秋田、男鹿半島

 

日盲連全国大会が秋田で開かれる今年は天災や気候不順の続く年になった。JR高岡駅を北越号で新潟まで行きそこから稲穂号に乗り換えて酒田迄列車利用と言う順序で旅は始まった。新潟で乗り換えてすぐに配られた駅弁が雪だるまの形をしたプラスチックの容器に入った物なので、これがとても食べづらかった。旅の最初から文句を言うつもりは無いのだが、容器の下の方にご飯が入り雪だるまの頭部に当たる部分はそぼろのポロポロした副菜がのせられ、胴体の部分には山の幸、海の幸で飾られてはいるのだが、食べにくいことこのうえもない。アチコチで、お弁当を落としているような音が聞こえるといった状態だった。当初私は秋田まで列車で行くものとばかり思っていたが、酒田で列車を降り、出迎えていた観光バスに乗り換えて秋田への道を走るということになっていた。

バスガイドの秋田弁が素朴で、東北弁の訛りにはちょっと慣れなかったがその内に何となくなれた。近頃のバスに乗ればシートベルトの着用を厳しく言われるのに、このバスではそれに関して何も注意は無かった。東北方面は、矢張りのんびりしているのでは?の感想を持ったのだった。バスガイドの解説で、秋田では孟宗竹は無く、姫竹といわれる細い竹のみが育つのだとか。北陸とは違う話を聞かせてくれた。窓外に見える家は立派な家が見えるという人のおしゃべりも聞こえてきて、昔、持ち家率は富山が全国一だったのが、最近は秋田が日本一になったといったニュースを聞いたことなどが思い出されるのだった。

夕方、秋田市内に入り、ねぶた流し館に展示されている提灯の沢山ついた「かんとう」と言うものの説明を聞いたり、和太鼓を叩かせてもらったりして、その夜の宿舎に入った。ホテルと聞いていたのに玄関で靴を鍵のかかる下駄箱に入れるように言われ、これには驚き、部屋まで上履きもなしに歩くのだった。

部屋には使い捨てのスリッパが準備はされていたが、戸惑うことの多い宿だった。天然温泉がこのホテル内にあるので、入浴のみに訪れる外来者の為の処置らしかった。夕食は4人一組でのお鍋、サラダの盛り合わせも大皿と言うことで、お世話をして下さる介助者は大変だったろうと思う。お鍋の中にはこの地方の名物キリタンポが入っていた。

中日は、本来の大会参加で県民会館に向かった。館内に入る前にこの地方出身の歌手「東海林太郎」の胸像の前で、集合写真を撮った。胸像を触ると、眼鏡にレンズの無いのがおかしかった。この大会で電子白杖を触ることを最大の目的にしてきた私だが、時間的にそれが叶わず、この件に関してはブログに詳しく書いているので省略をする。それとこの大会では舞台の上の来賓が非常に多く、政治家の多くは代理人で元盲学校長と言う人物も多いのが特徴のように感じたのだった。その名前の紹介だけでも時間がかかるのが、先を急ぐ我々には困ることだった。大会場を後にして一階が市場になり2階が食事場所になっている建物内で食事をとり、階下のお店でお土産類を求めた。私がお土産の「いぶりがっこ」を求めた売り場の女性はとても親切で、私が指定した名前の佃煮屋まで、自分の職場を放棄して、案内をしてくれたのだった。この親切さは矢張り東北地方の人柄なのだろうかと感じたのだった。

昼食後は男鹿半島に向かい、本州最北端といわれる入道崎灯台の螺旋階段約100段をバランスとりながら登り、真山神社の70段の階段もクリアして神主さんの樹木に関する説明などを聞いた。

その夜の宿舎、男鹿温泉の宿に入る前に、この地方での「なまはげ」に関する資料やその行事を実演して見せてくれる場所等で、すっかりなまはげに関しては博識になったのだった。この地方での最大の観光名物に活用されているのがよく理解できた。

この夜の食事は、非常に品数が多く、大食漢の私でも完食は出来ない量だった。何も多ければ良いというものではないだろうとの思いが強かった。

旅の最終日はバスで又酒田迄走ったのだが、今回は横手で「かまくら」を見学した。−15℃の部屋にかまくらが作られ、中へも入ることが出来、火鉢の上には焼網もセットされてお餅までのせてあった。しかも、お鍋等も置かれているのは、そこで楽しく過ごす様子を想像させてくれるに充分なセッティングだった。

昼は稲庭うどんと言う名物を食べた。少し細めの滑らかなうどんだったが美味しかった。横手では焼きそばも有名だとかで、この食事場所ではそのソースの匂いも漂っていた。

こうして酒田にバスは到着して、我々は往路とは逆に新潟経由で高岡駅に帰って来た。お天気にも恵まれ、心配した雨にも会わず、秋田を訪ねることが出来て有難かった。バスガイドの話しでは、近頃は田沢湖辺りに観光客が流れて、男鹿半島方面への客は減っているとの話しだったが、何時の日か、この人情の厚そうな秋田へ又旅してみたいと思う。

20105月末日

 

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