松岡祥男さんのこと

服部和美

1 はじめに

 2001(平成13)年秋頃、松岡さんから2度目の電話をもらった。『吉本隆明資料集』(以下『資料集』)も発行から1年半ほど経ち、「猫2だより」(後に「猫々だより」に改められた)という付録も挟み込まれ、読者とのコミュニケーションの場が設けられるようになっていた頃だ。当時の私の本代は、飲み代などの「交際費」も含めて私のお小遣いの範囲で買うので、『資料集』代は1回に「3000円」とか「5000円」とかをチビチビと振り込んでいた。その振り込み用紙の通信欄に松岡さん宛てファンレターやこちらの近況などを書き込んでいたのだ。松岡さんの用件はその「書き込み」を「「猫2だより」に掲載してもよいか」という内容だった。素人のファンレターを自社発行媒体に載せるのに、わざわざ高知県から電話をくれた松岡さんに恐縮するとともに、「ああ、この人は信頼できる」と思ったのだ。

2 松岡さんと出会う

  1.話が前後するが、私が松岡祥男氏を知ったのは、1989(平成元)年の暮のこと。『ロングインタビュー吉本隆明(聞き手 松岡祥男・粟島久憲・倉本修)』(『而シテ』第20号1989(平成元)年9月白地社刊)を八重洲ブックセンターで見つけた。聞き手の三人は「本業」を別に持っており、『而シテ』のインタビューはいわば「余技」のようで、当然質問は「本業」と「ものを書く自分」との二兎を追うことの葛藤に始まり、吉本さんの東洋インキ・特許事務所勤務時代、吉本ばななの評価、敗戦の記憶、アメリカ占領軍の農地改革の決定的意味などを吉本さんから引き出していた。「敗戦の記憶」についての吉本さんの発言は、ロシアに言及している分かなり衝撃的だった。

  魚津の日本カーバイト(註1)から帰ってくる汽車の中に、復員の兵隊たちがいっぱい食糧の荷物を背負って帰ってくるわけです。それが同じ列車に乗りあわせるわけですね。するとおもしろくないわけですよ。何で武装解除されて黙って帰ってきたんだとおもうわけ。だけど、じゃおまえどうなんだっていうと、こっちだって黙って帰ってくるわけですから。(略)人をバカにする、軽蔑するのと自分を軽蔑するのと同じだというのは、何ともいやらしい心理状態なんです。それに比べたらアメリカの兵隊たちの方がはるかにみごとだったですね。すくなくとも東京ではそうでしたね。ちっとも日本人をバカにしないし、ちゃんとして扱うしね。群れてアメリカ兵とたわむれている日本の女の子でも半分家がなくてとか浮浪者でとかそういう女の子だったんだけど、侮蔑的な扱いが少しもみえなかったです。それでアメリカにたいする抵抗心とか敵愾心がどんどんしぼんでいっちゃうんです。だからアメリカ占領軍をみててあれだけ住民にたいしてよく振舞えたら、百パーセントではなくてもやっぱり納得するものですね。(略)これはロシアと違うんで、ロシアがソ満国境で略奪・暴行をたくさんやるわけですが、これだったらどんないいこといったってだめだよということになっちゃいますね。これはどうしようもないですね。アメリカっていうのはそこはみごとなものでしたね。あんなことがあれだけできたらたいしたものだっていうことです。それから決定打はやはりいわゆる農地改革でしたね(註2)。

また現在の問題として、地上げにあって土地を売ってしまった地主さんに対する見方など、聞きたいと思うことを多岐にわたってストレートに聞いており、私に「二足のわらじを履く」人達への羨望をもたらした本だった。

2.次の「出会い」は、吉本さんのインタビュー集『世界認識の臨界へ』(1993(平成5)年9月発行者・齋藤愼爾/深夜叢書社刊)。私が目にしたことがないインタビューばかりで出来ている。「あとがき」で吉本さんは松岡氏の編集者としての力量を絶賛している。

 「これは近年わたしが応じたインタビューの記録を松岡祥男さんが力業で集めて出来上がった。さすがに正確で遠慮のない讀み手である松岡さんらしく、現在のわたしの考え方の原型は、いいにつけ悪いにつけ、すでにここに集めたインタビューの全体を見渡すとすべて盡されているように構成されている」と。

2800円(消費税3%含む)と価格も高かったが、お金には代えられない魅力のある「近年にない吉本本」と飛びついた。

3.そして翌年、「ずっしりと重い、大切なインタビュー集の第二冊目ができあがった」と吉本さんは筆を起こし、

 「このインタビュー集もまた、松岡祥男氏の芸術行為をたどっていることを意味している。そんな気分をじしんの過去の話し言葉から感得した。讀者諸氏におかれてもまた」

と『思想の基準をめぐって』(1994(平成6)年7月深夜叢書社刊)の「あとがき」を結んでいる。巻頭の詩「十七歳」と「生き残る日本の十七歳に向けてー吉本隆明語録1990年夏」は、『ヤング・サンデー』(1990(平成2)年8月24日号)に掲載されたもので、その頃(平成2年)まだ栃木県に左遷状態だった私は、アンテナ不足だったとはいえ吉本さんが「少年マンガ」に登場しようとは思いもよらなかった。
 この『思想の基準をめぐって』に収録されている「吉本隆明in高知ー1980・8」は、『而シテ』のインタビューよりも8年も前の質疑応答録だ。高知市立中央公民館の夏季大学の講師として呼ばれた吉本さんに、「どうしても直接お会いしてお話を伺いたいというようなことを考えて」「松岡祥男君に清水の舞台から飛び降りるつもりで手紙を出してもら(い)」「吉本さんが快諾をして下さってこういう会がもてた」と司会者が説明しているが、もうその当時高知県下で松岡氏の「吉本オタク」は知れ渡っていたというべきなのだろう。
 付録として収録されたアンケート(『野生時代』に5年にわたって掲載された吉本さんへのアンケート)が一挙に載ったのも画期的で有難かった。「もっとも怖いものは?」の質問に「高い所(高所恐怖症)」という吉本さんの回答には、本当に小躍りした(註3)。このアンケートが読めただけでも、定価2600円は高くないと思った。

4.続いて『マルクスー読みかえの方法』(1995(平成7)年2月深夜叢書社刊)が刊行された。「付録の「全学連主流派のブレーン」(『週刊コウロン』1960年7月)、『擬制解体期の展望』(『日本読書新聞』1963年9月9日号)は、久保田仁氏のご協力により収録することができました。記して感謝します。」と編集の松岡氏が書いている。このとき既に久保田仁氏の名前が出てきているのだが、迂闊な私は久保田氏の誰であるかを、十数年後になって初めて具体的に知ることになり、意識して読むことになる(「宿沢あぐり」のペンネームで活躍)。定価2500円。

5.翌年『吉本隆明氏に聞くー学校・宗教・家族の病理』(聞き手 藤井東・松岡祥男・伊川龍郎)(1996(平成8)年3月深夜叢書社刊)が「インタビュー集成別巻」として刊行された。「あとがきにかえて」と「吉本隆明とわたし」の中で、聞き手3人のプロフィールが紹介され、それぞれが著書を持っていることが明らかにされた。松岡氏は『ある手記』、『意識としてのアジア』、『アジアの終焉』、『論註日記』と4冊の著書を出している「ものかき」ということもわかった。これを読むまで私は、氏を吉本ファン待望の「吉本本に特化した編集者」として位置付けていたのだ。
 この本の巻末に掲載された「インタビュー集成」の予告では、「以下続刊」として『文学と宿命』(1996年上期刊行予定・予価2500円)・『文化のパラドックス』(1996年下期刊行予定・予価2500円)とあったが、日の目を見ることはなかった(理由は後で知ることになるのだが、この年の夏、吉本さんの「あの遭難」があり、企画が流れてしまったと聞いた)。

3 『吉本隆明資料集』が発行される

1.私が『吉本隆明資料集』立ち上げの情報を何の媒体でキャッチしたのか覚えていない。八重洲ブックセンターに出かけて相談窓口で聞くと「弊社では扱っていない」ということだったが、調べてくれた。「高知県で発行されていて、直接販売の形式をとっているようです」といって住所と電話番号をメモしてくれた。多分手紙で『資料集』の申込みをしたと思うのだが、松岡さんから初めて電話をもらった記憶がある。「高知の松岡です」と名乗った人に向かいバカなことに「松岡さんって、あの松岡さんですか」と聞いたのだ。「そうです」との返事だったので慌てて「『而シテ』の?」と重ねて聞くと「そうです」という返事。そこで『資料集』の発行者が私の知っている松岡祥男氏であることが確認でき、1号の値段・発行予定などを聞いて改めて申し込みをした。
 手許に残っていた領収証には「2000年3月29日「3000円」1・2・3集代金」とあった。

2.『資料集』第1集は、2000(平成12)年3月26日にスタートしている。ここで主宰者松岡氏の声を聞いておこう。第1集の編集ノートに、これからの編集方針が端的に述べられている。
 イ)「吉本隆明資料集」は、吉本隆明氏の了解のもとに発行される。
 ロ)吉本隆明氏の単行本や著作集に、未収録の鼎談や座談会の記録などを可能な限り収録し、継続して刊行してゆきたい。
 ハ)収録にあたっては、「初出」を尊重し、明らかな誤植・誤記を除いて、原文のままとした。
 ニ)資料収集については、主として山梨在住の久保田仁氏の尽力に拠っている。

3.『吉本隆明資料集』の「終わり」についても述べておく。『資料集』は2019(令和元)年12月191集の最終号まで20年間継続発行された。次々と手品のように吉本さんのエッセイや講演、対談、インタビュー録が掲載され、吉本ファンを自認していた私は、松岡氏をはじめ資料提供者の宿沢あぐり氏、藤井東氏の「吉本資料蒐集力」に脱帽した。最終号には『資料集別冊1「ニャンニャン裏通り(278頁)」』と『資料集別冊2「吉本隆明さんの笑顔(268頁)」』の2冊が購読者へのプレゼントとして配布された(いずれも松岡氏の著作集)。

4 「書評集」と「講談社文芸文庫」に登場した松岡祥男

1.本の帯に“作家の魂の深淵に分け入る泣ける書評”と記された『読書という迷宮』(齋藤愼爾著2002(平成14)年1月小学館刊)を私に教えてくれたのは、私の師匠筋にあたる業界新聞の記者の人で、何時も数紙の新聞の文芸関係の切り抜きを私にくれていた。その切り抜きをみてこの本を読んでみたいと思ったが、この頃には以前のように気軽に八重洲ブックセンターには行けなくなっていた(註4)
 『読書という迷宮』が手に入ったのは全くの偶然で、地方の事業所を回っていた時にその地域では比較的大きな本屋で見つけたのだ。読みたいと思ってから2年ほど後のことで、帰りの電車で読んだ。当然吉本さんの『追悼私記』・『吉本隆明×吉本ばなな』に目が行き、次に『太宰治』(井伏鱒二)、『高級な友情』(野々上慶一)、『アジアの終焉』(松岡祥男)と読み進めた。そして『アジアの終焉』(1990(平成2)年1月大和書房刊)に驚いたのだ。
 齋藤氏は『アジアの終焉』に収められた批評文が「藁半紙に印刷し、ホッチキスでとめただけの10ページたらずの「同行衆通信」という小冊子に発表されている」ことを説明し、「セクトの機関誌のそれで、触手を伸ばす気になれなかった」が、「ある日、何気なく拾い読みしたのが運の尽きといおうか、私は襟を正し、同誌のバックナンバーを探し索めるまでに魅入られていった」という出会いを語り、「事情は思想界の巨人・吉本隆明氏にしても同じだったらしく、のちに氏は「松岡祥男について」と題する文章で、「同行衆通信」体験を綴っている」と以下のように紹介している。

「わたしは松岡祥男の長短の言説に、まったくといっていいほど異議を感じなかった。これは近年のわたしにとって信じられないほどの理念の体験だった。この近来、一言一句も読み捨てにしたり、読まずに捨てたりすることがなかった同人誌は「同行衆」(通信)だけだったといって誇張でなかった。(略)わたしは現在への適確な理念的な把握という点でだけいえば、かけねなしに松岡祥男の言説を、現在の日本ではどの思想的言説よりも上位におく」(註5)

「このような「驚き」を吉本氏にもたらした批評家がかつていただろうか」と齋藤氏は述べていたのだ。
 何かの会議で東京へ出かける機会があり、素早く八重洲ブックセンターを回ったが、『アジアの終焉』は見つけられなかった。そのてん本屋回りをしなくともよいのが『資料集』だ。かさばらず持ち歩きには極めて便利で、しかも、いつも吉本さんと一緒にいられるようなバカな思いもあり、私は事業所回りには常に鞄には『資料集』を入れて持ち歩いた。

2.『資料集』とは別に松岡祥男氏のことで特筆すべきは、講談社文芸文庫に『吉本隆明対談選』(2005(平成17)年2月刊)が入り、吉本さんの対談の選定とその解説を氏が務めていることだ。この対談の選定が面白い。年代順に配列されているが、初めに江藤淳「文学と思想」(『文藝』昭和41年)、鶴見俊輔「思想の流儀と原則」(『展望』昭和50年)、M・フーコー「世界認識の方法」(『海』昭和53年)、佐藤泰正「漱石的主題」(『國文学』昭和54年)、大西巨人「素人の時代」(『素人の時代』昭和58年)、高橋源一郎「言葉の現在」(『SAGE』昭和59年)、谷川俊太郎「僕らが、愛してゆくこと老いてゆくこと詩を書くこと」(『鳩よ』昭和61年)と並べてみると、同時代に生で読んだ記憶が甦ると共に、「何故あの対談ではないのだろう」と思ったりするのは、多分私だけではないだろう(註6)
 解説の「吉本隆明の対談について」の中で、「その数は、単行本として刊行されたものも含めて二〇〇本を超えている。(略)それを一冊の文庫本にセレクトするのは難しい」と氏も本音を漏らしている。「しかし、この無謀ともいえる企画にも、じゅうぶん意義はある。対談は開かれたものだ。どこからでも入ることができる。話題からも、人物からも、テーマからも。そして、ひとつの時代を象徴するような白熱の対談も、多くの関心が集中した注目の対談というものも、また存在するからである」と述べ、「わたしが吉本隆明の追跡を始めた当初でいえば、江藤淳、鮎川信夫との対談が、双璧をなしていたといっていい」とインタビューの各論を始めている。
 しかし、松岡氏は吉本さんの対談の核心を、四行ほどで的確に語っているところがある。
 「吉本隆明の対談は、対談相手が変わっても、話題や論点がその場限りのものではなく、内在的な思想過程がその基底に脈々と流れていて、ひとつの大河をなしているからだ。だから、どんな小さなインタビューでも、ないがしろにすることはできないのだ。それは対談やインタビューに限らず、吉本隆明の〈全表現〉を貫く、著しい特長である」と。
 これを読んだ時どういうわけか昔「一般教養」の体育でとった剣道の練習試合を思い出したのだ。それは何人目かで当たった自前の袴・防具を着けた有段者に上段に構えられ、私は正眼に構えて何とかしのごうと思ったもののなす術もなく立て続けに二本取られてしまった何とも不甲斐のない体験をだ。今まで座談会での氏の発言を読んできてはいたのだが、批評文として読むのはこれが初めてだったから、まとまった評論集を読みたいと思った。勿論、対談は高橋源一郎と谷川俊太郎以外はすべて読んでいるのだが、解説者松岡氏の「選択意志」を感じながら面白く読み終った(註7)

5 ようやく「単行本」に邂逅する

1.『猫々堂主人』(2005(平成17)年8月ボーダーインク社刊)が刊行され、偶々寄れた八重洲ブックセンターで買い求めることができた(註8)。松岡祥男氏の単行本はこれが初めてだった。吉本さんとの対談「テレビはもっと凄いことになる」と「宮沢賢治は文学者なのか」を先に読んだ。吉本さんとの対談に際して「ビビッていない」松岡氏にまず驚いた。普通は緊張して上ずって、ものも言えないのではないだろうか。
(1)「テレビはもっと凄いことになる」は、『TBS調査情報』に連載された吉本さんのテレビ時評『視線と解体』(『情況としての画像』のタイトルで河出書房から出版)終了後に「連載を終えて」として吉本・松岡対談になったもので、氏がインタビュアーでありながら、自身の考えも披瀝してさらに吉本さんの考えを引き出しているところに他のインタビューにはみられない読み応えがあった。
イ)「『視線と解体』を通読してまず僕が思ったことは、吉本さんがいかにテレビ中毒であるかということでした。これは僕にとっては驚きだったんですが、週刊誌等によると吉本さんは朝六時半頃起床されると同時にテレビのスイッチを入れられるとのことですが、本当ですか。」と一般読者目線・興味津々の質問から始まり、「最初にテレビと出会った頃のことを話して下さいませんか。」と司会役に徹し、

 「確か御徒町の借家にいた頃です。上の娘が三〜四歳の頃だったと思います。その頃白黒のテレビを買ったんです。それ以前は映画を週二回位は見ていたんですがテレビを買ってからは途端に回数が少なくなっちゃいました。テレビに夢中でしたね。ですから当時は映画の代わりにテレビを見るといった見方をしていたのだと思います。あとは子供ですね。テレビの漫画番組等を子供に見せるということだった、と思います。」

と吉本家のテレビ歴を語ってもらっている。
ロ)その後に「吉本さんはアニメ番組もかなりお好きで「鉄腕アトム」などから始まったのでしょうが、その中で特に印象強かった作品にどんなものがありますか。」とアニメの質問を向けると、

 「僕の子供たちが熱中する度合いに合わせてある年数を共に熱心に見ていたと言えると思います。ですから成長して彼女らの関心が薄れると同時に僕も興味が薄らいでいきましたね」

何とも言えない「普通の親」観が滲み出ている吉本さんの回答で、私も子供との漫画時代が思いだされ、「親は子供と一緒に成長してゆく」という通俗的な親子関係の雰囲気を醸し出している「人間吉本隆明」にたいへん親しみを感じたのだった。
(2)この『猫々堂主人』には、「読書日録」「酔興夜話」など『詩の雑誌ミッドナイトプレス』に掲載された松岡氏のエッセイが沢山収められていてなかなか目が離せない。一つだけ挙げると「猛暑の最中に」(註9)が際立って面白かった。
 「猛暑の最中に」は『文藝別冊・総特集 吉本隆明』(2004(平成16)年2月刊)に掲載された鶴見俊輔「吉本隆明への道」を、短い枚数の中で吉本さんと鶴見俊輔の「決定的差異」として論じているのが凄いと思った。私の拙い著書『吉本さんの講演のことなど』でも書いたが、私にとって鶴見は高校生のときに「思想」への窓口を開いてくれたいわば「先生」でもあり、60年安保やべ平連の時の鶴見俊輔=「進歩的知識人・同伴者思想」であっても、なかなか「嫌い」になれない。『思想とはなんだろう』シリーズなどを古本屋で見つけると今でも思わず買ってしまう思想家だ。
 「吉本隆明への道」に関する私のウェイトは、「吉本隆明があざやかに私の前にあらわれ、その後六十年、私の中に生きているのは、彼が、私の戦中の思いちがいをあらためたからである。」という冒頭に始まり、「彼の「転向論」は、私が仲間をつのって八年かけてした共同研究を、ひとりでひきうけて考えぬいた。このエッセイは、私たちが背負うことのなかった課題を背負っている」さらに「ここには、私たちの共同研究を越えるゆきとどいた目くばりがある」「この評論を何度も読み返して、彼の着目のするどさを私は感じている」という鶴見の吉本評価に置いて、傍線を引いている。
 一方松岡氏は、鶴見が吉本さんを評価しないという箇所、つまり「戦後論壇の歴史に吉本の果たした大きな役割に、私がここでふれる用意はない。おおざっぱに言えば、丸山真男に対してしかけた論争については、一部の理を認める。花田清輝に仕掛けた論争については、それほどの理を認めない」という鶴見の発言(私もこの箇所には違和感を持ったが傍線を引いていない)の、「花田清輝に仕掛けた論争」という鶴見の認識について、「明らかな間違いだ」と正確に反論をしているのだ。

「吉本と鶴見とは、ほぼ同世代で、それぞれに戦後の思想をリードして、現在まで歩んできた。いわば好敵手とでもいう関係と距離にあるといえるだろう。その鶴見が、吉本が花田に論争を仕掛けたというのは、明らかな間違いである。吉本隆明と武井昭夫の「文学者の戦争責任」論に対して、当時の日本共産党の主要な文化イデオローグの一人であった花田は、横槍を入れるような形で接近し、それを左翼反対派的に取り込み、問題を横流ししようと画策したのである。ところが吉本が、そんな懐柔策や「記録芸術」の組織工作に乗らないとわかると、吉本への排撃を開始したのである。「理を認めない」もへちまもない。先に仕掛けたのは花田であり、組織を背景にした政治的攻撃に対して、吉本は非妥協的に応戦したのだ。そんなことは、「芸術運動の今日的課題」(一九五六年)(註10)という座談会や、二人の論文を読めば歴然としていることだ。鶴見のような同時代を生きてきた者が、事を「おおざっぱ」にするから、戦後思想は無為に帰し、すべては昔話になってしまうのだ。鶴見俊輔はいまでも日本共産党の支持者として選挙ビラなどに顔を出すことを辞めていないが、吉本は左翼陣営とか反体制派ということで、融合することはあり得ない。それが二人の決定的差異なのだ」

 私の「違和感」の正体はこういうことだったのか!! 松岡氏と私の「決定的差異」だと思った。

6 友人に宛てた手紙

 『資料集』が発行された頃の友人に宛てた手紙がある。その頃の雰囲気が伝えられたらと思う。

槌谷憲一様
 前略 昨年の古本まつり以来ご無沙汰しております。相変わらずクソ忙しくてイヤになります(過労が祟ってか「帯状疱疹」になってしまいました)。
 さしあたって吉本さん情報を紹介しておきましょう。
 イ)『週刊読書人』:「吉本隆明戦後50年を語る」;連載208回で、未だ快進撃中。
 ロ)『写生の物語』:『月刊現代短歌』に連載されていた短歌論で、講談社から出版されました。私のフォローが手薄なところです。
 ハ)『ペントハウス』:「世紀末 吉本亭」;これはインターネットで連載を見つけたもので、今年の2月に連載が終了。一冊にまとめられると有難いのですが(註11)。この『ペントハウス』は若者向けヌード写真の月刊誌で、本屋で買うには回りを気にしてしまうほどラジカルな本で買いにくいこと甚だしかった。カラー写真が主体のため1冊が高く、いつだったか漸く見つけて買おうと思ったところ周りに女子高生がたむろしていて手が出せなかった(こんなことで恰好をつけている俺はまだまだ未熟かつ世を捨てきれていないなと思いました(笑))。但し、吉本さんの連載はなかなかハードで、雑誌の購読者層である若者には少し難しいかもしれません(読んでくれるといいけど)。小林よしのりの「戦争論」、「新しい歴史教科書をつくる会」などを取り上げて批判していますが、いわゆる「左翼」が総崩れの中で、右翼・保守主義者の「進歩的文化人の迷妄さ」を指摘する論はなかなか正鵠を射ており、小林よしのりやその背後にある一般大衆的感性は侮れないなと改めて思いました。
 ニ)『吉本隆明資料集』:今度高知県の「猫々堂」というところから出され始めました。今まで単行本未収録の座談会を収録する小冊子です。我々が小・中学校の頃に行われた座談会など今ではなかなか読めないものが入っていてオモシロイ。主宰は松岡祥男といって何冊か著書を出していますが、まだ服部くんは読んだことがありません(『世界認識の臨界へ』や『思想の基準をめぐって』などを編集した松岡祥男といった方が貴兄には判りやすいかもしれません)。ただ、地方でコツコツ吉本さんの資料を発掘しているなどはそうそう真似できることではないなと思います。「本業」(副業?)が何かは知らないのですが、チマチマした“サラリーマン”になりたくなかった、いまどき「なかなかの気骨の持ち主」といえそうです。
 ではまた「暑気払い」の頃にでもお会い致したく。
                                草々
平成12年5月吉日

7 『吉本隆明資料集』の「編集ノート」と「猫やしき」のおもしろさ

1.ここからは『資料集』の「編集ノート」と「猫やしき」を見ていきたい。
(1)『資料集』の発行そのものが吉本読者にとって極めて有難いものだったが、「編集ノート」と「猫やしき」もおろそかに出来ない魅力ある資料になっている。「編集ノート」は猫々堂の「公式の見解」として、「猫やしき」は読者などが知らないことなどをさらっと漏らしてくれたりしていることで。今度読み返してみて(切り抜きも作ってみて)もったいないと思った。そのいくつかを披露して「もったいなさ」を判ってもらえたらと思う。
(2)「編集ノート」と「猫やしき」は、大きく分けて三つに分類されると思う。
イ)吉本さんと松岡さんの「交流情報」「吉本さんの日常」などが時折りみられる内容になっているなど。
ロ)書誌事項が掲載され、私などには思いもかけない「楽屋裏」が語られていること。また、松岡版「情況への発言」や本音が吐露されているなどもある。
ハ)これが一番驚いたことだが、吉本さんの単行本や文庫本の「マチガイ」をビシッと指摘していることだ。

2.最初に「マチガイの指摘」を挙げておこう。 (1)『資料集54「聞書親鸞」』編集ノート(2006(平成18)年4月)
 本資料集の校訂は、〈初出復元〉という主旨を尊重しながら、『決定版 親鸞』を参照し、訂正した所もあります。それらの判断はすべて松岡によるものです。なお、「最後の親鸞」の中で(本集5頁)「この課題そのものが、信仰にとってほとんどすべての重さをもっており」が、『決定版 親鸞』では「進行」となっています。たぶん、これは変換ミスを見逃したのではないかと思われます。他の諸版(註12)は「信仰」です。誤植はつきものですが「決定版」ですので、それが引き継がれる懼れがありますので注記しました。
(2)『資料集62「西行 僧形論 武門論」』編集ノート(2007(平成19)年2月)
 「僧形論(二)」のなかで「これらの『撰集抄』の一系列の登場人物たちは、もっとも非人間的(動物的)であるということもできる」(28頁)が、『(吉本隆明)全集撰』も文庫本も「もっとも非人間的(動物的)でない」となっています。前後の文脈を含めて考えれば、初出の方が正しいと思います(註13)
〈服部のメモ〉:いずれも吉本さんの代表作といえる刊行物での「校正ミス」で、『西行論』のミスは、文脈が通らないという意味では決定的だ。だが、うしろの「註」にも書いた通り二度とも私は見逃していたのだ・・・。まだ「校正ミス」は沢山指摘されているが、くどくなるのでこれまでにしよう。

3.吉本さんの日常から本当の「吉本思想」が垣間見えた
(1)『資料集79「大衆文化現考・天皇制について」』「猫やしき」(2008(平成20)年10月)
 『猫びより』9月号のハルノ宵子さんの連載で、シロミという猫が吉本さんの机の上でいつも寝ているそうですが、この猫は体に障害があり、尿を漏らすそうです。ある日机に積まれた封筒や本を宵子さんが除けてみると、なんとおしっこのしみこんだ吉本さんの原稿が……。そのことを話しても「いいよいいよ!」という、表現したものに執着しない吉本さんの様子が描かれています。私のような、吉本さんの著作や発言に追っ掛けが存在するのは、もしかすると逆に、ここに根拠があるのかもしれないと思いました。
〈服部のメモ〉:これを読んで「全くその通りだ!」「とてもいい!」と『資料集』に思わず書き込んでしまった。
(2)『資料集101「時代をどう超えるか」』「猫やしき」(2010(平成22)年12月)
 五年半ぶりに上京して、吉本さんとお会いしました。吉本さんは午後2時ごろ起きられて、夕方までは来客などの相手をされたりするそうです。夕食後、原稿を執筆されるとのことで、その時間がいちばん充実していると言っておられました。
〈服部のメモ〉:「100年、200年に1人といわれる思想家の仕事の邪魔をしてはいけない」と言われても、もっと吉本さんのところにお邪魔しておけばよかったと後悔の臍を噛んでいるのは私だけではないだろう。

4.幼かった頃
(1)『資料集75「源氏物語論〈初出〉」』「猫やしき」(2008(平成20)年5月)
 これまでに、使い潰したワープロ2台、パソコン2台。すべて中古でしたが。そう思うと、長い間続けているんだな、と思いました。ほんとうに不器用で、遠い昔の話ですが、小学校にあがる直前に、何と言うのか知りませんが登校して読み書きや工作みたい事(ママ)をさせられました。その時、付き添ってくれた年の離れた姉に「お前は鋏も使えないの」と云われた記憶があります。で、入力は2本の指でやっています。そのことを友だちに話すと、その友だちはブラインド・タッチできないのは「そうする気がないからですよ」と言いました。(略)
〈服部のメモ〉:氏の不器用さを取り上げたい訳ではなく、「年の離れた姉」さんに「お前は鋏も使えないの」と言われた箇所は、『共同幻想論』の「対幻想」の初期を髣髴とさせるからという苦しい意味付けもできないではないが、私には兄ばかりで「姉がいないので単純に羨ましかった」というのが何度も読み返した理由ではないかと思う。

  5.「松岡祥男」のある日の風景
(1)『資料集86「西行 歌人論」』「猫やしき」(2009(平成21)年6月)
 吉本さんの著作は膨大な量に達しているのですが、本格的な体系的著作も、短いエッセイも、それぞれに魅かれます。
 むかし、晩秋だったと思いますが建築現場の仕事帰りに、書店で「江藤淳についてのメモ」を読みました。これは『江藤淳文学集成』の月報として、本に挿入されていたのですが、持ち合わせがなく、立ち読みしました。わたしは立ち読みは殆どしない(=できない)のですが、このときは違ったのです。「そこでは江藤淳は、落ちこぼれや、劣等の学生たちの無意識に、優しい内面の歌を唱うことができていない」という結びの言葉が胸に響きました。そして、「ヘテロジェニアス」「ホモジェニアス」という言葉を反芻しながら、充実した気分で帰宅の途に着きました。そういうふうに、ある情景と痛切に結びついたものもあります。
〈服部のメモ〉:数ある「猫やしき」の中から、「晩秋の書店で立ち読みしている松岡氏」の風景を私が選んだのは、その11年後、

 「吉本さんも言われたように「物書きは廃業処分」という時代がもう到来しているといっていいでしょう。(略)
 でも、人が考えることをやめないかぎり、言語表現は存続します。人はことばで思考するからです。表層はどんなに変化しても、本質は不変なのではないでしょうか。その点では全く心配しておりません。
 マンガしか読まず、勉強も満足にしなかったわたしのようなものでも、吉本隆明さんや夏目漱石に出会ったのです。」

という松岡さんの服部への「私信」を思い出したからです。私はこんなに無雑作でしかも実のある「読書論」(というのが適切な表現かどうか迷いました)に、未だ嘗て出会ったことがありません。

 私が感じた「もったいなさ」を、いくらかでもお判りいただけたでしょうか。この「編集ノート」と「猫やしき」が1冊の本になればいいなと願いつつ筆を擱かせていただきます。

(2022年5月)

註1.昭和20年4月「大学の教授から、徴用として富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)にある日本カーバイト工業魚津工場に行くことを指示」され、魚津工場で8月15日の「天皇の終戦の「詔勅」をきく」(宿沢あぐり『吉本隆明年譜』)
註2.『丸山真男論』でスターリニズムの理論的批判を私たちの前に拡げて見せてくれた吉本さんだが、このような「生」のロシア(ソ連)批判は私の記憶では初めてだったので、衝撃をもって読んだ。21世紀の今日、またロシアのウクライナ「侵攻」を目の当たりにするとは!(『吉本隆明全集第28巻』月報「単独者の貌」で辺見庸氏は「いま生きてあるならば、ロシアのウクライナ侵略についてぜひとも訊いてみたかった。」と最後に書いているが、全吉本ファンの代弁をしてくれたと思った。)なお、引用文は『世界認識の臨界へ』の「生活と思想をめぐって」からとった。初出の『而シテ』「特集ロングインタビュー吉本隆明」の方が、息遣いがそのまま感じられるテープおこしになっていて捨てがたい魅力があるが、今回は簡潔な『世界認識の臨界へ』を使用した。
註3.理由は、私もまた高度の「高所恐怖症」で、埴谷雄高の「断崖病」(「高所恐怖症」は精神病の一種というのが趣旨)を読んで一度は了解できたのだが、吉本さんの「高所恐怖症分析」(母親のお乳と乳児との距離感覚が高所恐怖症を生む)を読み、自分の乳幼児期と照らして十分納得がいったのだった。
註4.前年(2001(平成13)年)の3月、私にとっては2回目になるしかも年齢的にも後がない「左遷」になり、関東一円をカバーする緑ナンバーの赤字企業運営に携わっていて、八重洲ブックセンターなどがある大きな街へ出かける余裕も機会も全くなかった。
註5.『意識としてのアジア』の跋文「松岡祥男について」(吉本さんの原文)によった(なお、『資料集85集』「松岡祥男について」も参照した)。
註6.初出誌が多岐にわたっていることも吉本さんのふところの広さを物語っていて興味を惹かれる。
註7.『吉本隆明対談選』のレシートは、「2005年2月12日(土)14:20・BOOK GARDENディラ上野」とあった。私が居た会社はこの時期年末年始もない繁忙期に当たるためほとんど休みがなく、群馬・栃木・茨城・埼玉など北関東にあるいくつかの事業所へ出向く乗換えの起点になる大きな街上野で、電車待ち時間に本を買うのが忙中閑ありの愉しみだった。
註8.この時は既に「10月末社長辞任」届を提出していたので、後任人事の打ち合わせにでも行ったのだろうか。珍しく八重洲ブックセンターのレシートが出てきたのだ。
註9.『ミッドナイトプレス』(2004(平成16)年9月号)初出。
註10.『吉本隆明資料集第1集』所収。
註11.『私の「戦争論」』(1999(平成11)年9月ぶんか社刊、後に「ちくま文庫」刊)、『超「20世紀論」』(上・下)(2000(平成12)年9月アスキー刊)、『超「戦争論」』(上・下)(2002(平成14)年11月アスキー・コミュニケーションズ刊)として各社から単行本化された。
註12.『最後の親鸞』(1976(昭和51)年10月春秋社刊);「信仰」、『増補最後の親鸞』(1981(昭和56)年7月春秋社刊);「信仰」、『吉本隆明全集撰』第5巻「宗教」所収「最後の親鸞」(1987(昭和62)年12月大和書房刊);「信仰」、『決定版 最後の親鸞』(1999(平成11)年12月春秋社刊);「進行」、ちくま学芸文庫『最後の親鸞』(2002(平成14)年9月筑摩書房刊);「信仰」。ここまでが『資料集』発行時の「他の諸版」の範囲である。
 現在刊行中の『吉本隆明全集』第15巻「 I 最後の親鸞」(2018(平成30)年3月晶文社刊)の「最後の親鸞」では、勿論「信仰」となっている。
註13.この「指摘」は恐ろしいと思った。松岡氏の懼れ気もない度胸と厳密な校正にだ。『吉本隆明全集撰』第6巻「古典」所収「西行論」(1987(昭和62)年10月大和書房刊)、『西行論』(講談社文芸文庫)(1990(平成2)年2月講談社刊)
 氏が『資料集』の編集方針で「初出」(月刊誌『海』連載(1976(昭和51)年5月〜11月)の「西行論」)に拘らなければ、『全集撰』、『講談社文芸文庫』共に「非人間的(動物的)でない」のままいってしまったのではないか。当時コピーを取った『海』の「僧形論一〜四」と「武門論一〜三」を、私も引っ張り出してきて確認した。氏が指摘する通りで、再度「恐ろしい」と思った。
 因みに最新版『吉本隆明全集』第21巻「III 西行論・1僧形論」(2020(令和2)年1月晶文社刊)においても当然「もっとも非人間的(動物的)であるということもできる」となっている。白状すれば、『全集撰』版でも、文庫本版でも、氏の指摘箇所を私は素通りしている。『資料集62』の「編集ノート」を読み、気づかされたのが本当のところだからだ。

 服部和美/1946年1月東京生まれ
     2016年12月;私家版『吉本さんの講演のことなど』発行
     2018年11月;「今氏先生と吉本さんのこと」(『脈』99号所収)


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「松岡祥男さんのこと 服部和美」 ファイル作成:2022.05.18 最終更新日:2022.05.20