十五の春

受験

サーズ流行が世間を騒がせていた昨年3月、息子一家が6年間の海外勤務を終えて帰国した。高校受験を間近に控えた中学3年生になる長女のため、息子は単身赴任を覚悟で家族を日本へ帰す予定にしていたのだが、彼自身も日本へ帰れることになり、一家は無事に揃って帰国し、東京に戻った。それから1年間彼女は公立の中学に編入し、塾通いをして、今年無事に第一志望の高校に合格が決まった。この1年間の彼ら一家の受験準備を漏れ聞く私は遥か彼方になった息子の受験期のことを懐かしく思い出した。

暢気物夫婦の息子に生まれた彼は親以上にのん気で競争心と言うものを持ち合わせていないのでは無いかと思える子供だった。中学2年生の時の担任教師から私は息子ののんびり振りを、バスケットをしている時でも「ああ、君はシュートがしたいのかい。じゃあやりたまえ」と言った様に体をすかす子だと言われた。その彼も中学3年の2学期には流石に周囲の雰囲気に呑まれたのか少しは勉強をしてくれて親達の望む高校を受験する許可を中学の担任教師から貰った。今はどうなのか知らないがあの頃は本人の希望より中学側の進路指導が行き届き、その助言に従うのが普通だった。彼が本命の高校以外に度胸試しとして隣県の高専を受験した。その合格発表のあと、中学側から、一応親子面接を受けてきて欲しいと言われ、私と息子はその高専の面接を受けに出かけた。面接室に顔を揃えていた3・4人の先生方の前に座った時緊張している私たち母子に、白髪の一人の先生が「オオ、受験番号が100番ですか、これは気持ちの良い番号ですね。」と話し掛けてくれこの成績だと志望の学校は大丈夫ですよ。と言って下さった。「こんな所に来ている時間に漢字の一つも覚えた方がいいですよ」と国語の苦手な息子に言ってくださった。不安な気持ちで過ごしていた私にはその言葉がとても嬉しく身にしみたのだった。

そして本命の学校の合格発表の日、合格の知らせを受けた時に私の目から涙が溢れた。嬉しくて涙が出るのだと言うことを後にも先にも始めて経験した。

今となってはどうと言うことも無いのだが当時の私たちは受験と言う言葉に一喜一憂する若い両親だった。

努力の甲斐あって第一志望校への望みを果たした彼女にも又次の新たな目的があるだろうと思う。これに向かって前進を続けて欲しい。

2004年3月

 

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