が強化され、教育行政上の重要事項については文部卿の認可を必要とし、府県知事の権限強化が図られた。三か年の義務制が実施され、出席すべき日数年間三十二週間、一日の授業時間数三時間以上六時間以下となった。
  義務教育の強行実施は庶民の負担増でもあり、明治十七年の秩父騒動の際、国民党の要求の中にも教育税の廃止の項目が上げられているのはその表れであろう。
  政府は画一的、強制的に義務教育を実施することが困難であることを知り、明治十八年八月教育令は改訂された。
  学校校舎建設の困難な地方には教場を認め、社寺の廂の下や民家の一室を充用しても差し支えないとした。巡回授業方式も認め、極貧の村や僻地においても簡易な教育が行われるようにした。
  教科についても細目は決定せず、「児童に普通教育を実施する」と規定し、地域の要求水準に合わせた教育を実施することにした。事情によっては夜間の授業も認めたし、「普通科を終らざる間やむを得ない事故がない限り毎年就学せしめなければならない」と定めている。
  明治十八年内閣制度が創設され、森有礼が文部大臣に就任した。彼は、国家繁栄の基礎は教育であり、教育の目標は「忠君愛国」の志を養うことであるとし、国家主義、全体主義的な教育を確立していった。
  師範学校教育に軍事教練が導入され、明治二十二年には卒業者の六週間現役制度が確立された。
  明治二十二年には大日本帝国憲法が発布されたが、教育については議会の審議を経ずに勅令によって実施されることとし、憲法の条文の中には明示されなかった。
  翌二十三年には教育勅語が発令され、これが国民教育の中心となった。学校にあっては、修身科において、教育勅語の趣旨に基づいて各徳目に応じた教育が行われ、教育の目標として忠君愛国の思想の滋養が図られた。各学校に教育勅語が保管され、祝日等には奉読式が行われ、その趣旨の教化徹底が図られた。
  明治三十三年には尋常小学校就学率も八〇%を超し、義務教育も四か年となった。
  小学校教科書も汚職問題を契機として、明治三十六年に国定制度が確立され、教育の内容に行政の意志が深く立ち入ることになった。
  明治四十年義務教育年限が六か年に延長され、尋常小学校六か年は義務制となり高等小学校が二年乃至三年制となった。

                    (『大豊町史 近代現代編 第四章教育』)

 これはべつに論評するために引用したのではない。ろくに勉強してこなかったむくいで、いまごろノートをとっているのだ。日本人はそれ以前から教育に熱心だったにちがいない。幕藩体制下でも、寺子屋のほかに、文字を読み書きできる浪人、医師、神職、僧侶、名本、老(としより)などが、隣近所の子弟に読書、習字の手ほどきを行っていたとみられるからだ。高知県の明治六年の就学率は一〇%、明治八年には二二%、十二年には三三%、明治十五年には全国平均の四八%を超えて五一%となっている。学校建設の目安は市街地で人口六、七百人に一校、山間では二百人で一校区とされていたらしい。義務教育六か年制が実現される前の学校は単級で、一校に教師一人の寺子屋式だったとのことだ。
 明治三十三年に日浦・高須・小川などの数校が合併して杉尋常小学校となっている。所在地は杉字川下である。わたしの時代には中学校だった。ここが元は小学校だったことは母から聞いたことがある。

  昭和の初年杉尋常小学校の関係者らが御真影(両陛下の写真)の御下賜を申請したが御裁可にならなかった。
  この当時の小学校では万世一系の天皇と国体護持の思想が教育方針の基調であったので、四大節(四方拝・紀元節・天長節・明治節)に式典を行い教育勅語を奉読するのが通例であった。特に村役場の所在地に在る中心校では、その式典に荘重さを加えるため御真影を奉戴することが常であった。
  杉小学校に御真影が下賜されなかった理由は、校舎の敷地が国道の下に在って道を通る人々が御真影を奉戴してある学校を見下ろすのは不敬に当たるというのである。今から考えれば噴飯ものであるが当時の人たちにとっては切実な問題であり、それではということで国道の上の大スギの元で字北畠九十四番地に移転した。
  下の校地の隣には畑や酒蔵の跡など敷地の余裕があったのに、上の新しい敷地はこの地方でも類をみないほどの高い石垣を築いての難工事を地元の人たちの奉仕で昭和三年十二月に完成した。翌四年初めからは新校舎の建設に着工し、八月までに完成し九月の二学期から移転した。(中略)
  また学校移転の直接の動機となった御真影を安置する奉安殿は、県下でも例の少ない独立の鉄筋コンクリートで神殿の流れ造りを模し千木(ちぎ)をつけた立派なものであった。その後学制改革により大杉国民学校、大杉小学校を経て今日に至った。

                    (『大豊町史 近代現代編 第四章教育』)

 わたしが大杉小学校に入学したのは昭和三十四年四月だ。家から学校まで六キロくらいあり、通学に一時間くらい要したとおもう。校庭は広く、桜や栴檀の木が植えてあり、高い石垣にはよく取りついて遊んだ。薪を背負い本を開いた二宮尊徳の石像はあったが、奉安殿はなかったとおもう。

 この小学校移転に対して、「今から考えれば噴飯もの」などと言えないことははっきりしている。民族国家の枠組みは依然として強固であり、現在の政府は安倍首相(岸信介の三代目)を筆頭に、着々と法整備を進め、反動性を深めているからだ。
 また、石破や中谷といった防衛大臣を経験した自民党(や民主党)の政治家は、「軍」族議員として、自衛隊の完全な国軍化を目論んでいる。その大きな突破口となったのは、自衛隊を国軍と認め、憲法第9条を事実上無化した村山富市首相の国会答弁だ。この連中は自衛隊の国軍化、憲法の改訂、徴兵制の復活まで視野に入れていることは確実である。
 だいたい、社会基盤が沈下してくると、またぞろ制度に守護された、体制的なルートがリードする局面が前面にせり出してくる。スポーツ関係は言うに及ばず、最近では音楽関係の者も自衛隊に入隊して、活動の場を得るようになっている。それに劣らずひどいのは、嫌煙権の社会的制圧や用語(言語)の自己規制の徹底、生活保護受給者のパチンコ店などへの出入りの通報の条例化などの倫理的退行である。これらは、戦前体制への先祖返りであり、国家に従属する奴隷的な傾向なのだ。それらが反動性の裾野を形成しているといっていい。
 一方「左」といえば民主党は折角「政権交代」を果したというのに、左翼の宿痾のひとつである陰険なヘゲモニー争いに明け暮れ、小沢一郎追い落しをはじめ内部分裂を繰り返し、鳩山→菅→野田と党首がかわるごとに痩せ細り、政権は瓦解した。政権与党をなしていた国民新党の亀井をして「まるで連合赤軍のようだ」と言わしめている。
 この病理は、じぶんたちは頭が良く、才覚があり、人の上に立つ資格が先天的に具わっていると錯覚していることに発していることは言うまでもないことだ。それが内攻すれば、すぐに差異の強調、不毛な相互批判、近親憎悪などにたやすく転嫁するのだ。
 そして、いまは「原発=悪」一辺倒で、少しでも異論を唱えるものがあれば、あいつは原発推進派だとか容認派だとか言い、「反原発にあらずんば人にあらず」がごとくの独善性に凝り固まり、頽廃の度を深めている。だいたい、原発を廃炉にするにしても、莫大な予算も、科学的な研究も、実際的な処理も不可欠なのだ。それは党派的利害や単なる忌避を超えたものである。こんな常識すら見失った動きは、安倍政権とは別の形の反動なのだ。こんな奴らに何も期待することはない。もとから政治支配の補完物にすぎないのだ。そこでいえば、左翼の優位性などどこにもありはしないのである。
 人々の精神構造じたいは、社会的な動向に大きく規定され、どこまで退行するかわからない。しかし、産業構造(広くいえば文明)の進展は後戻りすることはありえない。そこが足場のひとつなのだ。
 過疎化によって、村の人口は減る一方で、いまでは小学校三校、中学校一校となっている。わたしは、小学校移転のために難工事に勤しむ人々を愚かだという気はない。そういうふうにいうなら、わたしたちだって、存分に愚かな存在だからだ。悲しいことに、人々は営々と、じぶんたちを収奪する領主のための高い石垣を築いてきたのだ。そうであっても、民衆は支配を超えて存在している。それは明治以来の公教育が形骸化しても、学ぶこと、考えること、人間の本源的な欲求自体は決して廃れるはずがないのと同じなのだ。

 つまらない話はさておき、学校のいちばんの思い出はなんだろうと、思いめぐらしてみた。たくさんの思い出が、空の雲のように浮かび、漂い、広がった。また自分のろくでもない行いも想起した。
 忘れられないことといえば、あれは小学何年生の時だったろう。ある雨の日、母が傘を持って学校にやってきたことがあった。わたしは嬉しかった。そんなことは考えられないことだった。母は父の死後、子供を抱え、独りで家を支えていたからだ。家の周辺から離れることはほとんどなかったし、学校に来るのは子供が何か悪事を働いて呼び出しを受けた時か、稀に運動会の時に近所の人たちと連れ立ってやってくるだけだった。
 いま思うと、日浦からの一里半の道を歩いて、傘を持って迎えにやってきたそのとき、母は何を思っていたのだろうか。〈母〉は誰にとっても深い謎ではないのか。
                       (『蟹の泡』第4号2013年4月)

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     第二の産声

 私は一度だけ「おまえは、高田渡に似ている」と言われたことがある。むろん、私は楽器はできないし、歌も唄えない。また無類の酒好きでもない。まして高田渡のような独特のカリスマ性も持ち合わせていない。だから、似てはいないのだ。
 私にそう言ったのは、高知大学の学生で「四トロ」と仇名されていた全共闘活動家だった。彼は、高田渡と市ヶ谷高校(夜間)の同級生だった。その学校で高田渡はフォーク・ソングのグループを作っていて、その周りに仲間を集めていたらしい。当時第四インターのメンバーだった彼は、小柄な高田渡になんの魅力があるのか、不可解だったにちがいない。ただ横目にみて、その雰囲気がなんとなく忌々しく映ったのだろう。彼が、私のことをそう言ったとき、言外に否定的なニュアンスがこめられていたからだ。
 高田渡は一九六四年に中学校を卒業して「あかつき印刷」という会社に就職し、文選工として働き始めている。ほんとうは高校に行きたかったが、経済的にとても進学できるような状況ではなかったとのことだ。その印刷所は日本共産党の『赤旗』を刷っている会社で、党本部のすぐ横にあり、その就職話をもってきた彼の父は、「文選工はいい。その仕事には、学校に行っても勉強できないものがたくさんあるはずだよ」と言ったという。高田渡は本人曰く「ヘソ曲がり」で、共産党系の会社にいても、そのイデオロギーに染まることなく、そういう連中よりもただの職工さんが好きだったし、なによりも人間味に溢れていた、と語っている。
 ここらへんが、もしかすると似ているのかなとおもう。
 高田渡は、バンジョーの音色に魅かれ、ピート・シーガーを聴きようになり、ウディ・ガスリーのファンになる。それが音楽への入口だった。そして、「自衛隊に入ろう」で注目され、URC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)からレコードデビューしている。
 私は高校二年の時、同級生のアキラにURCを教えられ、岡林信康や高田渡を聞くようになった。この年頃は、社会に出て〈第二の産声〉を上げる時期だ。じぶんも歌いたいのだが、ハモニカさえ吹けなかったし、ひどいリズム音痴で行進曲に足並みを揃えることも覚束ないのだ。それでも、自然発生の〈欲求〉はせりあがってくることをやめない。ならば、詩を書くことはできると思い、彼らの詞を真似て、ノートに走り書きするようになった。私にとって〈詩〉は、中原中也や立原道造ではなく、まして鮎川信夫でも吉本隆明でもなかった。岡林信康のメッセージ・ソングや早川義夫のラブ・ソング、そして、高田渡の諷刺性をもった私詩だった。
 しかし、気分は「四トロ」兄と変わりはしなかった。辺りが中核系だったこともあり、街頭で暴れることがモットーだったからだ。そこからみると、音楽(フォーク)をやっている奴らは、女にもて結構楽しそうにやっていて、羨ましい存在だった。すぐ傍にいても、微妙な疎外感を感じていたのだ。それは共通だとしても、全共闘に紛れ込んだ〈変り種〉、それが「高田渡」的にみえたのかもしれない。
                       (『蟹の泡』第6号2013年8月)

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     あとがき

 わたしは高知新聞紙上の「文学という泉 第2部」連載開始に際して、これは三部作であると書いています。その「第3部」は機会が得られず、実現しなかったのですが、しかし思い返すと、「第2部」後、断続的に高知新聞に発表した文章がそれに該当することに気がつきました。

 吉田惠吉さんのご厚意により、その幻の「第3部」をここに公開します。

 新聞掲載というのは独特です。発行部数は多いのですが、翌日には古新聞になります。そういう意味では雑誌と違って速やかに過ぎてしまいます。でも、書く側からすると、読む可能性のある人の数は多いですから、話題が通じるように文体をひらき、普遍的なものになるよう努めるほかありません。だから、とても力を傾けたもので、愛着もあります。

 読み返すと、基本的に〈季節〉に寄せるものになっていました。ひとつの歳時記といえるでしょう。
 日本列島を基底で支えた〈アジア的な農村〉の習俗は衰退しましたけれど、人間の存在を根底で規定するのは〈自然〉です。もちろん、その〈自然〉は宇宙の原理と法則のもとにあります。それに対して、個の存在は一種の抵抗素をなしているといえるのではないでしょうか。〈個〉は歴史の中に生誕しますが、そのまま〈類〉の歴史に同致するわけではありません。それが親鸞のいう「順次生」なのです。

 最初の「師走の風に」を除いて、連載も含め全て高知新聞社の片岡雅文さんの依頼によるものです。片岡さんの配慮と許容力がなければ、これらは書かれなかったといっても過言ではありません。心より感謝します。
 また、関連するものも収録しました。

   2020年3月25日
                                    松岡 祥男

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「文学という泉 第3部」  ファイル作成:2020.03.28 最終更新日:2020.04.19