Prodigal Son (放蕩息子) (全1幕第3場)
熊川さんが、恩師アンソニー・ダウエル氏の退任ガラへのゲスト出演(ロイヤル退団後
初めてのゲスト)が決まった2001年、それは「放蕩息子の帰還」とまで言われました。
そこには、奔放で、家(ロイヤル)を飛び出してしまうくらいの異端児の帰還を
皮肉ではなく、温かいまなざしで、受け入れて下さるダウエル氏の深い父なる愛情が
あってこそ…の帰還だったように思います。ロイヤル時代にも、熊川さんは、この作品を
踊っていらっしゃいますが、日本で、熊川さんが踊られたのは、今回が初めてでした。
もちろん、自分も観たのは、初めてです。10年ぶりの舞台…しかし、タイトルロール(主役)
の名前が、そのままニックネームのようにもなっていた熊川さんにとって、愛着とともに、
並々ならぬ深い作品理解が、顕著に現れた、生命力にあふれた舞台だったと思います。
この作品が創られたのは、1929年。ディアギレフによる、バレエリュスの最後の作品と
言われています。(結果的に初演の3ヶ月後にディアギレフが亡くなることから…)
テクニックは、もちろんのこと、強烈なスター性をもった、カリスマ的存在感が必要だと
言われてきました。自分は、バリシニコフの「放蕩息子」DVDに、深い感銘を受けたので、
バリシニコフを尊敬されてきた熊川さんが、今、どのような舞台を踊られるのかと
これまで以上に、未知の期待感を抱いていました。
[第1場]
幕が開いて、目を奪われたのは、まさしく、ジョルジュ・ルオーの美術。
力強さの中にも、どこか宗教画のようにも思える深みがあります。ルオーの
絵には「黒」が多用されています。力強いタッチで、物の輪郭とも影ともとれる
ような、「黒い線」が随所に入っているのが特徴です。(ルオーは、初期に
ステンドグラスの手法も学んできている)非常に強烈な印象を与える一方で、
不思議とその絵からは不気味さよりは、何か包み込むような静かな安らぎが
感じられる。そして、非常に興味深いのは、ルオーの描いた美術にあるような
「黒い線」が、この舞台の登場人物全ての衣装にあるということです。
血や出会いといった、何かのつながりのようにも思えるし、全ての人物に
共通する普遍的な何かがあるようにも思える。そして、その人物たちを、全て
包み込むのがルオーの美術なのか?とも思えました。美術装置は、なんと、
アメリカン・バレエ・シアターからの提供で、衣装は、ダンス・シアター・オブ・
ハーレムからの提供という、夢のようなご協力によって、バリシニコフのDVDと、
ほとんど同じ色彩が舞台上に再現されました。熊川さんの「放蕩息子」のポスター
にあった、穴の開いたベストとミニスカートのような衣装は、今回は、イメージ
(>ロイヤルの衣装?)で、舞台上には、出てきませんでした。舞台上の衣装の
デザインは、後にストラヴィンスキーの2度目の妻となる方(Vera Soudeikina)
のデザインです。つまり、「初演の衣装」を尊重されました。
プロコフィエフの音楽が始まり、舞台上には、「放蕩息子」のお付の男性2人
(アルベルトさん:緑の衣装&小林由明さん:青の衣装)が、酒樽と細長いラッパの
ようなものを手にとって、確認しています。始まりから、どこかへの「旅立ち」の
予感が感じられ、家の扉になっているカーテンの中から、空の天候を確かめるように
少し上を見上げて、すっと数歩、足早に歩いて、熊川さんの「放蕩息子」が
登場します。明るい水色のベスト(上着)から、ひるがえる白いマントには、
やはり脈々とした黒い線が入っていて、両腕と両足(膝から下)は、生き生きと
した若さが感じられる生身の身体。シューズもあえて、肌色に近い色で、最初から
素足のようにも見えます。(>最初は、シューズを履いていらっしゃいます☆)
お付の者に、旅立ちの準備はいいか?と酒樽の数を確認しながら、異国への
心はやる想いが感じられます。そこへ、姉妹(浅川さん&沖山さん)が登場し、
(聖書の原点では、兄弟、バレエでは姉妹とのこと)放蕩息子へ手を差し伸べて、
家に戻らせようとした瞬間、放蕩息子の中にあるエネルギーが炸裂します。
姉妹の手を振り払い、自分の太腿を両こぶしで、叩きつけ、そして、放蕩息子の
存在感を一瞬にして、刻み付ける、最初の大きな跳躍!!この最初の跳躍に、
放蕩息子の個性が、象徴されているといっても過言ではないと思います。
その後も、何度も、太腿を両こぶしで、叩きつける動作が入り、再びの跳躍、
何かを叫ぶように大きく口を開け、両腕を四方に思い切り広げる場面は、
放蕩息子のほとばしる生命と、燃えたぎるような、若さゆえの自由への憧れを
感じさせます。連続したピルエットも、熊川さんならではの、軸がずれることの
ない高速回転で、爆発的な外へのエネルギーが伝わってきます。
「…いやだ!…いやなんだ!!早く、ここを出て、思い切り、冒険がしたい…!!!
見知らぬ国へ行ってみたい!!」…そんな心の声が聞こえるようです。
その大きな声を家の中で聞いていたかのように、バッ!!とカーテンを開けて、
登場した父親(ポール・ボウズ氏)の両眼は、登場の一瞬から、放蕩息子を
鎮めるだけのギラギラとした、ものすごい眼力を放っています。長い口ひげは
グレー(薄い灰色)色で、しわのメイクも細かく、口ひげ(あごひげ)の長さに
人生の年月を感じさせます。今回、父親役がどなたになるのか…が、自分は、
非常に楽しみでした。登場は少ないけれど、父親があっての、「放蕩息子」です。
威圧的な父親なのか、理性的な父親なのか、情愛深い父親なのか??(夢に見て
いたダウエル氏(^^;の登場は、さすがに叶いません(^^;でしたが)
ポール・ボウズ氏の父親は、本当に登場の一瞬で、「神のような威厳」があり、
かつ、威圧的というよりは、戒めをその眼だけで諭(さと)すような、沈黙の中に、
深い愛情が宿っていたように思います。そっと姉妹の手を取り合って、さらに、
放蕩息子の手も一緒につながせようとする…。
「お前たちは、家族なんだ…神の愛によって、この世に生を受け、互いに支えあう
べき存在なのだよ…」と諭そうとするかのようです。しかし、父親が、放蕩息子
の頭に、そっと手を当てた瞬間、その手をすり抜けるかのように、息子は、父親の
諭しを拒否します。「…違う。父さんの言うことはわかるけれど、このまま、
ここには、いられないんだ…!!」再び、立ち上がって、太腿を両こぶしで叩きつけ、
先ほどの跳躍よりも、さらに高く跳び、お付の者を門から先に出します。
「行け、先に、行っていろ!!」勢いのある回転と跳躍を、最後にわざと家族に
見せ付けながら、カッ!!と大きく声を放つようにして、疾風のごとき勢いで、
旅立つ放蕩息子…。残された3人は、放蕩息子の行く末を案じながら、旅立って
しまった無鉄砲な者を切ない表情で見つめ、互いに肩を支え合いながら、
ゆっくりと家の中に戻ります。
[第2場]
背景の美術が変わり、薄暗い夜の雰囲気の中、ムカデのように連なって
舞台下手(左)から出てきたのは、なんと、丸坊主の不思議な男たち。プロコ
フィエフの音楽も、第2場は、とても力強い出だしです。余りに強烈な印象(^^;に
観客は、一瞬にして「異国」へとタイムスリップしてしまいます。この場面転換
(=幕の始まりの一瞬)が、とてもくっきりとして素晴らしかったです。そう、
幕開けの一瞬で「異国」へと観客をタイムスリップさせなければならない。最初は、
「放蕩息子」が生活していた「家」へ、そして、この場では、その家から、
遠く離れたところまでやってきた…という、観客にとっては、2つめの「異国」を、
放蕩息子の旅とともに感じさせなければならない。舞台転換自体は、後ろの絵が
変わるだけなので、だからこそ、ダイナミックな音楽の始まりと、ムカデのような
丸坊主の男たちのメリハリのある動きのインパクトは大事です。実際、思わず、
身を乗り出して食い入るように見ていたお客さんや、逆に、びっくりして身を引いた
お客さんもいらっしゃったかもしれませんが(^^;この男性陣の仕上がりが、
初日から、熊川さんや中村さんに負けないくらい、いい出来でした。
決して弱弱しくなく、奇妙だけれど、なんだか微笑ましく、少し社交的で(笑)
いつの間にか、放蕩息子と握手して、一緒にお酒を酌み交わしている「酒仲間」たち。
ダンサーの皆さんが、要所要所で舞台を引き締めながらも楽しんでいるのが
伝わってくる。アクロバティックな姿勢も、ドキドキしながらも、大丈夫!と
安心して見ていられました。
家を出てから、放蕩息子の表情は、段々と冒険好きな眼が輝いてきます。
異国の住人たちに、最初は、「…こ、こいつら何者だ?」と眼を丸くして
驚きながらも、いつの間にか打ち解けて、にこにこと握手をし、一緒に
踊り比べをするかのように、楽しく踊り出している。そして、ゲストの
中村祥子さん演じるサイレーンが登場すると同時に、放蕩息子の表情と心は、
みるみるうちに、さらに解放されていきます。
サイレーンを見つめる放蕩息子の眼は、本当に、恍惚としていて、まさに、初めて
理想の女性が目の前に現れたような、10代の少年のように初心(うぶ)な表情です。
純粋な瞳は、みずみずしく輝いて、口元もぽか〜んと開けながら、ただひたすら、
見とれている。自分も、こんな熊川さんの表情は、初めて見ました。熊川さんが、
髪を明るく、少し茶色にされたためもあり、一層、若々しく見えます。バリシニ
コフの放蕩息子との大きな違いは、自分は、サイレーンを見つめる表情と、心の
ときめき、無防備さだと思います。バリシニコフは、特別、若く見せようとは
意図していない。一方で、熊川さんは、外見だけでなく、心も若々しいまでの
純情なときめきが感じられ、その若さゆえの無防備さ、無鉄砲さを強く印象づける。
その点が、非常に興味深く感じました。
また、プロコフィエフの音楽が、この異国では、二転三転します。激しい勢いの
あるリズムとダイナミックな音量で始まったかと思うと、ピチカートによって、
サイレーンのポワント(つま先)を意識した音の粒をゆっくりとしたテンポで刻む。
そして、放蕩息子が、一気にその魅力に取り付かれたように、甘美なメロディーが
流れるように舞台に広がっていく。自分は、その「流れるような甘美なメロディー」
には、作品は違えど、プロコフィエフの音楽として、「ロミオとジュリエット」の
初めてジュリエットを見つけたロミオにも似た心の高鳴りを感じました。
放蕩息子の場合は、恋愛ではないのだけれど、抗いようもないサイレーンの魅力に、
明らかに、初めての心の「ときめき」と「とまどい」を感じていると思います。
その感情の機微が、熊川さんの放蕩息子は、無鉄砲な行動に反して、とても繊細です。
そして、対照的に、中村さん演じるサイレーンは、最初の慎ましやかな登場に反し、
真紅のベール(肩から下がる長いマント)が剥ぎ取られた瞬間、ダイナミックなまでの
アプローチ。聖なる存在というよりは、むしろ、放蕩息子が、今まで知らなかった、
外の世界を教えてくれる、異国のヴィーナス!!のようです。マリア様のような女神では
ないけれど、オディールのような悪魔でもない。中村さんのサイレーンは、
艶(つや)やかで、力強くて、生き生きとした華がある。崇高な存在というよりは、
本当に熱い血の通う、艶(あで)やかなサイレーンでした。目が、口が、肩が、背中が、
そして、つま先が、本当に、存在そのものが、物語っていました。一歩間違えると、
どこか滑稽に思えてしまうようなポーズでも、ひとつひとつの動きが正確で、ひるむ
ことがありません。ブリッジのように上向きに体を反らせたまま、手とポワントだけを
地につけて歩いたり、立っている男性群舞の肩の上に、さらにすくっと両足で立って、
「この地にあるものは、全て我がもの…」というかのように君臨する場面もあります。
ブリッジの姿勢から、両手で両足を持ち、放蕩息子の体を、自らが輪になって、
潜り抜ける場面など、サイレーンの熱い血が放蕩息子の体に浸透したかのようでした。
確かなステップ、豊かな肩や腕の動きによって、放蕩息子を自分の色に染め上げるかの
ように誘惑していきます。
後半に行くにつれ、サイレーンの眼も輝き、頬の色も放蕩息子の生気を得たかの
ように、少し紅潮し(>踊りの難易度ゆえの紅潮もあるとはいえ、まさに放蕩息子を
我が物にしたかのようで)ほのかな微笑が浮かぶのも、ゾクゾクさせられました。
特に、サイレーンが、手のひらを上に向けて、ひじから上を上げるポーズは、
すごく印象的でした。放蕩息子の体に足を絡ませ、自分の胸に抱いた後で、最後に
高い帽子の上から、そっと(^^;と出た片手(ニョキッとした感じ)には、思わず、
こちらもゾクッとしました。「なんだか、バリの踊りと似ている気がする…」と
興味深い視点を教えてくれた友人にも、感謝しています。
再び、荒々しい音楽が響き、抱き合っていたサイレーンと放蕩息子を引き裂きます。
サイレーンの中の猛々しさが蘇り、男性群舞に酒樽を持ってこさせ、空中から、
放蕩息子の口に注ぎ込む。そして、さらに、男性陣にサポートされて、空中から、
放蕩息子の顔すれすれのところに、自分の顔を寄せ、放蕩息子を窮地に追い込む。
第1場で、放蕩息子の家の「門」になっていた黒い壁は、第2場では、テーブルの
ような敷石になり、さらに「坂」になる。その「坂」を駆け上がった放蕩息子が
頂点で、叫ぶように一瞬止まった後、それまでの放蕩息子の無鉄砲な人生を
奈落の底に落とすかのように、滑り落ちる(滑り落とす)象徴的な場面もあります。
滑り落ちた放蕩息子は、それまでの酒仲間や、お付のものたちからも、身ぐるみ
剥がされ、衣服はもちろんのこと、財産全てを持っていかれてしまいます。
近親の者からの裏切り、略奪、そして、孤立。さらに、サイレーンは、最後に、
放蕩息子の胸にかかった赤いペンダント(>バリシニコフの場合は金色)を、
見つけると輝くばかりの瞳で、それを剥ぎ取り、高らかに謳歌して、闇夜に消えて
いきます。先ほどまで「坂」になっていた黒い壁は、この時点では、まさに、
「磔(はりつけ)」のような壁になっています。漆黒の壁に残されたのは、無一文に
なった放蕩息子の身体とべっとりとした背中の汗の跡のみでした。
やがて、放蕩息子は、おぼろげに意識を取り戻し、衣服や財産はもちろん、
ペンダントがないことにも気づき、途方に暮れます。身体もぼろぼろで、頭が
ガンガンし、両眼は、かすんで見えなくなっている。とにかく、この場を去らねば…と
足を進めようとするものの、足は、鉛のように重くなって、立つことすらできない。
小川のせせらぎで、眼を洗っても、まだ視野は明るくならない…。四つん這いに
なって、ひじで歩を進めながら、ひとり、異国を後にします。
[第3場]
舞台左手から、ボロ着をまとい、杖をつき、そして、傷と痛みで、がんじがらめに
なった両足を幾重にも縛りながら、放蕩息子が現れます。あの足、あの体中の赤く
腫れ上がったような傷…演技とはいえ、本当に大丈夫なのか?と思うほどの
痛々しさで、杖とひざを地につけながら、一歩、一歩、前に進んでいく姿は、
決して演技には見えない、真摯な人間の生き様を見る想いがしました。
(放蕩息子の両足に巻かれた黒いテープは、衣装として、傷を応急処置するものだと
思いつつ、文章を書いているうちに、自分は、一番最初から見えていた、背景と
全員の衣装にあった「黒い線」を再び、ふと思い出しました)
なぜ、放蕩息子は、こんなにまでして、家に戻ろうとする(した)のだろう?
素朴な疑問が、舞台を観て、2ヶ月ほど経った今、自分の中に、ふと沸いては、
消え、消えては、再び沸き起こります。この作品の放蕩息子は、そして、
熊川さんの放蕩息子は、帰るべきところを知っている…そんな気がしました。
家の門が見え、明かりが近づいてくると、一心に家路を辿り、家の門をコンコン…と
杖で叩いて、やっと緊張の糸が解けて倒れる。門を杖で叩く場面は、バリシニコフの
映像よりも、さらに、熊川さんの細かい演技が、非常に良かったと思っています。
言葉にしたい大きな想いを、小さな杖の音にわずかに託す、最後の望みの糸が見えるか
のようでした。端から見たら、散々、家族を心配させた挙句、財産を失い、傷ついた
から帰るなんて、虫が良すぎる…現代の自分たちには、そんな考え方もあると思います。
事実、個人の行動を考えれば、それは「甘え」なのかもしれないけれど、この作品から
伝わってくるのは、その個人を超えた、家族の愛、そして、人類の愛のようなものでは
ないかと思います。放蕩息子は、最初は、自分のために帰ろうとしたのかもしれない、
しかし、最後に、出迎えてくれた姉妹と、ただ、立ち尽くして「待っている」父親の元に
「進んでいった」のは、放蕩息子の「あがない」の意志・心であり、自分の体(てい)
たらくを恥じずに、飛び込んでいける、父の胸を信じていたのではないかと。かつ、
父親も息子が帰ってくる場所は、ここしかないと最初から知っていた(信じていた)の
ではないかと思いました。
ポール氏の父親は、最初は、進んでくる放蕩息子を悟りのような眼で見つめながら、
やがて、放蕩息子を見下すことなく、息子が体にすがってきても、遠くに視線を
やって何かを見つめています。叱り付けるわけでもなく、もちろん、手を差し伸べたり
もしない。笑顔も怒りも一切見せない、無言の厳しさと優しさが、そこには存在して
いました。自分は、こんな父親がいたら、自分の行いを悔い改めるかもしれない…と
思いました。そして、何より、言葉にならない感謝と無償の愛を感じるだろうと。
単に親子だから、許し、許されたのではない…自分は、そう思っています。人間の弱さと
自らの愚かさ、それゆえの限りない慈しみと相手への愛情を互いに知っているからこそ、
この父親は受け入れ、この放蕩息子は、帰還できたのではないかと。熊川さんの
放蕩息子を最後の最後にやっと抱きかかえ、全てを包み込んだ、父親のマントは、
本当に、神の手のように温かく感じられました。
BACK(Summer Triple Bill Top)
追記:熊川さんが、父親役(ポール・ボウズ氏=振付指導をされた方)を見る目も、
サイレーン(中村さん)を見つめる目も、★どの一瞬も「放蕩息子」でした。
それが、何より自分は、うれしかったし、感動しました。登場人物(ダンサー)とオケ、
美術、全てが一体になって、凝縮した時間の中で、★観客を「異国への旅」へと、
★「放蕩息子」の心の旅へと連れていってくれました。痛々しいくらいのラストに、
放蕩息子の痛みと安らぎを一緒に感じることができたのではないかと思っています。
そして、風変わりな群舞や、放蕩息子のお付き(男性)を演じてくれたKバレエの男性
ダンサーたち、姉妹役の二人(浅川さん・沖山さん)や、本当に神のような威厳と温かさで
父親を演じて下さった、ポール氏にも、感謝の心でいっぱいです。
バリシニコフのDVDは、公演後、再び見直し、英語解説もじっくり読みました。
バランシンが「ミーシャ(バリシニコフ)のために振付けた」という言葉や、
ビデオ撮影の最終リハには、バランシン自身も立ち会って、思わず、父親役の衣装を
まとって、最後の演技を指導したこと、初演(バレエ・リュス)の衣装デザインを
尊重すべく、後にストラヴィンスキーの2度目の妻になる方のデザインを使用したこと
(>熊川さんたちが着ていらっしゃった色彩です)など、さっと読んでいた部分が、
改めてわかりました(^^;;ビデオ制作者(?)の方が解説を書いていらっしゃるのですが、
面白いなと思ったのが、バランシンが、父親役の衣装をまとって、バリシニコフの最終
演技指導をしたときに、初めて、その方は、☆実は、バランシンが、父親役のオファーを
待っていた(^^;ことに気づかれたみたいで…はっとして、バランシンのアシスタントの方に
告げると「彼はあなたに(父親役をやらないかと)尋ねられることを待っていたのよ。
でも、もう遅いわ…」と(^^;)
バリシニコフとバランシンが、共演していたら、これも夢の舞台になったろうなあ〜と
感じました。初日・2日めと父親役にポール氏を起用された熊川さんは、きっと、
そんな逸話と、指導して下さったポール氏自身に対する、大きな信頼と感謝を寄せて
依頼されたんじゃないかと感じました☆☆//(^^)
テクニック的に、同時に論ずることは早急でも、自分は人間の普遍的なものを追ったテーマとしては、
どこか「若者と死」に近いタイプの作品だと思いました。熊川さんの「放蕩息子」と「若者と死」…この2つが、
残ってくれたら、どんなにいいかと、未だに望みの糸を捨てきれず。小作品集として、いつか
「パッシング・ボイス」なども、実現できればいいなあ〜!!(^^;;と思っています。
「放蕩息子」の父親役は、27日〜29日は、ポール・ボウズ氏から、アラステア・ポスト
ロスウェイトさんに変更の掲示があったようです。アラステアさんも、背の高さと
がっちりとした体格で、きっと、熊川さんを温かく包み込んで下さったのではないかと
思っています。