レインボーブリッジから富士山へ

 

例年5月に開催される日盲連全国大会が、今年は6月に東京での開催との事で、私は梅雨を気にしていた。出発の日は高岡を起点として、県内各地を回って参加者を乗せ、魚津インターから高速道路に乗った。この6月から改正道路交通法が変ったとかで、バスに乗車の私達は勿論、バスガイドもシートベルトを着用しなければならないそうだ。ガイドさんは皆さんに背中を向けてガイドをする失礼を許して欲しいとご挨拶で第一日目の移動は始まった。

 

富山県から新潟県にバスを走らせながら、沿線の説明を楽しく聞き、昨年の中越地震の後の仮説住宅の様子や新幹線が出来てから別荘代わりのマンションが多く建設されている様子など面白おかしく説明をしてくれるのだった。

新潟最後のサービスエリアでは地震の復興に寄与するように少しでもお金を落として上げて欲しいなどと言葉巧みに説明をされるので、私もコシヒカリの入ったアイスクリームを一個求めて食べたのだった。しかし、加熱でアルファー化した米をアイスにしたのでは硬くなって何もお米までアイスにする必要は無いのでは?と言うのが私の感じだった。

バスは群馬県に入り昼食はきのこ料理と言うのでかなり楽しみにしていたのだ。しかし、この食事場所は、農園でイチゴ狩、きのこ狩り、とうもろこし狩等と季節に応じた体験をさせることで観光客を集め、食事をさせてくれる場所なので、ブログにも書いたが少しも美味しくないきのこ料理だった。こんにゃく田楽のみが柔らかく美味しく思えたのでした。

バスは首都高速に入り芝浦から、本日のメインであるレインボーブリッジを歩くと言う場所に到着。橋の長さは800mらしいのだが橋に乗るまでの道のりを加えて2kmとの事だった。我々は、身体障害者ということで特別の入り口からエレベーター利用でブリッジの歩道まで運んでもらい、歩道を歩き始めたのだが歩道のすぐ傍を走る車両の多さとその音量に耳は耐え難いくらいだった。でも、海の上に出ると、風は爽やかに全身を撫で、気持ちの良い状態だった。

雨にも会わずブリッジを渡りお台場側に到着。海浜公園内にある自由の女神の前で集合写真など撮ってもらって、再びバスに乗り、宿泊ホテルの浅草へと向かった。

夕食は雷門近くの天麩羅屋での会食。そこまでの移動もバスを利用しお店の三階での食事だった。いろいろとメニューのお皿は並んだが最後に出た天麩羅のみが美味しいと思えた私でした。

第2日目これは今回の旅のメインイベントである日盲連大会への参加。渋滞に巻き込まれないようにと早めに会場である東京体育館に向かったのだった。しかし、結局これが仇となって、終了後のバスの迎えがすっかり遅くなり、大会終了後のスケジュールを少し変更しなければならない状態になった。

昼食はバスの移動中に食べ、横浜の三菱みなとみらい美術館に到着。この体験ゾーンで私はヘリコプター試乗の体験をさせてもらった。運転席に操縦操作の出来る晴眼者が座り、後部座席に見えない私が座ってヘリコプターに乗っているような感じを体験したのだが操縦者の未熟な操縦の結果は着陸に失敗と言う結果だったが楽しかった。

もっとも操縦者は音声ガイドに従うのに精一杯で、ちっともヘリコプターに乗ってる感じはしなかったとの感想だった。この日の宿泊は横浜の山下公園の前の小さなホテル。夕食は中華街で中華料理をとのことだった。中華街に出かける前に公園内の『赤い靴はいてた女の子』の像がある辺りまで散策を楽しんだ。

夕食は、円卓を囲んで中華料理を腹いっぱい味わい、この日のスケジュールは終了した。

第三日目、雨の朝になったのだがバスは一路富士山五合目に向かった。到着した頃には小ぶりとなった五合目でバスを降りたときは気温7℃とかで震え上がった。散策の予定はお土産屋さんに篭るといった情け無い状態だった。お土産屋さんで試食を薦められ貝柱の佃煮風な物を試食した時には「どうして富士山で貝柱なの?」の私の質問に山梨名産のワインで煮てあるからとの返事をもらったのでした。

富士山を降りて河口湖でほうとう料理を食べ、いよいよバスは帰途に着いたのだった。

途中、長野でこの日の最後のサクランボ狩りの畑へ。昨年の山形での温室サクランボではなくて、旬のサクランボを食べ放題と言うことで必死に食べたのだった。佐藤錦ではない種類の品でしたがとても美味しかった。

こうして今年の行事の一つも終了をしたのだ。

これまで、私を介助をしてくれた友人は、高齢を理由に引退表明をしたのでこの大会参加ツアには、もう参加できないのでは?と少々悲観をしていたのだ。でも、ヘルパー経験のある人を、見つけて介助をしてもらうことが出来た。

彼女はこの旅には初参加だったが、とても楽しい旅行だったと喜んでくれた。私にも有難いことだった。

2008年6月

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