極東ロシア

昨年は、新田次郎著の作品、主人公フランク安田の業績を応用にアラスカを旅して大変満足だった。今年は、吉村昭著の間宮林蔵の人柄に魅せられて、極東ロシアへの旅を計画したのでした。お隣の国でもありフライト時間も短く時差も少ないので、これまでの海外旅行より疲れも少ないだろうとおもっていたのです。しかし、それがそもそもの間違いだったように思えるのでした。

 

これまで訪れた国とは違って、先ず入国ビザが必要となりその手続きから旅は始まったのです。

 

9月末の木曜日に富山空港から羽田へそしてリムジンバスで成田に到着した私が一番遅い参加者だった。午後4時発のアエロフロート機に乗り込み、最初の訪問地ユジノサハリンスク、日本時代には豊原と呼ばれた所に2時間ほどのフライトで到着。国際線の空港にしては随分ひなびた静かな空港だと感じた。入国手続きを終え、荷物を受け取って、出迎えの現地ガイドと顔合わせをした。今回はこの旧樺太に滞在中案内をしてくれるガイドは女性です。バスに乗り込み、空港からその日の宿泊ホテルへ直行、先ずチェックインです。この国は、ホテルチェックインにもパスポートが必要で、チェックアウトするときには、滞在証明書なる物を発行してくれると言うこれまでとは違った形態でした。チェックイン後、部屋に入る前にこのホテルでの夕食を摂った。このサハリン旧樺太滞在中はこのホテルでの連泊だった。

 

旅の二日目は、この旧豊原市内の観光となった。どうも私は、今のロシア語の地名よりも旧日本時代に使われていた名称の方が馴染みやすく、判りやすいので日本時代の名称を使いたいと思う。

 

まず訪れた公園、今、ガガーリン公園と呼ばれているこの公園は日本時代に王子製紙の会社が作ったものらしく、池の名前も王子製紙の社長名をとっていたらしい。だが今はロシア名で呼ばれている。レーニン広場は、ロシア国内各所にあるんですね。最初の観光で感じたのは、総て日本時代に作られた施設等がそのまま使われていることだった。拓殖銀行の建物なども、今は美術館として使用されていた。

 

午後は、サハリン鉄道でドリンクス、旧落合へと出かけた。駅のホームが線路と同じ高さなので、列車からタラップのような梯子を下ろしての乗車だった。この落合にも王子製紙工場跡がしっかりと残っているのですね。

そのほか、宮沢賢治の銀河鉄道の夜にゆかりのある白樺湖や何と言ったか忘れてしまったが海岸にもよった。琥珀の粒が落ちていて、それを拾って持っていると幸せになると言う。バスのドライバーが拾った琥珀を三粒もらった。

 

三日目は、ホルムスク、旧真岡へ向かった。途中、熊笹峠に登り、間宮海峡を望んだのだった。ガイドの話ではこの間宮海峡をロシア人はタカール海峡と呼んでいるなどと説明をするので、これにこだわってやってきた私はカリカリむくれたりもした。真岡では、敗戦時、電話交換手達が「さようなら日本」と電信をした後で、服毒自殺をしたと言う郵便局もあり、外からそれを眺めた。悔しかった。

 

ユジノサハリンスク、豊原に戻り、夕食はロシア人家庭で御呼ばれだった。この家庭は30代夫婦のごく普通の家庭で、奥様手作りの料理でのもてなしだった。この件は、ブログで紹介したので、是非そちらも読んでもらいたい。

 

四日目はコルサコフ、旧大泊方面への観光だった。

ここでは、亜庭湾と呼ばれる。日本人が最初にこの地に上陸したと言う湾。コルサコフ港からここにもある王子製紙工場跡、拓殖銀行跡など見学。午後は、豊原に戻り、歴史博物館、旧豊原神社のある旭岳山にも登った。自由市場も見学して、豊原での最後の宿泊となった。

 

五日目は午前、ロシア聖教会、勝利広場などを観光した。午後は国内線での移動に備えて空港に向かった。国内線で、ウラジオストックに到着。この地のガイドと合流して市内観光となった。この地のガイドも女性だった。極東国立総合大学東洋語学部にある与謝野晶子の詩碑、ウラジオ本願寺と呼ばれる記念碑のある場所を見学した。夕食は、市内レストランでロシア音楽等を鑑賞しながらだった。声量豊かな女性の独唱やら二人での輪唱やらと生の音楽に親しめたのだった。日本の歌も日本語で何曲か歌ってくれて楽しい夕べだった。

 

六日目は、ウラジオストック市内の観光。鷲ノ巣展望台やC−56潜水艦博物館という半分が博物館で、残りがそのままの潜水艦の形で残っていた。中へも乗って見学したのだが、潜水艦員のベッドがとても小さく思えた。潜水艦に乗る人は体格の小さな人が選ばれると言うのも納得できたのでした。ニコライ凱旋門等を見学して、昼はロシア人家庭で昼食とお茶をご馳走になった。この家庭は75才の老夫婦で、農園には未だ大きなカボチャが収穫せずに転がっているなどと話す晴眼者もあった。お茶はとても香り豊かなハーブティで美味しかった。自家製のハーブをブレンドして作られているのだと言う。この家庭では家屋内を見学させてくれて、豊かな生活をしているらしい雰囲気がうかがわれた。午後は市内観光。要塞博物館は、石段が百数十段もあるような場所にあり、その昇降にもう草臥れ果てた。

 

夕食をレストランで摂った後、シベリヤ鉄道に乗るため駅に向かった。鉄道に趣味の無い私にとって、このシベリヤ鉄道オケヤン号の体験は、非常に苦しい物だった。11時間かけて、ウラジオストックからハバロスクへ移動するのだが、この11時間の体験は、もう思い出したくない体験となった。まず、4人一室のコンパートメントが並び、トイレは車輛に2か所ある。しかし、揺れる車輛の廊下を伝って、端っこにあるトイレへはとても一人で移動できず、介助者と一緒に行かねばならなかった。また、2段ベッドにはカーテンも無い状況。狭い室内で、いろいろ窮屈だった。だが、同室の晴眼者は夜明けの明星、日の出の有様を見ただけでも素晴らしくて、乗った甲斐があったと話していた。

 

かくして到着したハバロスクでホテルに立ち寄り、朝食を摂った。この地のガイドは男性で、ゴーシャと言ったかな。背丈は190cmあると言い、まことに日本語も上手で、面白い話等を聞かせてくれた。朝食後は、市内観光でアムール川展望台、栄光広場、教会等を観光。レストランで昼食後、アムール川クルーズをした。この長い黒竜江から流れてくる国境の河は、もう一か月もすれば固く凍結をすると言う。この日は天気が良くて焦げるくらい暑さを感じてしまった。川水の色は濁って、コーヒー牛乳のような色をしているとの話だった。

 

この夜の宿泊ホテルは、クラシックな感じの宿。レストランで夕食を終えて帰ると、ロビーのような所でピアノを弾いている男性がいた。通り過ぎようとする私たちの顔を見ると「四季の歌」を弾いてくれたのだった。

 

帰国日の午前もハバロスク市内を見学。昼は、レストランでこの地での最後の食事を摂った。午後は日本人墓地を訪れて、みんなで参拝した。その後、帰国の為に空港へ着いたのだった。

 

今回のロシア旅行は、これまでの海外旅行と違った経験も多く、何か晴々した気持ちになれない旅だった。

2012年10月

 

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