アンカレッジ経由の頃

 

始めて日本の国を出たのは20年余り前だった。その頃、世の中はエアロビクス運動と言うことが大いに言われ、私が子育てから手が離れて何か運動をしたいと始めた整美体操の教室でもビートのきいたエアロビクス運動に重きをおいていた時代だった。その教室からアメリカのジェーン フォンダのエクササイズに行こうと言うことになりアメリカ西海岸サンフランシスコ、ロサンゼルス辺りへ行くツアーに混ぜてもらって始めての海外旅行となった。流石に生まれた国を出ると言う興奮で私は初々しく気持ちを高ぶらせていた。

その時始めて手にしたパスポートは今の物の2倍はある大きな赤い表紙の物だった。それを手にして、その頃はまだ宅配便などと言う便利なものは少なくて、自分の手でガラガラとスーツケースを引っ張り、JRの階段はよいしょと持ち上げて登り降りし、大阪の伊丹空港からその頃出来たばかりの成田空港へ移動。そこからアンカレッジ経由でサンフランシスコへ入った。

服装も今のようにパンツルックは少なく私は裾幅の広いスカートにセーター、コートは長いダスターコートだったと思う。

とにかく始めての海外旅行だったので、密かに英会話の小冊子で入国の際に聞かれるであろう会話を覚えて少し勉強したように思う。

1ドルが360円の時代だった。その時の旅の記録を自分なりにまとめたノートがあったはずなのだが、今の住まいに越すとき捜したが私の手で探し出すことが出来ずにみな消滅してしまった。

1番印象に残っているのは、帰途ハワイのホノルルに寄ったのだが、それまで日本食を口にしていなかったので、ホノルルのホテルの「日本料理」と言う赤いネオンサインを見たときに口の中にジワーッと湧いてきた唾である。ホテルの前の屋台で稲荷うどんとお結びを食べたのが思い出される。そう、サンフランシスコでフィッシャーマンなんとか言うレストランで蟹を食べたがちっとも美味しいとは思わず、これなら富山の蟹の方がはるかに美味しいと思ったし、総ての料理の量の多さに驚き、いろんな赤ゲットぶりを発揮してきた。ただポテトの美味しかったことはかすかに覚えている。どうやら私は旅の話になるとつい食べ物のことを書くので、口の悪い人は「食べることばかり書いて、ちっとも面白くない」と評する。

肝心のジェーン フォンダのエクササイズは外人さんと一緒にワン、ツー、スリーっと動いてきた。これが2月のことだった。ハワイはムッと湿気の多い日本の梅雨のように感じ、暑いのが苦手の私は、ハワイ、皆が騒ぐけれど大したこと無いなの印象を持ち、その後もあまりハワイには行きたいと言う気持ちが湧かない。その頃は人並みにブランド物なども欲しく、ジパンシーとロベルタのバッグを、求めて来たがまだ捨てきれず、クローゼットの隅に眠っている。当時は日本には未だディズニーランドが出来ていなくて近いうちに日本に出来るので、私たちが使い切っていないチケットは日本でも使えるから無くさないようにとの注意を受けて持ち帰った。

 

その次に出かけたのがポルトガルとスペインだった。

これは生涯を独身ですごしている友が誘ったもので最初の海外旅行から3、4年立っていて息子も結婚をして東京に住んでいる時だった。

これは成田からの出発でやはりアンカレッジ経由をして、フランクフルトで乗り換えリスボンへ割りと小さな飛行機で飛んだのだった。

この機内食を食べる時に、横の座席のドイツ人らしい男性に私の分のワインをあげ、飛行機を降りるとき彼がワインをくれて有難うと言ってくれた生の英語が理解でき「ユアウエルカム」と返事の出来たのがとっても嬉しく思ったものだった。

私も若く総てが感動できる時代だった。リスボンは小さな空港で日本で言えば田舎町の空港と言った風でこれが首都の空港化といぶかったほどだった。

ファドを聴いたり国内はバスで移動して陸路スペインに入った。私が地中海を始めて見たのもこの旅だった。アルハンブラの思い出という曲を耳にすると、そこを訪れた日のことが思いだされるし、スペイン語が分からずスーパーに入ってミルクを捜すのだが見つからず店員にゼスチャーで牛の乳絞りの真似をして見せてようやく目的を達したのだが同行のきどり屋の独身の友から、はしたないと叱責を受けたのも懐かしい。あの頃は東へ行くのも西へ行くのもアンカレッジで給油をして出かけた。給油のためその時間は飛行機を降りてアンカレッジ空港内をうろついたものだった。

このように昔のことが懐かしく思い出されるのも私が名実共に老境に入ったせいだろうか?

 

2004年2月

 

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