初めて大勢の人の前でお話をしました。

ロータリークラブ 第2472回例会    2月7日()

「私の大切なパートナー・パソコン」

 

 今日は中途失明をした私がパソコンと出会ってどのようにその恩恵をこおむっているかをお話させて頂きたいと思っているのですが、何しろこのような場所に出てきたのは初めてなものですから終わりまでちゃんとお話ができるかどうかとても不安に思っております。

 

 私は高岡で生まれて育ち結婚をして、ずーと専業主婦をしておりましたが、3年前に夫に先立たれて今は一人暮らしをしております。私の目は、強度の近視ということでもともと余りよくなかったのですが、普通の文字の読み書きには困らなかったので、普

通の教育を受けて育ちました。最初に見にくいなと感じたのは息子の受験について上京し、都内の地図の細かい字が見えにくくなっていた時です。近視は老眼にならないと聞いていたのにと思いながらも拡大鏡を使ってようを済ませておりました。

 

 それから40代、徐々に徐々に視力が落ちていきまして、まず、朝の新聞を読むことが困難になってまいりました。いくら瞬きをしても、目をこっすても文字がどんどん私から逃げていきます。その頃が一番寂しくて悲しい思いの時でした。私の夫は、その時

「悪くなってもめくらになるだけだろう」なんていうものですから私はこの人は盲人ってどういうことかわかっているのかしらって、凄く腹が立ち、彼に当り散らしておりました。でも今となって考えてみますと、見えなくなる私と一緒にオタオタとされたら私はもっと立つ瀬がなかったのではないかなぁ、あの時はあれで良かったんだなぁと思えるようになっております。

 

 文字の世界からはみ出してしまった私が、視覚障害者の世界に入らなきゃいけないなぁと覚悟を決めて、高岡の視覚障害者の部会に入れて頂くことにしました。ここでは市の広報誌『市民と市制』とかをテープにして送って下さいます。そうやって視力部会の行事などに参加していきますと資料を点字にしますか?墨字にしますか?と聞かれます。墨字とは皆さんの世界で普通にご覧になる活字のことを視覚障害の世界では墨字といいます。私は点字もダメ、墨字もダメで、これから視覚障害者として生きていく上には点字をマスターしなければいけないかなぁと思いました。でも、周囲では50才を過ぎて点字を読めるようになったものはいないとか、夫などはお札の隅に付いている点字も区別つかないものが読めるようになるわけがないと冷たく言います。

 

 でも私はこれしかないと思って富山のライトセンターへつきに一度初めて白い杖を持って出掛けることにしました。高岡駅前からバスで、富山の安野屋まで行き、磯辺にあるライトセンターまでは歩きます。帰途はライトセンター前からバスでJR富山駅まで行き、電車を利用して帰る方法を取りました。

 

 初めて白い杖を持って乗車券の自動販売機の前に立ち、お財布をごそごそ用意しているときに、「買ってあげましょうか?」と声を掛けてくださる人がありました。私は320円のコインを入れて、左から6番目のボタンを押せば、高岡行きのチケットが手に入ることを事前学習で知っていましたが、その肩の好意に甘えて買ってもらいました。その後も、コインを入れていると、押しましょうか?と申し出てくださる男の方もありました。

 

 改札口を出て線ブロック、これは安心して進んで良いというしるしです。それを進むと気をつけなさいよと言うぽちぽちの点ブロックになります。馴れない杖で階段の降り口を探っていますと後ろから、さっと肘を支えてくださる方、それからあるときは、5・6人の中学生の男の子のグループが来て、その中の一人が私の手を引いて、会談を降りてくれました。仲間たちが「お前、親切やな」と冷やかすのですがその子は、階段を降りきるまで、手を引いてくれました。この年頃の男の子がこのような行動をするのは勇気のいることだと私は思います。ここで、白い杖を持って出れば、何方かの優しい手に支えられて行動が出来るのだなと一種の自信を得ました。それが後に、杖一本もって海外へふらふら

出てゆくきっかけになったと思います。

 

 しばらくしてパソコン教室を開くというニュースが入ってきました。これは視覚障害者の方が講師となって教えて下さるものだったので飛び立つ思い出申し込みました。早速パソコンを購入しキーボードを覚えることから始まりました。テープを聞いてもわからないことは、電話をかけて教えてもらいました。そして文字が書けるようになり、文集が綴れるようになりました。これは本当に嬉しかったです。しばらく文字というものから遠ざかっていたので、その頃思ったことなどをどんどん、どんどん書いてはパソコンに記憶させているうちに今度は印刷したくなってきたのです。今でも覚えているのですが、60回目のお誕生日の頃にプリンターが届きましてそれまでに書きためていたものを印刷しました。

 

 すると今度は誰かに読んでほしいという欲望が出てきます。それで周囲のお友達に読んでもらいますと、その中の一人が「あなた、これは新聞に載せた方がいいわよ」って言ってくれました。私は購読していた新聞の読者コーナーに送りますと採用され掲載されました。これがまたとても励みになりまして、月に一度位、自分でテーマを決めては書き送り、掲載して頂くという生活をしておりました。そのうちに書いているだけではつまらなくなってきました。そこで指導して下さった方のアドバイスでパソコンと電話回線を繋いでパソコン通信の世界に入りました。電話腺の向うは広い広い世界で、当時、NHKラジオの土曜サロンという番組へ「私は今、初めてパソコンからFAXを送ります。これが無事届

いたら、今晩はお赤飯を炊きたい気分です。」って送りました。すると、「届いていますよ」と読んで下さり、「お赤飯炊いたの?」という反応が返ってきます。これも嬉しいことでした。

 

 私は普通の生活をしておりました時も、海外旅行が好きで何回か出掛けておりましたが、視力を失うとともにこれも捨てなきゃいけないと寂しい思いをした一つでした。が、その頃、トラベルボランティア制度のことを知り、障害者でも単独で海外旅行が出来るツアーの存在を知りました。そして、南仏のプロバンスからコルシカ島の方へ行ってきました。その後もこのシステムを度々利用して、昨年もアフリカのケニアとベルギーへ行ってきました。ケニアではバルーンに乗って、サバンナを遊覧する体験をしてまいりました。FAXはこのように使っております。

 

 それからEメールですが、私の息子がただいま家族を伴って海外勤務をしております。それでEメールを非常に便利に使わせて頂いてます。同居なさっておられる家族の方でも心の通い合わないお家があると聞くにつれ、海の向うに息子はおりますが、殆ど毎日、私にメールを寄越します。私は彼の考えていることや彼の家族の様子がよくわかりますし、彼が忙しい時はほんの1行ですが送ってきます。私も書くのがちょっと2〜3日怠けると、「どうしてる?」と聞いてくるものですからせっせと書くようにしております。また、メールフレンド、メル友がたくさんできました。旅に出てはお話する人が、メールが出来るとわかるとアドレスを交換しております。

 

 そうこうしているうちにパソコンはどんどん進歩して、今はWindows を使っています。毎朝、メールのチェックとインターネットで新聞を取り込んでいます。今一番便利に利用していることは、銀行のインターネットバンキングです。プライバシーの問題もあって通帳をどなたにでも見て頂くというわけにはいきません。今でしたら私が好きな時に、好きな範囲でログインナンバーとかログインパスワードを入力して、自分の口座の入出金明細を知ることが出来ます。これは一人暮らしをする視覚障害者にとっても、とても嬉しいことです。このように私は文明の利器の恩恵を受けて生活できる時代に障害者になったことをとっても有難いことだと感謝しております。

 

 もし、私が白い杖を持って駅とか公園でうろうろしておりましたら、どうぞ皆さんお声を掛けて下さい。そしてもし、同じ方向にお出掛けになるのだったらお手を貸して下さい。杖を探って歩いておりますと、どうしてもゆっくりになります。私は速く歩きたいんです。お手を拝借できると、思い切って大きな一歩が踏み出せます。どうぞ良かったらお声を掛けて下さい。

 

 今日は私の65才の最後の日なんです。このような日にこのようなところで皆さんにお話を聞いて頂けることが出来てとても嬉しく思っております。 

 

<説明>

[NAT=ITネットワークアシストたかおか] 市民の手で情報化を進めようと活動する高岡市の市民組織[トラベルボランティア=障害者がボランティアをする人の旅費の30%を負担して旅の間サポートするシステム]

 

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