バルト

同窓会旅行?

 

この春のギリシアへの旅以来、健康にはすっかり自信を失っている中でのバルト三国への旅となった。バルト三国と言うと即座に国名を挙げられる人は少なく、私自身も、リトアニア以外はラトヴィアとエストニアがごっちゃになって、どっちが上でどっちが下の方だったか分からなかった。でも国名はよくフォークダンスに出てくるので何となく馴染みがあり、白夜に近く涼しい国に憧れての旅立ちとなった。

直行便が無いのでスカンジナビア航空機でコペンハーゲンに約12時間のフライトの後乗り換えて先ず、エストニアの首都タリンにはいった。この三国はソビエト連邦が崩壊して後に独立がかなった国なので独立国としては若く長い間の占領から開放されて今、愛国心が燃え上がっている所だと言う。

エストニアを案内してくれた日本女性のガイドの話によると、インターネットが進んでいて銀行などは24時間、お金の出し入れが出来、手数料もいらないそうである。この国の通貨はクローン、次に訪れるエストニアはラッツ、リトアニアはリタスと私は混乱を起こしそうなので今回の介助者と同じ額のユーロを換金して彼女に会計は預けることにした。これは正解でコインなどの区別などに神経を使わずに済ませることが出来た。

とにかくこの国の人たちはサービスをすると言うことがどんなことか分かっていない等との説明を受けて観光に回った。国自体も日本の九州位の大きさで車での移動が殆どのようだった。音楽の好きなお国柄で5年に一度位、大きな音楽祭があり大勢が集まる。

旧市庁舎など市内観光で歩く石畳なども世界遺産に指定されている中を歩いた。広場にある池なども冬は−20度Cくらいまで凍るので子供をソリに乗せて父親が曳いて遊ぶなどの話を聞き、暗く寒い冬が忍ばれる。ニコラス教会、城壁、要塞などが今は商店として利用されている話など聞きた。

午後は野外博物館を訪れたがここには17世紀から20世紀初めに作られた木造建築物や生活用品が集められている博物館だった。夜は民俗音楽やダンスを楽しみながらレストランで食事をした。

次の日はバスで夏の首都と言われるパルヌを経てラトヴィアに入った。国境で入国の手続と両替をしてツェーセスでアーライシ湖の古城要塞を見学し、スイグルダに入り、トゥライダ城、グートマニア洞窟を見学した。

このラトヴィアの案内はラトヴィア人の女子大生だったが彼女の日本語はまことに怪しくこちらで翻訳しなければならない点も多くて一生懸命、洞窟にまつわる伝説などもしてくれるのだが「アー」「エー」の言葉が非常に多くてガイドとしてはもう少し勉強をしてもらいたい。

ここではロープウエイに乗りボブスレイも体験する予定だったが天候が悪くてボブスレイの通路を少しだけ歩くと言うことで終わった。

そしてラトヴィアの首都リーガに着いた。翌日は終日リーガの市内観光で聖ヨハネ教会、ブラックヘッドのギルト等世界遺産に指定された建造物の説明をガイドは熱心にしてくれたがアールヌーボー、バロック様式と説明されても、残念ながら私にはよく理解できない。

午後は夏の風物詩と言われるダウガヴァル川を遊覧船で回りながら船の中でガイドからラトヴィアの言葉の特訓を受けたがとても覚えられない。

それから民族野外建築物博物館を見学。広い敷地にそれぞれの地方の木造建築物を集めてあった。夏の季節に使うキッチンと厳しい冬のそれとはおのずから住まいの様式も違ってくるらしい。

次の日はリーガより移動してルンダーレ宮殿を見学した。この宮殿などは占領中、半分は小麦の貯蔵庫、半分は学校として使用されていたとのことで中の装飾品などは何も無くなっているのでぼちぼち修理がされている様子だった。

ここから又陸路バスでリトアニアに向かい入国の手続、両替をして、リトアニア共和国シャウレイに入った。この国を案内してくれたのは41才のリトアニア人で、大学で週2回日本史の講義を持つと言う大学助教授で話すことを職業にしていると言うだけあって非常に分かりやすいガイド振りだった。

リトアニアと言うのは雨の降る国という意味で人口は約400万人他の二国と違って占領される前は大公が支配する国だったこと、言語はインドの種族の一つが移住したのが始まりなのでサンスクリスト語が元になっている等と説明を受けると鈍な私でも納得がいくのだった。

この国で最初に訪れたのは十字架の丘だった。最初はこの国がソビエトなどに氾濫をした人やシベリヤに流された人の霊を悼むために作られた十字架だったが今は願い事があると十字架を持参して、家族で祈るので希望の丘として賑わっていた。沢山の十字架、大小さまざまで、日本の神社の絵馬のように、大きな十字架に沢山の小さな十字架などがかかっていた。

午後バルト海に伸びた半島を訪ねた。今はリゾート地としてドイツ人やポーランド人が沢山遊びに来る大小さまざまな砂丘のある半島でネリンダと呼ばれる町だった。砂丘を歩いたが、これは砂粒が非常に細かく歩くと体重の分だけ沈むので、私などは膝近くまで砂の中にのめりこみ、水中ウオーキングならぬ砂中ウオーキングのようになった。

ここではバルト海の水にも触り、丸や三角の形をした石を拾って持ち帰る人も多かった。ここを訪れたのは夜の9時頃、ここから宿泊ホテルへ戻る時に夕日がとても奇麗に見えるとバスの中ではその美しさの話で盛り上がった。

翌日は旧首都のカウナスへ移動して要塞博物館の見学。これはカウナスを守るために作られた要塞がドイツ軍の侵攻で破壊され、残ったものが監獄として利用された建造物でナチスの残虐な話などを聞いた。

それから杉原記念館を訪問した。この杉原記念館に関わる話はNHKラジオで何回か聞いていたので懐かしくあの時代に、日本の外務省に逆らってまでユダヤ人に日本通貨のビザを発行した彼の勇気ある行動に改めて敬意を感じた。

午後はリトアニア民族生活博物館を見学して後、首都ヴィリニュスへ入った。

翌日はヴィリニュス市内観光、大聖堂、ケディミナス城、夜明けの門など世界遺産に指定された物を観光して午後はトウラカイと言う赤レンガが水に映える美しいお城と聖堂を訪ねた。この季節は結婚シーズンらしく聖堂や古城の辺りにはウエディングドレスの花嫁さんが多く見られた。

こうして私のバルト三国への旅は終わったのだが今回のツア参加者は殆ど顔見知りで、どこかでご一緒した同志なので成田集合時から和やかに話題が弾んだ。まるで同窓会の旅行のようだった。バルトの国々は高い山が無くてせいぜい高くて300m位、移動の際の窓外は緑の美しい針葉樹と柔らかな緑の草地が延々と続いていた。冬が長いだけに夏の明るさを満喫できるこの季節を大いに楽しんでいるらしいのが感じられた。割合と雨が多くて、リトアニアのガイドは松茸が沢山取れるが、この国の人たちは日本人ほど松茸に執着せず、加工の仕方もまだ知らず1キロが800円くらいで手に入るなどと話すので、バスの中ではお昼には松茸の土瓶無視などが食べたいなどと和やかに話題は盛り上がった。食べ物もヨーロッパの田舎料理のようで、私たち日本人にも食べやすく口に合った。あまりに多くの場所を訪れたのでどれがどの国だったかすっかりごっちゃになって私の頭は混乱している。ホテルに入る時間が遅く、少しでも早く休みたい気持ちが強くて、メモを取る時間も惜しんで休んだのでお城などは特に何処が何処だったか混乱しているのだが、塔が多くあったことなど美しい中世の街中に身を置くことの出来た幸せを感じている。

2004年8月

 

 

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