愛知方面から伊勢路へ

 

今年初めての台風から変わった低気圧が近づくと言う中を、バスで出発した。

私のお気に入りの東海北陸道に乗って新緑の中を走る。気持ちが良い。ひるがの高原サービスエリヤで積み込まれたお弁当を車中で食べて、ひた走る。第一の観光地日本ラインに到着して、船に乗り換えた。ここはかつて訪れたことのあるコース、船頭さんの説明を聞きながら急流に入るとしぶきなど浴びて終了した。岩の説明などはかつての記憶を思い浮かべながら未だ雨の降ってこない中での河下りだった。

次の停車は赤レンガ造りのトヨタ産業技術記念館である。車のことは何も知らない私にはちょっと猫に小判的な場所だと思っていたが、織り機の方で、綿から糸を紡いだり、紡いだ糸に撚りをかけながら巻き取ったりする機械など、ものすごい騒音を発てる中で説明を聞いた。そして実物を触らせても貰った。ここでは、昨年開催された愛地球博覧会のトヨタ館で人気を集めたと言うロボットの演奏を、特別に私達の為に演奏してくれると言うのでその時間が来るまで休憩室らしき場所でコーヒーなど飲みながら待った。今日、初めて暖かい飲み物にありつきゆとりを持って、ロボット君の演奏を聴くことが出来た。ロボット君は三曲演奏してくれたので、私達は彼に拍手のお礼で応えた。次の予定は南極観測船富士の係留している港である。

乗船前に係員の説明を聞いている時、私は、この富士になる前の宗谷の時代のことを思い出した。昭和の三十年代初め、氷に閉じ込められた、宗谷をソ連のオビ号が救出してくれたことや、置き去りにしてきた樺太犬が生きていたお話、あれは34年のことだったと思う。何故って私の結婚した年の出来事だったのでよく覚えている。小さな樺太犬のブローチを求め、今も持っている。

それに触れるたびに、あぁ、タローとジローだったと今でも思い出すからである。これらの行程をこなして名古屋駅裏側にある名古屋グランドホテルで第一夜を迎えた。

第二日目は今回のメインである日盲連の大会に出席して今回の最大の役割を終えた。

ここでの売店で私は単純な万歩計を手に入れた。3年位前に、距離や消費カロリー等を告げてくれる音声万歩計を求めたのであるが、一年も使わないのに故障して、直せないと言われていたので、今回は単純明快な歩数とリセットボタンだけの品を求めてきた。

この日も会場を後にして車の中での昼食である。

時間に追われるように車は走り、海老煎餅の製造工場に到着、皆さん、それぞれお好みの品をお土産に購入して、車は、もろ崎港へ。ここからフェリーで伊良子岬へ渡った。一番楽しみにしてきたこの地は風もつよい雨で、歩いて行った灯台の戸は閉まったまま。戻って、島崎藤村の「椰子の実」の歌碑の立つ場所へ濡れながら歩いた。ここで皆さんと歌を合唱して、伊良子ガーデンホテルに入った。

第3日目は濃い霧の中を出て行く船のボー、ボーとなる霧笛で目を覚ました。海はすっかり霧に覆われ何も見えないと言う友の言葉に、まるで私の視力のようじゃないと笑った。ホテルを出て最初にメロン狩りである。食べ放題と言うこの場所には誠に美味しいメロンが二つ割りにして準備してあった。多分、木で熟した特別に美味しいものを食べさせてもらったのだと思う。温室の中で、好みの品を選んで鋏でT字型に切るようにと教えられ、葉付きの物を箱に入れてもらってメロン狩りは終わり。

フェリー乗り場へバスは到着したのだが濃霧のため、フェリーの運航がスムーズにいかないらしく、関係者がいろいろと頭を悩ませる事態だったらしい。

やっと霧も晴れてフェリーは動き、鳥羽港へ向かった。この船が少し揺れ、酔った人もあるらしい。私もかつては、船に酔ったり、飛行機に酔ったりしたものだが、今は平気になっている。感覚が鈍くなってきたのかなとも思うが、矢張り、慣れもあるのだろう。

鳥羽港から伊勢へバスは走り、この旅で初めて昼食を食堂で食べることが出来た。が、この食堂、昔のお伊勢参りの人が利用するような靴を脱いで座っての場所、トイレの数も少ないと言う場所だった。かつおをタレにつけた物を散らし寿司の上に並べたお寿司 と伊勢うどんと言うメニューだったように思うが、うどんは打ち方の少ない、ふやけたような代物だった。

玉砂利を踏んでの伊勢神宮内宮の参拝を終えて、バスは今度、甲賀流の忍者の里へ。ここで忍者は今で言えばスパイやテロリストだったと言う様な説明、そしていろいろなからくりのある室内を見せてもらった。

今回の総ての観光は終わり、ひたすら家路へ向かってバスは走ってきた。

今回の旅は大型の観光バスで盛りだくさんのメニューをこなすのに、昼食も2度は車中でと言う落ち着きの無い食事、最初は鮎の大きなのが載ったお弁当だったし、二日目のお弁当は鰻のまぶしたご飯のお弁当だった。車中でのお弁当はどうにも好きになれないが、我侭は言えない。ちょっと、心残りは、大きなアサリの焼いたのを食べ損ねたことである。計画から実施までいろいろと検討なさったスタッフはさぞ大変だったろうと思える旅だった。

 

2006年5月

メールはこちら

ホーム