ポーランド縦断

訪れる気の無かった国

 

今年の夏は、梅雨明け寸前から猛暑の訪れだった。

暑さの苦手な私は、この猛暑から逃れるように富山空港を後にしたのだった。北の空には積乱雲が多数発生しているので、通常とは違う名古屋、浜松、大島上空から羽田へ入ると機長アナウンスがあり、通常より少し遅れての羽田到着だった。成田へ向かうリムジンバスもシートベルトの着用を厳しく支持された。そして、何時も利用する前泊の宿に到着したのだった。

翌朝、ルフトハンザ航空機を利用してフランクフルト経由でポーランドの首都ワルシャワに入った。

出発前の案内ではワルシャワは最高気温23℃くらいで東京の6月頃の気温と聞いてそのように準備をしてきた。しかし、案に相違して気温は30℃くらい。紫外線が非常に強く、つばの広い帽子を持参しなかったことが悔やまれるのだった。

ポーランドを案内してくれるのはワルシャワ大学で、日本言語学を学んだと言う女性で、日本へも文部省の招きで3度くらい日本語を学びに来たと言う上手に日本語を話す女性だった。ワルシャワは第二次世界大戦で、旧ソ連、ドイツの間に挟まれて総てを破壊されていたそうだが、今は復元に努めていろいろと見るべき所が多く、第一日目は市内観光から始まった。

何しろ、紫外線の強い中での旧市内観光で、歴史の古い建物や旧王宮、苦手な建物、ゴシック式などと説明を受けても、私には豚に真珠の感が強くて、大変だった。

旅から帰って十日近く経ってからこの文章をかいているのだが、もう記憶があやふやになっている。広場を歩きながら、長いソフトクリームを食べたこと、4人乗りの馬車で少し移動したことなど、印象に残っていることが少ない。

そうそう、キュリー夫人の生家を訪れた時に、彼女の姉妹は優秀で一人を除いて後は皆ノーベル賞を受けている話などは羨ましくて記憶に残っている。夕方、ワジェンキ公園にある建物の中でピアノ演奏を聴いた。その途中、別室に移り、シャンパンをご馳走になり、後の演奏を続けて聴いた。後から聞いた話だが、アルコールを嗜まない私の介助者は、自分のシャンパンを私に飲ませると演奏途中で眠り込みそうだったから、私にはくれず、残してきたと言って、私を残念がらせるのだった。それほど、私が長旅と暑さに参っていたのだと思う。

ピアノの生演奏は若い女性で、ちゃんと私は聞いていたのだけど、そのような印象を与えるほど、私はグロッキーになって見えたようだ。

曲名はショパンのマズルカ、ポロネーズ、ワルツが三曲エチュード、プレリュード、まだ少しあったけれど、生演奏の素晴らしさだけが記憶に残っている。

この日の観光で訪れたミュウジアムは、戦争に関するポーランドの蜂起部隊の戦った様子の残る記念碑で、この国の置かれた立場が理解されて残されたもので、若い戦争を知らない世代の学生たちが大勢、訪れているのが印象的だった。このように、国の為に戦った蜂起部隊のあったことは、しっかりと若い世代に伝えるべきなんだなと感じたのだった。

この日の王宮見学の際に、ツア参加者の一人が階段を踏み外し、膝の下辺りを縦に切り、出血がひどく、ホテルへ医師の往診を頼むと言うアクシデントがあった。薬と注射、冷やすことで応急処置をして、翌朝も往診に来た医師は、次の移動地で、病院での診察を受けるようにとの指示だった。

前回のモロッコへの旅では、腹痛で往診を頼むと言ったアクシデントもあり、無事に過ごせることを感謝するのみである。

ポーランド第二日目は移動の日となった。ワルシャワから約200キロ。途中トイレ休憩等入れながらトルンへ向かった。午後到着したトルンでは旧庁舎跡やコペルニクスの生家、教会、ドイツ騎士団跡地等、暑い中を観光し、ガイドが薦めてくれたしょうがのクッキーをお土産にと求めた。

 

第三日目も移動の日だった。トルンからマルボルクのお城を経過して、グダンスクへ入ったのだが、マルボルクのお城も美しいお城だった。グダンスクでは旧市内の賑やかな広場などでコハクを研磨するお店などを見て回り、後、世界大戦勃発の地となったベステルプラッテを歩いて訪れた。ここは岬だった。この日、ここまで案内してくれたアリチャという女性ガイドとバスとは別れたのである。

 

第四日目は国内線を使っての移動。朝4時半にはホテルのロビーでお弁当の朝食を摂り、飛行機でワルシャワへ戻り、乗り換えてクラクフへ入った。ここからは又違ったポーランド人の女性ガイドとバス運転手であった。

今度の運転手は、バスの降車に必ず手を貸してくれて、英国紳士のようだった。このクラクフのヴィエリチカ岩塩地下採掘場のことは、出発前に世界遺産シリーズの番組を見て予備知識を持っていたので、まことに興味深く見学することが出来た。求めて来た岩塩は、おにぎりにすると美味しいよと言われた。まさしく美味しい岩塩で、差し上げた人も、その自然のまろやかな味を褒めてくれたのだった。この大きな採掘場の見学の後、遅めの昼食をレストランで摂ったのだ。昼食の間に大きなスコールのような雨があったが、食事を終える頃には上がり、一層暑い日になった。午後、クラクフ市内観光でバベル城、これは水に映る美しいお城で、後、中央市場広場や教会なども観光した。夜は市内のレストランで民族音楽等を聴きながら楽しんだのだった。

ここではなかったが、この国の民謡「森へ行きましょう、娘さん ラララ」と私などにも聞き覚えのある歌を日本語で歌ってくれる合唱団もあって、一緒に楽しく口ずさむこともあった。

 

第五日目、私が行くのをたじろいだアウシュビッツへ出かける日になった。60キロばかりの移動だった。この世界遺産になっている記念館について、館内の説明などを受けた。大勢の観光客で、あらゆる国からバスを連ねて来館していたが、どのような思いを抱いていったのだろうかとしみじみ感じた。おろかな戦争は再びしてはいけないと思いながら、今も又、地球上で争いが起こっている。ビルケナウ博物館はアウシュビッツより大型の収容所跡地で、『死の門』働けば自由になるという門を潜ると錆びた鉄条網が張られ、処刑場などのあった様子が偲ばれる広い広い場所だった

午後は、カルヴェリア・ゼブジドフスカと言う寺院の見学。その後、中央市場広場に出かけて、最後の買い物をすることになった。何しろ、今回の旅のお小遣いとして日本円で約2万円を現地のお金に換えて持参したのだが、殆ど使っていず、これを又、日本円に換えては、手数料ばかり取られるので、何か買わねばなるまいと焦ったのである。この国はコハクが有名だとは聞いてきたが、全く興味の無かった私も、残金で、コハクで出来たブレスレットを記念に求めることにした。この年まで、ブレスレットなるものは身に着けたことが無い。その私に、ツア仲間が選んでくれた品は、帰宅して身に着けていると、その種の物に関心のある人は褒めてくれるのもだった。72才にして始めてブレスレットなる物を身に着けたのだった。このようにして持参したお小遣いも、無事使い果たし、翌日帰国の途についたのである。

 

乗り継ぎ地点のフランクフルトから成田へ向かうルフトハンザ航空機の中でのひもじい思いをしたことはブログに書いたので省略をする。

 

ポーランド国内での食事は美味しかった。肉類も柔らかく魚料理もムニエル風や煮魚等、口に合い野菜は馬鈴薯が必ず形を変えて登場した。きのこ類も豊富らしく、この種の味のスープも美味しかった。スープの中に、細い素麺のようなヌードルの入ったものも美味しかった。ポーランド風餃子と言うお皿も並んだが、6個の種類の違った中身の餃子も私は2個を食べるのが精一杯で、今になるとまことに残念である。

平和な日本から、私のような立場の者が、このように自由に旅の出来ることを本当に有難いと思う。折りしも、8月、あの世界大戦も経験しながらも、現在の平和を享受できることに感謝あるのみである。全く訪れる気の無かったこの国へ、誘われるままに参加をして、疲れはしたが、又何かを得ることの出来たことは重ね重ね、有難いことだった。

2008年8月

 

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