チャレンジド

先日の集まりで、障害者と言う字のことで少し話題になったことがある。「害」と言う字ではなくて「碍」を使うべきでは無いかとの意見が健常者から出た。これまでも「障害者」と書くのは望ましくないのでは無いかと言う意見があるのを、私も知ってはいた。優しい心遣いからのご意見と感謝はしていたが、私自身はそのような細かなことに、こだわりを感じる気は無い。差別用語として「めくら」は使っていけないとかいろいろ最近は言われるようになったが私は昔の人はうまく言っているなと思う。目が暗くて見えないから「めくら」であり、「盲」は目が亡んでいるから「盲」となっているのだろうと感心している。そして最近は障害者と呼ぶよりチャレンジドと呼べばいいのでは無いかとの意見にはちょっと嬉しくなった。障害にチャレンジする人と言う意味で出た言葉だと私は理解している。

このチャレンジドである私がちょっと気に入らないことがある。それは私と同道してくれる人がお店などで、私のことを障害者だからとか、目が不自由な方なので等と紹介される時、何もわざわざそのようなことを言わなくても、様子を見れば分かる出あろうし、改めて公表するような必要の無い場所でのその言葉にチラとこだわりを感じる。

例えば和食レストランなどで個室に入る時にこれを言われた時はちょっと気になった。つまり僻みで思えば目が見えないから食べ方が下手で汚されるかも知れませんよと事前に言われているように感じられたからだった。

これは同道者の性格や過ごして来られた人生の中から出てくる言葉だと思うのだが僻みっぽくなっている身にはいただけない。

例えば我が部屋への訪問者の中でも床に落としている物を見つけるとさりげなく拾って処置をしてくれる人と、鬼の首でも取った様に、得意げに拾った物を、私に手渡しをする人がある。勿論、落し物を知らせて貰う事は有難いことなのであるが、得意げにそれをされると、つい、反発を感じる私は、どうしようも無い、ひねくれ者であることは自認している。

以前、肢体障害の人と話す機会があった時に彼女が視覚や聴覚に障害のある人は、黙っていれば、その障害が分からないけど肢体障害者は一目瞭然で分かるので面白くないと言うような発言をなさったのを聞いた時に、ああ、そういうものかなと何気なく聞き流していたのだが、今、私が、改めて、同伴者が「この人障害者よ」と他に向かって言われると不愉快に感じるのと通じるところがあるのかと、我が心の狭さに、ひるむのである。

2004年12月

 

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