京都・城之崎方面

 

新型インフルエンザの影響で、今回の京都方面への旅は、出発直前まで、実行されるのかどうか不安なものだった。何の連絡も無かったので、実行となった。

 

さて、東方面へのバス旅行の時は高岡が起点となるので、バスの座席は自分で選ぶことが出来た。だが今回のように西へ向かう場合、高岡で乗車する私は、残った最後部の右端の座席となった。選ぶ余地は全く無い。まあ最後部などに座ったことの無い私。後ろの座席に気兼ねをすることなくリクライニングを使えるという利点があることに気が付き、それを満喫することにしたのでした。ものは考えようですね。

 

乗車してから約4時間、バスガイドの歴史に関する薀蓄に耳を傾けながら京都に入った。

 

昼は大徳寺の門前で鉄鉢料理、托鉢僧等がお布施を入れてもらうために持ち歩く鉄鉢を真似て作られた器に盛られた精進料理、食べ終えるとそれを重ねて一つに出来るという料理だった。それから鞍馬山にある鞍馬寺参詣へとバスは進み、ケーブルカーに乗り換えて山道を歩くことになった。ガイドの話では150段の階段があるとの説明だったが、その階段に達するまでにも結構段差のある道が続いていたので200段は昇ったような感覚だった。足の弱い人は途中で戻ったり、ケーブルカー駅で休んだりの状況だったようだ。しかし、私は諦めることなく昇りきった。当日は暑い日だったが流石に牛若丸が修行を重ねたお山、樹木もうっそうと涼しい風をもたらせてくれる鞍馬寺参詣だった。

 

参詣を終えて、今度は清水寺へ。「あの清水の舞台から飛び降りる気持ちで」とうたわれる場所。流石に観光客が多い、と私は感じたのだが、バスガイドの話では、バスの駐車場はいつもより空いていたとの事、姦しい新型インフルエンザ報道で旅をキャンセルした人が多かった影響と思えるのだった。

 

こうして旅の第一日目は終わり宿に入った。この日の私の万歩計は12000歩ほどを記録していた。宿では京料理を頂戴したのだが、印象として残っているのは大き目のさいころ状に切って焼いてあったステーキ肉が柔らかくて美味しかったなという感じだった。

 

中日、この旅のメインである日盲連全国大会の開かれる国立京都国際会館へ出かけるわけだが、その前に京の五条大橋にある牛若丸と弁慶の像のある所から松原橋に向かって少し歩いたのだった。夏、よく聞く川床料理を食べる場所等が見えるとの説明だった。京都国際会館というのは流石に立派な施設。バスで到着をすると、いつの間にか館内に入っているという感じのバリヤフリーになっていた。ボランティアも多く、至れり尽くせりと思える会場だった。開催されるまでに、お琴や尺八の生演奏なども舞台の上で演じられていた。

 

主催者が一週間前に開いた実行委員会で今回の開催を決定して、非常に心配でドキドキの日を過ごしたと話される気持ちは痛いほど理解できた。参加者である我々も参加が出来るかどうか中止の案内が何時来るかヒヤヒヤしながら待ったことを思い出す。

 

大会終了後は伏見にある黄桜 かっぱ カントリーで、地酒や地ビールなどの飲めるレストランでの昼食だった。私も何種類か出された地ビールを少々、口にして、その味、香りの違いを味わった。お料理は松花堂弁当のような器に入った弁当だった。

 

昼食後、バスは城之崎温泉へ向かって走り、その日の宿に午後6時頃到着をした。この温泉は外湯巡りが7箇所ほど出来るといわれるせいか、旅館の内風呂には力を注いでいないのでは?と思える節があると私は感じた。ブログの方にボヤキを書いているので、多くは言いたくないが、階段は昭和初期の民家のような急勾配、勿論エレベーターなど備えていない老舗の温泉旅館。この種の旧さを好む人には懐かしい建物なのだろう。しかし、私は2度と内湯に入る気はなくなった。しかし、このまま城之崎を去るのも心残りと感じた私は、早朝、宿の下駄を借りて、足湯のある場所までカランコロンと歩いて城之崎らしい雰囲気を楽しんで来た。

 

最終日、天下の天橋立を訪れ、一応逆さ風景などを見る体系を体験した。

 

帰路に着いたバス。昼は小浜で海鮮丼、熱い味噌汁がいよいよ北陸に入った感じを味わわせてくれるのだった。

 

その頃追いかけるように雨雲がやってきて、ポツポツと小さな雨を降らせたのだが、舞鶴に来た頃は、振り切った感じで天候には恵まれた旅だったように思う。舞鶴の「ひきあげ記念館」では、悲惨だったシベリヤ抑留者の解説に感嘆の声を発する人の様子を聞いていて、私は時代の差を感じてしまった。私の世代では、あの頃の抑留者の体験を書いたものを数多く読んでいるので少しも真新しい見聞ではない。しかし、始めて聞く悲惨な様子に声を出されている人を見て、次代の流れを感じてしまうのだった。

 

こうして今年も二泊三日の日盲連全国大会をメインに組まれた旅はつつがなく終わったのだった。来年は秋田で開催されると言うことを知り、又元気に来年も参加が出来ればいいな!の願いを持ったのだった。

2009年5月

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