ブルガリア・ルーマニア

「アクシデントの多かった旅」

今年の異常気象のせいで、中ヨーロッパが45℃の気温が続き熱中症で倒れる人が多いと聞いたのは、私が旅の申し込みを済ませた後だった。暑さに弱くて、暑い所へは行きたくない身だが、介助者を探してもらう都合上、早目の旅の申し込みをする私にとっては、気の重いニュースだった。今更、キャンセルもならず、出発の日を迎えた。

重い気持ちで、先ず、富山空港の搭乗カウンターに到着をすると、この係員が「○○様ですね。お待ちしていました」と言って下さる。カウンターがそんなに込んで居なかったせいもあるのだろうが、向こうから名前を呼ばれて、このような挨拶を今まで受けたことの無い私はなんだかVIP扱いを受けたような気分で少し面映かった。

羽田から成田へのリムジンバスに乗せてもらう時にも、丁度成田の第一ターミナルへ行く用事のあると言う全日空の職員が座席の横に座ってくれていろいろとお世話をしてくれた。

 

いよいよ出発の朝になり、オーストリア航空機に乗り込んだ。機内の座席はグリーンで客室乗務員のユニフォームは赤だと言う。神社の鳥居のような赤だと教えてもらい、女性客室乗務員はミニのスカートにストッキング、靴までも同色だと言う。ちょっと華やいだ雰囲気のようである。

約12時間のフライトの後、乗り継ぎ地のウイーンに到着。目的地のブルガリアのソフィアへの便までかなりの待機時間があった。ここはさすが、音楽の都、BGMにはクラシックの聞きなれた音楽が流れている。そして乗り換え1時間半くらいでソフィアに着いた。ところが一行の中の荷物が一個到着をしなかった。以前南フランスへ旅した時にも、ニースへ3個の鞄が到着しないと言うことがあったが、このようなトラブルはまま起きるらしい。その到着しない荷物の手続きで手間取り、ホテルに入ったのはやはり深夜だった。

 

翌日からソフィアの観光が始まったが、案内してくれるのはソフィア大学日本言語学科で日本語を勉強したと言うブルガリア人。この三年間で30キロ体重が増えたと言う彼は、琴欧州に似た人だという。日本語は上手かった。

 

ソフィア市内の観光でアレクサンダル・ネフスキー寺院や教会など見学をしたのであるが、階段の昇降が多く、気温も高いので私はバテ気味。昼食を終えた後、地下鉄乗車などの経験もしたのだが地下鉄利用の人も少ない静かな地下鉄だったと思う。何しろ少し掘るとすぐに遺跡が出てくる国だとのお話しだった。

夜は民俗音楽を聴きながら、ラムの料理を楽しむことになっていたが、私はもう、一刻も早く休みたい心境だった。民俗音楽の中にはフォークダンスで馴染んだ曲も混じってはいたが、とても一緒にステップを踏める気分では無かった。

 

翌日は、ソフィア郊外を観光して世界最古の町と言われるプロヴディフに向かった。先ずリラの僧院、世界文化遺産に登録されている大きな僧院を見学した。非常に大きな建物で、多くの観光客が溢れていたが、トイレなどの施設は少なく時間がかかるのだった。

途中で昼食をしたレストランのメニューは、鱒を焼いてあったが、身はバサバサして、私にはとても美味しいとは思えない代物だった。

そして着いたプロヴディフの町は、石畳の多い風情のある町で、歩いているとガイドブックを手にした観光客が「コンニチハ」と日本語で話しかけてくる。イタリヤ人だという。日本語を一人で学んだと話して、東京をトウケイと発音する。日本へは来年行きたいとの希望を述べていた。本当に一人で旅を楽しんでいる様子が伺える人だった。

この石畳の多い坂道を、歩いたせいか、その夜、私は足の痛みで目が覚めるほどだった。通常こぶら返りは、ふくらはぎになるのだが、今回は土踏まずから前の指辺りに傷みの来るものだった。石畳をしっかり踏みしめたせいだったのだろう。

 

ブルガリア最後の日になるこの日は、バラの谷といわれるカザンラクに向かった。世界のバラのエッセンシャルオイルの7割を生産すると言うこの地で、バラの博物館、工房等を見学してバラのジャムなども試食したが美味しいけれど、このような重いものは買えない。ポプリを数個求めるに留めた。ここからヴィリコ・タルノヴォという世界最初の国会が開かれた町を回って国境の町ルセへ入った。ルーマニアとの境はドナウ河である。渋滞でバスはなかなか進まない。ようやくルーマニアへの入国手続きを終えてブカレストへ向かった。ブカレストのホテルは、新しく、部屋にはパソコンも備えてあった。この夜の食事は、ホテル内のレストランだったがカマスの料理がやっと美味しく思えた。レストラン内の他の客は男性が多くて、日本で言えば男性の会合の後の二次会と言った雰囲気の場所だった。

 

翌日からブカレスト市内の観光が始まったがこの国では、ブカレスト大学から弘前大学へ日本語研修に2年行ってきたと言う女性ガイドになった。日本語研修にどうして東北の大学へ??と思ったのだが、学校同士の提携があるのだろう。彼女の日本語は別にズーズー弁では無かった!!

 

市内観光で先ず、農村博物館と言う広い敷地内に散らばるドブルシヤ地方の茅葺や木で作られた農家の様子、木ばかりで作られた水車、ワインの貯蔵庫等を見て回ったのだった。フリーマーケットのようにあらゆる品を並べて売っているのも楽しく、民族衣装を着た可愛い人形、手の平に入るくらいの小さな画面に絵を書いて売っているおじさん、木で出来たピッコロ等、つい私もこまごました買い物を楽しんだのだった。

そこから、この地の地下鉄に乗ったのだが、ここはソフィアの地下鉄と違って、利用客も多くて混雑をしていた。このルーマニアに入ってからは、気温も下がり過ごしやすく、その夜の民族音楽を楽しみながら食事をした場所も、屋根はあるが吹き抜けの風の通るレストランだった。

 

ルーマニア第2日目は、独裁者チャウシェスク大統領が建設を試みた現代の巨大な宮殿。これは、世界で二番目に大きな建物だと言う、3100余りの部屋を有する建造物の見学をした。階段の高さもこの独裁者の足の長さに合わせて作られたと言うが、彼はこの完成を待たずに処刑されたという。バルコニーではマイケルジャクソンが立ってブカレストをブタペストと間違えて話した等との逸話を聞いたが、4キロ先までも見通せるバルコニーだった。外からもこの巨大な建造物を眺めたのだった。この日は、大司教教会も訪れる予定だったが前日にこの大司教が亡くなられたとかでこれは実現しなかった。

 

ルーマニア最後の日は、この旅で初めて小雨が降った。ブラショフに移動してブラン城の観光。この城は、ドラキュラの居城のモデルになったお城で、売っているお土産品などもドラキュラに関する物が多かったように思う。14世紀に建てられたと言うこの城は、相変わらず急な螺旋階段が多かった。

ここからの帰途、トゥンパ自然公園などを見ながらブカレストに戻ったのだった。

 

そして帰途についた日、ブカレスト空港で、搭乗手続きも済ませ、ウイーンへのゲイトで待っていると、ウイーンから成田へ帰る便が、休航になったとの知らせがあった。それではどうやって日本へ帰ることになるのだろうと一瞬、戸惑ったのだが、これは自分で出来ることでは無い。オーストリア航空会社が考えてくれることと割り切って、結論の出るのを待った。

約3時間ばかりの待機の後、ウイーンからフランクフルトに飛び、そこから出る全日空機で成田へと決ったと知らされた

人生、何時、どんなアクシデントに見舞われるか分からないとの気持ちを強く感じた。この待機中にサンドイッチと飲み物の提供があった。それが、実に大きなパンにハムとチーズ、胡瓜がはさんであり、とても食べきれないとは思った。だが、今後どのような事態に陥っても大丈夫なようにと、我慢して食べたのだった。

思いがけずフランクフルト空港から全日空の飛行機に乗った時には、本当に嬉しかった。とりわけ私の座席は足の伸ばせる広い座席、出てくる飲み物もお代わりは?と聞いてくださる日本語の通用する世界。しみじみと日本のサービスの良さを感じたのだった。

 

今度の旅は、出発前から気持ちの重くなるようなニュースを聞いたり訪れた場所が少し遅れた社会のように感じられる場所だったりで、トイレなどにも従来の旅のようには接しられない遅れを多々感じさせられ、食べ物も私の口には合わないように思った。印象に残っているのはルーマニアで食した茄子のサラダ。茄子をペースト状にして玉葱の細かく切った物を混ぜてあり、これをトウモロコシの粉で作った物の上に乗せて食べたのがちょっと変わっていたなぁの印象がある。今回の旅は「終わり良ければすべて良し」で締めくくりたいと思う。

2007年8月

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