流氷

 

厳冬の北海道に魅せられて

 

厳冬の北海道への旅には、どの程度の防寒具を準備すればいいのかしらとまよいながらの旅立ちだった。

国内旅行としては、大きくなったキャリーバッグを曳きながら、30分前まで吹雪いていたという稚内空港に降り立った時は、日も少し顔を、見せていた。

でも、さすがに風は冷たい。落ち合ったトラベルボランティアや今回のツアー参加者らと、迎えのバスで、ノシャップ岬の展望台へ走る間、道路沿いにスノーガードの塀のような物が、建っている。

地吹雪がひどくて、これが無いと道も分からなくなるのだと言う。

空も道も真っ白の中を、走って到着した所は、とにかく風が強い。夏の間、開くらしい売店もしっかりと戸締りがしてある。

宗谷岬にある、今夜の宿は、斗夢 宗谷と名づけられたメルヘンチックなペンションだった。

宿のオーナーは、脱サラで観光シーズン以外は、猟師をしていると言う夫婦のもてなしで、その夜は大きな囲炉裏の傍で、蟹やほっけなどを、焼いての食事だった。

 

翌日は猛吹雪、その中を最北端の地に立ち、日本海は、怒涛逆巻く海で演歌の世界だと、ガイドは説明してくれた。

それから、左手にオホーツクを見ながら、南下を始めた。

オホーツク海は日本海に比べて、静かな海に思える。途中で、牧場が経営するレストランで、バターを実際に作ったりして、昼食を済ませた後、昨日生まれたばかりの牛の赤ちゃんに会ったが、世話をする人の指を、チュウチュウ音をたてながらすっているのは、可愛かった。

その日は、日の出岬温泉に宿泊、雪の降る露天風呂など体験し、翌日は日の出を見た。

それから叉、バスは走り、紋別へ、ここで、ガリンコ号に乗り氷を砕く音を体験し、目の前を飛ぶ海猫、鴎等に餌をやり、当日は、晴れていたので流氷は沖の方へ流れていたが、その雰囲気は満喫出来た。

昼は蟹の食べ放題の番屋で、たっぷり蟹を食べ、胡麻アザラシ館で、頭の先から尻尾まで、触り、おまけに、ひっくり返ってもらってお臍まで、確認したが、アザラシ君、は迷惑だったかしら?

でも、ご褒美の餌をたっぷり貰っていたから良いのかしら?

その夜は、サロマ湖畔のリゾートホテルに、泊まったが、到着してすぐに、スノーモービルに乗った。

これは、出発前からの私の最大の楽しみだったので、後ろでは無く、前の運転席に乗り、インストラクターに運転をしてもらったのだが、その楽しさが病み付きとなり、翌朝は、私がハンドルを握り、声で右カーブ、直進、左カーブなどと指示してもらって、コースを3周したのは、良い気分だった。

この日は、網走に入り北方民族資料館で、学芸員の詳しい説明を受け、彼らは、非常に知能が高かったということで、その使っいた生活用品等を、ガラスケースの戸を開けて、触らせてもらった。

網走監獄の見学は、寒い時だけに、どんなに厳しいものだったかが、理解できひとしお心にしみこんだ。彼ら受刑者達が、北海道の開発に果たした役割も、大きかったのではないだろうか?

その日は、知床岬で夕日を見るのが、楽しみで、その時刻に間にあうように、バスはひたすら走り、間に合った。

流氷の彼方に沈む夕日が、一線となってオレンジ色の光を、流氷の上に伸ばして、その流氷の影がかもし出す様子は、今回の旅の圧巻だったと思う。

私はピンクに染まった空などは、もう、識別できなくなっているが、オレンジ色を残った光覚で捕らえることが出来たのがとても嬉しかった。

その夜は、摩周湖近くのペンションで最後の夜を過ごした。

翌朝は、猛吹雪、八甲田山の遭難もこのような状態ではなかったかと思える中を、こけつ、まろびつしながら摩周湖の湖面を見た。

そして釧路へ。釧路湿原では、丹頂鶴の求愛ダンス等もゆっくり見てと言っても、私には、サッパリ見えなかったが、頭をコクンコクンと下げ、ぴょんと飛び上がり、羽をばさばさとゆすってダンスをしていると言う。

「ああ!あれは、成立しなかった」等と、見える人たちが言ってるのを聞きながら、私も見ているような気になる。

 

釧路の地ビール館で最後の食事をして空港からそれぞれの家路についた。

私の父は太平洋戦争で北の守りにつくための輸送船を、撃沈されて、亡くなったが、海の藻屑と消えた父が、この北の海へ私を招いてくれたように思える素晴らしい旅だった。

2002年2月

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