懐かしい友

日記から

1995年11月末

自分で編集や印刷が出来るようになってからお友達に便りを出そうと思っていたのですが、昨日今年の出来事を振り返って見た事を綴ったらなんだか急にお手紙を出したくなり家人のワープロに私の文を写してそこで印刷したものを送る事にしました。

受け取った人たちがどんな反応を示してくるかとても楽しみです。

Aさんは驚くでしょうね。彼女とはご主人の定年で故郷へ帰られてから一度もお会いして居ません。私が読む事が出来なくなったのをよく知って居るので一方通行の便りも余りこなくなりました。さぞ驚いてすぐに反応してくるのでは無いでしょうか。とても楽しみです。

明ちゃんは、なんて言ってくるでしょう。

Sさんは?T先生は?と考えると楽しくなって来ます。

 

それぞれの反応をゆっくりと待つ事にしましょう。手紙の反応一号がAさんから来ました。

昨夜電話で私の手紙がとても嬉しく「長くしまっておくわ」と言ってくれました。

彼女に始めて会ったのは転勤族の彼女が高岡に来て間もない頃でした。

ふたりとも高校生の親だったので何かと話しがあいとても仲良しになりました。彼女からは色々な事を教えてもらいました。

一番大きな事は前向きに積極的に生きる事でした。本当になんでも新しい事に向かって進む姿は立派でした。

ある時は、私の眼が曾野綾子さんの症状とよく似ているからと曾野さんを治した間島先生の診察を受けるようにすすめてくれ手早く名古屋の病院に電話を入れ予約をとってくれました。

そして、大雪の朝、私に付き添って名古屋まで行ってくれました。

結果は残念ながら網膜の状態が悪く治らないと診断されましたが、本当に彼女の善意には頭が下がります。

そして今の季節になると思い出すのは大根寿司のことです。彼女の郷土料理として教えてもらった私が、今は私の十八番料理として友だちが待って居てくれます。

今は定年の主人に伴われて故郷に帰ってしまったけれど、永くおつき合いを続けて行きたいと思って居ます。

 

反応二号がSさんからありました。

同じ石川県でも郵便の届く日が違うようです。彼女も私の手紙をとても喜んでくれ「しまって置く」と言ってくれました。

そして始めて沖縄旅行をした話しを楽しそうに話してくれました。

彼女にとっては、とても大変な決心だったと思います。

脳出血の後遺症で半身付随の身になって始めての旅行だったのです。

それから、孫が三人になった事、35才になる下の娘さんがまだ結婚してくれない悩みなど話しは尽きませんでした。

思えば彼女が病気になった後、栗ご飯等を作って羽咋へ何回かお見舞いに行ったものでした。

私も思いのままに行動出来る優雅な日々の頃でした。

今振り返って見ると高校時代の五人娘は、二人欠け障害を持つ身となった私を含めて三人になってしまいました。

元気で幸せ一杯に見えた友から先に召されたのです。世の中と言うものは分からないものです。

千葉県の船橋からハスキーボイスで明ちゃんから「偉いよ、偉いよ」の連発の電話が入りました。

手紙の反応三号です。

明ちゃんとは生まれた家がお向かいどうしだったので幼稚園から高校まで一緒の幼なじみです。

高校を卒業後は、彼女は栄養士の学校へ、私は平凡に短大へと進む道は分かれました。

そして、それぞれの結婚と会う機会は無くなり何十年かがたって私の息子が大学生になり下宿生活を始めた頃何回か東京に出かけた私が電話を彼女に掛け、再会を果たしたのがきっかけで再び交際が始まりました。

会わなかった年月の間に甲状腺の手術の後声が出なくなったとかで、すごいハスキーボイスになっていました。

私もその手術を受けた事があったのですが、おかげさまで声の方は変わりありませんでした。

そして、一昨年彼女はくも膜下出血になり頭の手術を受けましたが、今度は大成功で何の後遺症も無く良きご主人に恵まれ二人の息子さんたちと理想的な生活をして居ます。

 

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