後日談

 

後日談1

「なーんとかなるさ」のお国柄のギリシアへのツア参加者の中で会話を交わした数少ない中に、高知から参加したH君がいた。彼はどうやら40代後半と思しき男性だったが、私が富山から参加をしたことを知ると「T氏を知っていますか?」と問い掛けられた。T氏と言うのは富山の視覚障害者協会長を20年くらい務めた方で、私が視覚障害者の仲間入りをした頃の会長で何か会合がある毎に開会の辞などを述べられるのでぼんやりの私でもその名はよく存じ上げていた。そこで「よく知っています」と答えるとH君は「自分が子供の頃、同じ病院に入院していて親切にしてもらい、時にはお手紙も貰ったが、子供のこととてお返事を出さなかった。それがとても心にひっかかっているので、お会いになる機会があったら、宜しく伝えて欲しい」と言われた。

この言葉を忘れないうちにお伝えしなければと私はT氏の電話番号を調べて旅から帰って間の無い頃お電話をした。

80才を超えていらっしゃるT氏は私の言葉に非常に喜ばれ「覚えていてくれましたか」とそれは懐かしそうにH君の幼い頃の話をして下さるのだった。H君はとても「キカンボー」で同じ部屋のT氏に思うようにならないと、噛み付く坊やだったそうである。「いいえ、今はとても穏やかなおじさんにおなりですよ」と私は彼の印象をお伝えした。

その後、T氏の奥様からH君の電話番号が分かったら教えて欲しいとの電話を貰った。是非彼の声が聞きたいとのことで、私はそれをお知らせした。老夫婦の会話で昔のことをよく思い出して話し合うんですよ、と奥様はおっしゃっていたが、お二人に懐かしい話題を提供出来た私も嬉しかった。

2004年5月

 

後日談2

ITフォーラム2004」の会で意見発表をして欲しいという依頼が舞い込んだ。私は人生の殆どを社会訓練など受けずにぬるま湯のような家庭で過ごした者なので、人前で話をするなどと言うことはとんでもないことのように思っている。それがひょんな事から2年前に生まれて始めて70名くらいの会合で話をするという機会を与えられた。固辞したがどうしてもとお世話になっている人から懇望されると、それを、跳ね返すほどの強い意思表示も出来ず、ついに引き受けることになった。その時はどうやら無事に話し終えることが出来、その評判が割りと良くて、その後その種のお話をして欲しいとの依頼が2・3度来たが総てお断りした。

息子が「最初が上手くできたからと言って、2度目は周囲も自分もそれ以上を期待する。そうすると必ず2度目は失敗をするものだから、仕事ならばそれを乗り越えねばならないが、あんたは仕事でないのだから、もう、やめなさい」と言ってくれたし、私もその準備にかなり神経を使い1度だけの思い出としてしまって置くつもりだった。

それが今回の依頼も断りきれない人からの依頼で、つい引き受けてしまった。

 

今回も息子に話してみると「呆け防止に行って来たら」と前回とは違ったことを言う。人の気持ちは変わるものだと言うことをしみじみ感じさせられることだった。

かくして、私は又指定された時間内に収まるように話を組み立てねばならなかった。晴眼者なら時計をチラチラ見ながら原稿を読めばいいのだろうが、私はそれが出来ない。先ず内容を組み立て、実際に声を出してどの位の時間がかかるかを調べ、余った時間を満たすために何処をどの位膨らませるかを考えねばならない。これが大変なのである。でも、どうやら指定された時間内に収めて当日を迎えた。

前回は私一人の話だったが今回は発表する分科会には5人の人が居る。それも皆さん行政の管理者や企業の経営者などと肩書きのある人ばかり、何も肩書きを持たないのは私一人である。

皆さんのお話は堂に入り、慣れて数字や難しい言葉などあげて悠々と話された。それに引き換え私は幼稚なことしか言えないので場違いな所に迷い込んでとんちんかんなことを言っているようでまことに恥ずかしい。でも、どうやら無事に話し終えることが出来、「良かったですよ」と言ってくださる方もありほっとした。息子に言わせると褒めてくださるのはお世辞と言うものだと私を決め付ける。

私もお世辞が八割と思っているので大きな失敗をしなかったことで満足している。

矢張りこの手の人前で話すということは遠慮をしたいと願っている。

 

2004年6月

 

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