ギリシア
居眠り旅行
久しぶりに顔を合わせると「今度はどちらへ?」の言葉を挨拶代わりに言われる、つい、「ギリシアです。」と正直に答えると「紀行文、楽しみにしてます。」と言われ、気の小さい私は、少なからぬプレッシャーを感じるのである。今までは気ままに、思いつくまま自由に自分の記憶として書きとめてきたものを柄にも無くホームページなどにアップをしたおかげで、覗いてくださる人があり、先のような会話となり、私は穴があったら入りたい心境になっている。
このような気持ちで機中の人となった私は12時間近いフライトの後フランクフルトに到着した。ここからギリシアのオリンピック航空に乗り換えアテネへと向かった。
20年あまり前にリスボンへ飛んだときもフランクフルトで乗り換え、小さな飛行機で飛んだ。ジャンボ機で飛ぶ時は、周囲には大抵ツア参加者か日本人が多いのだが、このような小型の飛行機になると、横の座席には外人さんがいたりする。今回もそうだった。声の調子からすると中年のおじさんのように感じられる。白い杖を持っているので私の目が不自由とのことが分かるらしく、まことに親切に手伝ってくださる。
機内食を食べているとお味はどうかと言うようなことを言ってくれるのだが私は返事が出来ない。
そこで思い切って何処の国の方ですかと尋ねると、今度は英語で英語が話せますか?と聞かれた。私の英語は半世紀近い昔、第二次大戦終了後のドサクサ時代に一応8年間英語教育は受けたが、全く会話は習っていない。ただ、視力の弱いせいか耳は割りとしっかりと聞くので、中学時代の英語教師はヒヤリングが上手いとお世辞を言ってくれたくらいで話す方は全く出来ない。
そこで少しと謙虚に答え、彼の聞く問いに、答えられる範囲で単語を並べて会話?を楽しんだ。彼はドイツ人で、発音など私たちは「アテネ」と言うが「アチニ」と言う風に聞えるので自己流に解釈をした。トレーの上に食器を戻したりすると上手に置けたと言うようなことを言ってくれる。
私は40年近く「俺はレディファーストの国など絶対行かないぞ」と言う亭主と過ごしたので、優しい言葉や態度で接してくれる男性には滅法弱い。こうして2時間半位、共に過ごした彼と別れるときには握手を交わし、バーイを繰り返してアテネ入りをした。
アテネは思ったより涼しく、緯度が新潟と同じくらいと聞き、納得が行った。
ホテルへ向かうバスの中で、今度の旅の案内をしてくれるガイドの説明を聞き、この国ではトイレットペーパーは水に溶けない物を使用するので、用済みのペーパーは必ずゴミ箱に入れ水に流さないようにとの注意を受けた。これはなかなか難しいことで、つい、うっかりと水に落とし、拾い上げることもならず、ごめんなさいを言いながら2度くらい水に流した。翌日からアテネの観光が始まった。アクロポリスの遺跡、ゼウスの神殿、音楽堂などを見学した。
触って良いと言う物には、台の上に乗って早く触れろと促された。あわてて台に乗った瞬間、右目に何か強い衝撃を受け一瞬声も出ないくらいだった。私の大切な光覚の残っている目への衝撃で、気がつくと眼鏡のつるの付け根のばねは緩み、うつむけば落ちそうになるし、反対側のつるは耳の後ろに強く当たり痛い。眼鏡が変形してしまったのだった。レンズが割れなかったのが不幸中の幸いと、自分に言聞かせ、夜以外はサングラスをつけて過ごすことにした。これが今度の旅のケチのつき始めだった。
初日の夜はレストランで音楽と踊りを楽しんだ。私は下手の横好きでフォークダンスを少し踊ったことがあり、ギリシアのアルコスハサビコスのステップは今でも踏むことが出来るので、一度は踊ってみたい気持ちだったが、それはかなわなかった。
次の日はエーゲ海のクルーズだった。大きな船でそれぞれ特色のある島巡りをした。ヨーロッパ人は蛸を食べない習慣と言うが此島の一つで蛸の炭焼きが売られていて私は買って食べてみた。蛸の頭巾のあたりを2センチ弱位にカットしてありレモンを絞って食べたが美味しかった。
次の日は移動日でアテネからデルフィ迄バスで走った。この辺りから今回の私の旅は、朦朧としてどうなったのか記憶になくなるのだった。20数年前くらいに経験した膀胱炎に似た症状があり、それがどんどん強く表れ始め、どんどん症状が重くなるのが分かった。
その夜は旅先の移動中のことでどうすれば言いかと悩み、翌朝ガイドに薬屋は無いかと聞き、彼女が次の宿泊地で薬を求めて来てくれた時はほっとした。
この薬は非常によく効き朝晩飲む内に、症状は落ち着き、旅を続けることが出来た。だが夜、ベッドの上で眠れない反面、移動のバスの中で居眠りばかりをすることとなった。バスが止まり降りるように言われ、はっと気がつきアポロの神殿や博物館などを見学するのだが神殿などの遺跡は歩くことが多い。石でごろごろのアップダウンの多い道を歩き説明を聞く。そして又バスで移動。バスの中はガイドの名調子のギリシア神話の話がどうやら私には子守唄のようになって意識が遠のく。これの繰り返しだった。
この夜はオリンピアに宿泊した。
翌朝はオリンピア発祥の地の観光でゼウスの神殿、オリンピックの盛火の点火されるヘラ神殿などを見学してミストラを経由、ビザンチン、スパルタの遺跡など観光してその夜はスパルタに宿泊した。
次の日はスパルタからミケネへ移動、観光後コリントに観光を続けながら到着した。そして翌日は再びアテネに戻りギリシアの旅は終わった。
朦朧とした意識の中でどの街だったか忘れたが地球の「へそ」と言われる場所と富山の利賀村が姉妹都市とかポロリポロリと記憶は散発的に残っている。食べ物も美味しくヨーグルトの美味しさやトマトに米を詰めて焼いたものなども私の口に合った。以前フランスを旅した時は「慌てず、焦らず、諦めず」が国民性と聞いたがギリシア人は「何とかなるさ」が国民性でバスなどの乗り物には時刻表が無いのだと言う。ギリシアはおおらかな国民性でオリンピックの施設の工事も、何とかなるさ、で遅れているのだろう。
2004年5月