輝け!新湊高校ナイン@甲子園
さらば旋風児 作詞 阿久悠
マンモス球場を新湊旋風が吹き抜けた
粘投酒井投手
誰もがきみたちを待っていた
春の旋風児が夏の嵐となり
今度は
そびえたつ入道雲に挑む姿を
心待ちにしていたのだ
もしかしたら
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
きみたちは ふたたび甲子園に帰ってきた
あの素朴でういういしい
しかし どこかしたたかな少年が
充分に期待にこたえる風格をそなえて
入道雲を見あげていたのだ
だが戦況は不利に進んだ
春の旋風児も
夏の中では陽炎(かげろう)のようにさえ思えた
夢は夢か 少年は少年か
春は春か 無欲は無欲
勝ち負けは誰も問わない
この甲子園で何かを証明出来たか
それだけを問う
・・・・・・
・・・・・・
敗れはしたが 新湊高校
きみたちは夏もまた自分たちであり得た
心の竜巻が起きたはずだ
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☆新湊と野球とお祭りと
新湊市というのは富山と高岡の中間にある、日本海は富山湾に面した小さな街である。産業は漁業と製材業とアルミ産業、そして農業ののんびりした街である。
10月1日、13台の山車が街を一変させる。離ればなれになった家族や親戚が集い、夜の提灯山で祭はクライマックスに達する。
富山県立新湊高等学校(街の人は省略して新高“しんこう”と呼ぶ)はその街にただ一校の高校なので市民の多くが入学する。一家じゅうが新湊高校出身という家も珍しくない。僕の家でも二人の姉が新湊高校を出ている。よっぽど変わり者でなければ他市の進学校へは行かなかった。僕らの頃は普通科4、商業科4、家政科1(現在はない)で県立では一番大きい高校といわれた。
一流進学校ではなく、一応進学校なのだが、なかなかユニークな学校といえる。新湊市民にとっては一番なじみのある高校なのでOBでなくても校歌(三浦孝之助作詞)が歌える。
♪奈呉の水面の朝日影、
桜花こぼるる春風に
柳の緑霞むなり
ああ、ここに燦たる吾等の母校
自由の光輝きて
美しの希望薫るなれ〜♪
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□
野球は市民の唯一の楽しみである。弱かった時代から一般の市民が仕事が終わると学校の中に入って野球部の練習を見に来ていた。今日の練習はどうだ、とか監督はどうだ、とかアマチュア評論家が実に多い。そんなだから下手に負けたらボロクソである。
一度、商船高専との練習試合があったが、どこから聞きつけたのか、多くの観客がキャンパスにあふれた。商船は1回戦も勝てない、弱いチームなのに熱心に見に来たのだ。もちろん、新聞に載っている訳もなく、聞いたらみんな口コミで集まっていた。
漁師町なので「潮っ気」が多いといえばかっこいいが、早い話、気が荒く、怒らせると大変だ。何しろ、新湊高校の前身の高岡東部高校時代の1950年7月30日、開幕直後の第一試合・福井武生戦で、審判の判定に納得しない観客が審判を外野までに追いつめて暴行を働くという事件があった。応援団の事件で除名になったが、おかしい。この事件に関しては様々な見方が存在するが、裁定を含めて富山県の野球界の汚点であることは間違いない。新発田市で行われた代表決定戦で富山商業に負けた時、大量の一升瓶がグラウンドに投げられたなんてこともあったらしい。
そんな町のただ一つの高校が初めて甲子園に出る事になった時、大変な騒ぎになった。
応援にはハタキを振るのが名物で「相手を叩き落とせ」という意味も勿論あるが、元々は秋祭の山車でハタキを使って「いやさー、いやさー」と指揮をすることからきている(古語の「彌栄え」ますます栄えますように」に由来している。ちなみに青いのを使うのはスクールカラーに合わせてあるからである。なお、高野連には「ポンポン」として登録してあるために短く切ってある。
お祭り好きの浜っ子には甲子園の浜風とお祭り騒ぎがよく似合う。
□
私立学校があれだけ選手確保に躍起になることからも分かるように甲子園出場は絶大なPR効果がある。県外の人に新湊出身というと「ああ、甲子園に出ましたね」といわれるとやっぱりうれしくなる。心理学でいう「栄光浴」である。通信販売などの電話で住所を説明するのに「新しい『新』と古い方の『湊』」と言おうとしたら、相手に「あの新湊旋風のでしょ」といわれることがあって、つい余計に注文してしまう。
富山の西部にある石動(いするぎ)という町は難読地名なので小矢部に変えようという話があったが、石動高校が甲子園に出て改名を止めてしまった。「新湊」を「にいみなと」と呼ぶ人がいなくなったのも甲子園のおかげである。
更にNHKでは第一試合の時に郷土を紹介してくれる。僕自身は甲子園に行っているので新湊がどんな風に紹介されているのか分からないが、この紹介だけでも数億円分のPR効果があると思う。
新湊高校には他のクラブもある。僕らの頃は軟式庭球だったが、最近では新体操(市内の射北“しゃほく”中学は98年全国優勝した)やヨットがさかんだ。
□
初めて甲子園に行くまで僕は高校野球が大嫌いだった。小掠博・江刺正吾編『高校野球の社会学―甲子園を読む―』(世界思想社)という本があるくらいでさまざまな見方がある。
他のクラブを圧倒する予算と扱い、建て前ばかりが目立つ運営の仕方、(授業中は寝てばかりいる部員もいるはずなのに)「はつらつ高校生」、エラーがあっても「爽やかプレイ」、根性論を振りまく解説者、プロ野球のように加熱するマスコミ報道、無理な神聖化に努める高野連などなど。
後に星稜・松井に対する5敬遠が高校生らしくない、と高野連は批判をしたが、既におじさん顔をしていた松井の一体、どこが高校生らしかったのだろうか?敦賀気比など、多くの出場校の野球部で各地の言葉でなく、関西弁が飛び交う、などという事態を招いたのは誰なのか?などと思う。
大体、甲子園の決勝の日が電気の最大消費日になっていたのもおかしい(最近はそうでもないが…)。投手の肩も考えると(肩を壊す人が多い)一日置いて涼しい午前中にするべきだと思っていた。
まあ、文句は色々あったが、行っているうちに甲子園は儀式だと納得するようになった。ケ(“袈”「日常」)ではなくハレ(“晴”「非日常」)なのである。あの「様式美」が日本人にはピッタリなのだ。
日常の場ではなく、お祭りのように選手は選手らしく、応援団は応援団らしく、審判は審判らしく振る舞うのである。誰もが祝う元旦やクリスマスには甲子園のような連帯感がない。人類学で日本最大のお祭りといわれる所以(ゆえん)である。
なるほど、高校野球ほど地域を巻き込むものはない。母校が負ければ地域の学校、地域の学校が負ければ県の代表、県の代表が負ければ地方の代表とトーナメントで応援していく。
何よりも、甲子園は古里を離れて暮らす人々の郷土意識をくすぐり、偏差値教育に反対している人々の気持ちを揺さぶり、くりくりの坊主頭や部員の屈託のない挨拶が茶髪やピアスの高校生とその無礼さに眉をひそめる人々の見果てぬ夢を刺激するのである。
□
そして、新湊の人のお祭り好きとぴったりマッチしたのが甲子園だった。
新湊は池田高校のある池田町、簑島高校のある和歌山県有田市と一緒に「日本の三大野球狂の町」と呼ばれている。
後二者は優勝も多い名門になっていて一緒にするのは口幅ったいが中央の新聞がそう書いているのである。
人口4万以下で県立高校を有し、娯楽が少ないことが共通すると分析する人もいる。
□
ちなみに桧物(ひもの)政義監督は僕と同級生である。学生時代はあまり目立たなかったように思う。一方、当時、捕手をしていた魚(うお)満芳はドラフト7位で巨人に入団した。入団が決定したときの竹内伸一部長(後に新湊市博物館館長など)の喜びようは忘れることができない。しかし、公式戦には出ず、大洋に移って9年で選手生命を終えた。
一つ下には立川志の輔(軟式庭球でインターハイに出場している)や日本テレビ小杉善信のプロデューサー(「マジカル頭脳パワー」など)がいる。
□
当時の新高には「反面教師」という人はいたが、面白い先生は一人もいなかった。僕は当時、生物クラブの部長をしていたが、クラブを離れた思い出はほとんどない。
それでも、面白い人間が育っている。
教育ではなく、地域の文化・風土が人を育てるのだ(「菊と蒲鉾」参照)。
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新湊高校には北陸線の高岡で降りて駅前から路面電車・万葉線に乗って30分、「新湊市役所前」(昔は「西新湊」)で降りれば南側に見えてくる。
茶色のラインの入った紺色のセーラー服(夏服はブラウス)を着た女子学生がいたら新湊高校生である。昔はダサイと思ったけれど今はレトロでとてもいい感じである。←おぢさん!
OGのまみさんの話によれば次のとおり。
春の選抜大会に出場したとき、私は高校を卒業したばかり・・・
でも、高校生として応援に行きたくて先生にお願いしたところ「制服来てきたら高校生料金で連れて行ってやる!」と言われ、当時、バス代(お弁当代込み)5000円で連れていってもらいました。
そう・・・あの茶色の3本ラインのセーラー服を着て・・・
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☆1980年夏 甲子園初出場
80年というのはイラン米大使館人質救出作戦失敗、光州事件、大平首相急死と初のダブル選挙、鈴木内閣発足、モスクワ五輪不参加、イラン・イラク戦争などがあった年である。
スポーツではレーク・プラシッド冬季五輪、モスクワ五輪と不参加問題、王・野村引退、広島が優勝して近鉄を敗り、2年連続日本一(そして長嶋解任)があった。
62回大会の地方決勝戦は8月1日(当時は地方大会の開始も終了も遅かった)、県営富山球場で富山商業と行われたのだが、僕はちょうど福山に出張中で見ていない。
桧物監督のお兄さん(現在市会議員)から聞いたところ(ホームステイしたドイツ人のために通訳をしていた時に)では新湊市内大騒ぎで、飲み過ぎて死んだ人が2名いたそうだ(未確認)。ただ、この試合は6―5のサヨナラ勝ちだったのだが、判定は微妙だったらしい。富山商業は宿敵で63年、67年と甲子園出場を阻まれている。
1928年創部以来、53年目の快挙だった。
優勝が決まってすぐ市議会、地元の産業である製材業界が各々1千万寄付し、10日間で1億円集めたといわれる。
8割を超える人が自治会からの募金に応えているという。こうした募金に対して新湊高校の野球だけを優遇しているのはおかしいという声もあるが、いつも一市一高校だという声とか、甲子園は特別だという論理にかき消される。
派遣本部には夏休みを利用した市の職員が常駐し、自治会からも寄付の要請が廻ってくる。これでは「県立」ではなく「市立新湊高校」だといわれる所以(ゆえん)である。
□
当時は1万円のカンパをすれば往復がただになった。
8月13日(水)夜、121台のバスが出発した【台数に関してはさまざまな数字があるが『新湊市史』による数字】。僕は80号車だった。県内では足りなくて北陸鉄道(石川)のバスだ。甲子園の駐車場には120台のバスが入るが相手が沖縄だったのでフルに使っていいということになって可能になった(これを教訓にして50台が限度になった)。自家用車も千台は行ったといわれる。
4月に北陸自動車道が米原まで開通したことと、市なのに新湊に国鉄(当時)が来ておらず、みんなバス頼りだったことが空前絶後のバス応援団となった理由である。その後は新湊の貨物駅からホームラン列車が出るようになった。
4万人の市の人口のうち、約1万人が集結し、朝日新聞全国版に「新湊が甲子園に移動してきた」という記事が載るほど大きな応援団だった。
乗ったらすぐにマナーを書いた紙が配られた。裸や大漁旗はいけないとか、獅子舞の太鼓はいけないとか細かく書かれている。甲子園でもしつこく配られた。
途中、何度かバスは止まったのだが、何しろ121台のバス(実際には2大隊に分かれた)なのでサービスエリアに入っても冷えたジュースは一つもなかった。50人乗りでも80号車だと4000人が先行していることになる。高速をバスが100メートル間隔で走ると12キロの大隊列ができてしまう。全体を撮ろうとした取材ヘリはそのまま雲の上に昇ってしまった、と志の輔が書いていた。
みんな夜行バスは初めてで寝付かれない様子だった。僕はしかも通路の補助席だったので更にきつかった。
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8月14日(木)朝、関西に着き、ゆっくりと甲子園に向かった。阪神高速から見た甲子園の大きさに驚いた。
バスを降りてから20分ほど歩いて甲子園。蔦煎餅を売っていたが、池田高校の蔦文也監督にちなんで売っていると思った。「甲子園喉飴」の看板が立っていて商魂がたくましいと思ったが、帰ってから富山の四方(よかた)という所で作っていることを知る。
入る前に入場券を買うお金の入った袋をもらう。誰かが250円で3枚までしか買えないといったので金融機関を回って750円になるように小銭を集めたのだった。ところが、1回に4枚1000円まで買えたから逆に大混乱。
外野席に入るとあちこちで中学や高校の同級生の顔が見える。名前を忘れてしまっていて声がかけられなかったり…。
相手は沖縄興南高校だった。一方的な試合展開で7−2であっけなく敗北。1億円を集めたので「1点5千万か…」という人がいた。
沖縄興南高校戦
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帰りはお盆で混雑していたこともあり、皆疲れておとなしく帰った(ようだ)。初めて出場したことだけで十分満足していた。
そういえば、西宮にいるK先生に連絡しようと思って電話したが掛からなかった。帰ってから甲子園は西宮だということに気付いた。市外局番を一生懸命回していたのだった。お上りさんだった。
この大会では“都立の星”国立高が初戦で箕島に敗れ、1年生荒木大輔(→ヤクルト)が44回1/3連続無失点で早実が準優勝、史上初の関東勢同士の決勝は愛甲(→ロッテ)の率いる横浜高校が制した。
☆1986年春 新湊旋風
86年にはスペースシャトル爆発、フィリピン革命、男女雇用機会均等法、前川レポート、チェルノブイリ原発事故、伊豆大島三原山噴火、岡田有希子の飛び降り自殺などがあった。
スポーツでは衣笠2000試合連続出場、西武が広島に3連敗の後、日本一になり、山本浩二が引退した。
この年の春の選抜(56回大会)に新湊高校が出場することになった。前年の北信越で準優勝だったが、松商学園との決勝での延長11回3―2が評価されて2校選ばれた。富山勢としては16年振りの春の選抜出場となった。
(投手)酒井盛政 (捕手)水谷勇一 (一塁)石井正人 (二塁)長谷川大介 (三塁)湊谷勝 (遊撃)川田純康 (左翼)塩谷一郎 (中翼)仲谷信二 (右翼)岩坪智 のメンバーであった。
僕は個人で特急雷鳥に乗って向かったが、この時から運行されたホームラン列車は大阪到着前に列車内で盛り上がって大変だったようだ。その後、JRやバス会社は新高が勝ち上がってくるように祈るような気持ちでいるという。当時は応援にハタキを配らず、青いメガホンを配っていた。分家新湊市長もこのメガホンを大事に持っている。
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○愛知享栄高校戦
3月28日(金) 少し冷たい雨の中、愛知享栄高校との第1試合があり、軽く負けるものと考えられていた。相手は金田正一を出している名門。
雨の中、試合が始まった。誰も2回の1点が守りきれるとは思っていなかったが、エース酒井盛政が強打の享栄をわずか2安打に抑えて大会完封一番乗り。富山県勢16年ぶりのセンバツ勝利を飾った。
ぬかるんでいたせいもあって享栄は力を充分に出せなかったのかもしれない。しかし、抽選会で新湊と組み合わせが決まった時、享栄の部員が大喜びしたとか、監督が敵状視察にきたものの20分もしないで拓大紅綾の方へ見に行ったとか伝えられたように油断があった。そして、このことで新湊の部員が発奮(発憤?)したといわれている(発奮しただけで勝てるものではないが)。
愛知享栄高校戦
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甲子園で母校の校歌を歌えるとは思わなかった。最近は校歌を歌えない高校生も多いらしいが、実にいいものだ。文語調で嫌いだったのに、いきなり愛校心が出てきて歌い始めるのだから不思議だ。桧物監督も「監督になって最良の日」と話した。
僕はちょうど神戸に出張していたが、翌日読んだ読売新聞には「長ぐつ野球」をキーワードに「ぬかるみで勝った」旨が書かれていた。新湊は雪の上で長靴を履いて練習していたのがよかったというのだ。
この年は大雪で、出場が決まった時も1メートルの積雪があった。
他の新聞には「雪国旋風」とか「雪国パワーの爆発」とか「全員野球」など見出しが踊った。冬のハンディもあって北国の野球部は強くないのである。
「旋風」というのは40回大会(58年)の準々決勝で徳島商―魚津の板東と村椿が投げ合い、18回0ー0。翌日、再試合になり、3―1で魚津が負けるという球史に残る試合があり、魚津が「しんきろう旋風」と呼ばれたことにちなむ。板東は1大会83奪三振の大記録を樹立した。板東英二は中日に入って、引退後はタレントとして大活躍している。
享栄の近藤真一投手は後に中日に入り、デビュー戦(87年8月9日)で巨人をノーヒット・ノーランで下した(この年4勝、翌年8勝で終わって肩を壊して現在は中日のスカウト)。
つまり、新湊高校野球部は巨人より強い!?
この試合について後に次のようなメールをもらった。
私は、大分県佐伯(さいき)市と言うところに住んでいる30歳女性です。
今日は、インターネットで春の選抜情報を集めようと思い、検索を繰り返していたところ、新湊高校と言う文字を見つけ、HP拝見させていただきました。
私は、1986年春の選抜大会で新湊高校の試合を見て、大ファンになってしまいました。(当時私は高校2年生になったばかりでした)
私は、小さい頃から2歳年上の兄が野球をしていた関係で、ものすごい野球ファンで、高校生の頃はテレビの前で、全試合スコアをつけながら見ていたものです。←かなり異常ですよね。
私は当時自信満々の強気の選手が好きで、享栄高校の近藤投手の応援をしていました。対戦相手が新湊と決まった瞬間に、あーあ、大差にならなければいいな。と思っていたという失礼な奴です。(甲子園で大差の試合を見るのは心苦しいので)
しかし、試合を見るにつけ、どんどん夢中になり、試合開始まで享栄高校の応援だった私が新湊の応援をしていました。何度も迎えるピンチ。それをしのぐ好プレー、2度の0死1,3塁のピンチは本当にどきどきしながら見ていました。最終回(だったと思う)享栄の攻撃で4番の近藤君に打順が回って敬遠しましたよね。あのときの近藤君の顔はものすごく印象に残っています。
結局、完封して試合が終わったのですが、ただ家にいて、テレビを見ていただけのくせにものすごく疲れてしまいました。
おまけにその後、激痛にみまわれ、あわてた父親に病院に連れて行かれたところ、「神経性胃炎です」と言われてしまうという、悲惨なことになっていました。←春休みでぶらぶらしていた私は、野球以外に原因は思い浮かばない・・・(笑)
さすがにその後、親に怒られ、新湊のピンチになるとチャンネルを変えられるという暴挙に出られてしまい、とびとびにしか試合を見せてもらえませんでした。
でも、私は、数多くの試合を生で見たり、テレビで見たりしましたが、あの試合はベスト2です。すみません、1位は兄の甲子園出場をかけた県大会の決勝戦なのです。
夏の大会は、自分の学校も甲子園に出場したのですが、全然興味を持たないまま、新湊の応援をしていました。でもよく考えたら、私の高校は天理高校に負けてますので(私の記憶に間違いがなければ)、もしかしたら新湊と戦ってたかもしれないですね。
私は、高校野球は、地元の選手ばかりでつくられたチームを応援しているので、野球留学している選手の多いチームなどは応援する気にもなりません。その点、新湊高校は本当に地元の選手ばかりでしたよね。その点でもすごく好感が持てました。
なんだか、まとまりがない上に長い文章になって申し訳ありません。
新湊を語ると熱くなるので・・・
めぐさん
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○千葉拓大紅稜高校戦
第2戦は3月31日(月)で東の優勝候補の千葉拓大紅稜高校とだった。当時のキャッチャーは飯田(現ヤクルト)で1番を打っていた。俊足、強肩を売り物にしていた。
優勝候補であちらの応援は見ていて腹が立つくらいに少なかった。観戦中聴いていたラジオによれば全校の半数だけが来ているという(つまり半数は次の試合)。
4点を追う6回、打者11人の猛攻で逆転してしまった(7−4)。奇跡だった。目の前で起こったことが信じられなかった。甲子園中が新湊の応援団のようになっていて一般の観客も味方にしていた。
こうして「ミラクル新湊」と呼ばれるようになった。97年に長嶋巨人は前年の「メークドラマ」の再現を目指して「メークミラクル」を標榜するが、「ミラクル」はこの試合から使われた、いわば新湊高校の専売特許なのである※。
なお、長嶋や王は選手時代によく富山に来た。読売新聞社主の正力松太郎が富山出身なので選挙前になるとサイン会が開かれたのである。
千葉拓大紅稜高校戦
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その夜、凱旋の気分で新湊に帰ると町中、甲子園の話で持ちきりで、みんな我が子のように選手のことを語っていた。
※正確にいうと「ミラクル」が使われたのは、弱かったニューヨーク・メッツが1969年にいきなりワールド・チャンピオンになった時に「ミラクル・メッツ」と呼ばれたのが最初。
□
○京都西高校戦
第3戦は4月2日(木)で京都西高校との戦い。京都西は18安打を打って手に汗を握る守りの試合で何度諦めたか分からなかった。延長戦になって14回、ダブルスチールから京都西の佐々木投手のボークで決まった(2−1)。
その瞬間、観客は一体全体何が起きたのか分からなかった。
京都西高校戦
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歴史に残る試合の後、桧物監督は「四角いホームベースに人を入れなきゃ何とかなる」とインタビューに答えた。ホームベースは五角形をしている。
「もう勝てる相手じゃない。当たって“ぶつかれ”でしょう」とも話した。
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●宇都宮南高校戦
第4戦は翌日だったが、新湊以外の人も乗せたバスが大量に出た。県勢でベスト4は初めてなので地元の新聞は田中角栄逮捕以来の大きな見出しで富山県中大騒ぎとなった。もちろん、県知事まで見に来た。
ただ、酒井投手の肩が前日の試合で壊れ、宇都宮南高校に大量8点を奪われ、8−3で負けてしまった。酒井は41回を一人で投げきった。相手の高村投手は近鉄に入団した。
宇都宮南高校戦
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優勝は宇都宮南を破った「山びこ打線」池田高校(徳島)だった。
この頃、虫刺されの薬「ムヒ」(「強力無比」からきているが薬事法で「強力」が使えない)を売っている池田模範堂(富山県上市町)がIKEDAのユニフォームを着た男たちが「池田、池田、模範堂」と校歌?を歌うCMがあった。
こうしてミラクル打線とか「新湊旋風」とか騒がれて熱い春が終わった。
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川原泉が『甲子園の空に笑え!』(白泉社1985=『花とゆめ』1984年に連載)という漫画を描いている。
これは私立豆の木高校の弱小野球部が広岡真理子という新採教師に連れられて甲子園の決勝まで、あれよあれよという間に行くのだが、まるで新高の86年の快進撃を予言しているような漫画だった。
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その後、この大会の試合のビデオを毎日見続けた市民も多い。少なくとも周りに3人はいる。見ればすっきりするという。ケーブルテレビもこれらの試合を飽きもせず流している。「新高と山車祭だけ見るテレビ」と呼ばれている。
金箔を張った50度のテレフォンカードが作られて1000円で買ったが、貴重品となって売ってくれという人が絶えない。
☆1986年夏 初戦が決勝戦
じりじりと暑い中、商船の大森先生(現在、富山大学)と新開先生とで準決勝、決勝と一緒に県営富山球場へ応援に行った。新開先生はあの汚い野次の中で一緒に応援すると心が浄化される、と訳の分からないことをいっていた。
7月29日の決勝戦では高岡南相手だった。県営球場はコンクリートの照り返しが強くて、存在の耐えられない暑さだったが、強さが分かっていたので安心して見られる展開だった。4回に6点を入れて8―2で勝った。
甲子園には魚津高校出身なのにすっかり新湊高校ファンになっている大森先生と一緒に雷鳥で行った。前日から飲み屋で気勢をあげて出発したのだ。それは僕らだけではなくて、ホームラン列車で行った人々も6時くらいに大阪に着いてしまい、アルプススタンドに入れないのでそのまま一般席に入って第二試合の開始までにはすっかりできあがってしまっていたようだ。NHKの西田善雄アナウンサーは「ストライク一球にもこの騒ぎ」などと放送していた。
8月12日当日の読売新聞には「事実上の決勝戦」と書かれていた。というのも、初戦で2回戦の相手が天理高校。抽選後に天理の本橋投手が「一番当たりたくないチーム」と言っていた。それまで応援団は天理教の教団施設に泊まることが多かったが、この時はさすがに控えたと思う。試合は0―2で迎えた7回表に無死1・2塁に送りバントしたが、3塁で封殺、次打者はダブルプレイ。9回に4点をいれたものの9―4で負けた。
天理高校戦
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天理の投手は「新湊の大応援団をどう思いましたか?」の質問に「自分を応援してくれていると思って投げました」と答えた。また、一緒に校歌に手拍子してくれて応援はフェアだったと話したそうだが、既に新湊の観客は“できあがって”いてどんな音楽にも手拍子を打っただけだったのだ。
この大会で天理はそのまま初優勝した。くじ運が悪かった!
この日以来、紫色を見ると天理高校(スクールカラー)を思い出して逃げ出したくなる新湊市民も多い。
この時も寄付金が余って室内練習場ができた。
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翌年、高岡商業が出場して1勝をあげてから富山勢は1試合も勝っていない。
地元のヒーローになった酒井投手は卒業後、実業団野球のある伏木海陸運送に入社した。
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作詞家の阿久悠さんに新湊旋風を歌った詩「さらば旋風児」がある。こんな立派な作詞家に詩を作ってもらえるなんて新湊市民として高校のOBとして嬉しくて涙が出てくる。阿久悠さんは夏目雅子主演の『瀬戸内少年野球団』を見るまでもなく大の野球ファンなのである。
作曲を新湊出身の聖川湧さん、歌を聖川さんの愛弟子で『新湊慕情』でデビューを飾った香西かおりさんにお願いできたら最高だ。
冒頭の『さらば旋風児』のがこの詩であり、どんな名門校でもこんな立派な詩で謳われてはいない(と思ったら如水館高校は大林宣彦作詞、久石譲作曲という校歌だという)。
市民でも知らない人が多いので『新湊市史 近現代』から引用させてもらった。
阿久悠さんには新湊市長に代わって(?)感謝したい。
学生たちを自宅に下宿させ、職業も監督業に専念できるように選択して、一生懸命に指導してきた桧物監督は94年8月に24年間務めた監督を引退した。私立からの誘いもあったが(恐らく)市民感情を考慮して異動しなかった。この時、審判を批判したが批判したから辞めたのか辞めたから批判したのか分からない。
心からご苦労様といいたい。
初出場の時の投手で明治大学(広沢克らとプレイした)卒業後、新湊高校に商業科教諭として戻ってきた森義人(よしひと)監督が就任した。
森監督の口癖は「甲子園では一番強いチームが優勝する訳ではない」だ。
桧物監督が「情」の人とすると森監督は「知」の人である。
☆1997年夏 非運のマウンド
97年というのはペルー大使館占拠事件が解決したものの消費税が5%になり、「酒鬼薔薇聖斗」の神戸小六殺害事件や奈良月ヶ瀬村の女子中学生殺害事件のあった暗い年である。
巨人が前年の優勝のバブルで清原らお金で選手を集めてMake Dramaにしようとしたら「負けドラマ」になってしまった年である。
ムヒの池田模範堂CMも陣内孝則の「かゆみ!とめてくれ」というのに代わっている。
7月27日(日)、台風9号が日本を通り抜け、フェーン現象で35度を超えた。
17年振りに富山商業との因縁の試合が富山市民球場アルペンスタジアムであった。ともにノーシード校。新湊の決勝進出は92年の高岡商業戦以来である。
観客も6600人という大きな試合だった。球場に入るといきなり、富山商業の後援会をしている、親戚の大阪屋スーパーの社長に会ってしまう。「今日はお互い、敵やねぇ」といってそそくさと別れる。
町から4人も出ているので、ネット裏が町内会になっていた。OBもそうでない人も、中には新湊以外の人も集まってきた。
チャンスを活かせなかった富商と1点をもぎ取った新湊と1回の攻防が全てだった。4回、富商の8番打者に本塁打を打たれて3―3と再び同点。その裏1死2、3塁で渋が左前打して2点勝ち越し。6回に3点、富商が2点返した8回裏に2点だめ押し。途中、連投で疲れている境投手から公式戦に出たことがない埴野投手に代えた。軟投型でハラハラドキドキのまま終了した。ピンチの後に確実に点を加えて10―6の圧勝で創立70周年を飾った。
守って守って最後には勝つ野球は旋風児を彷彿させる。
優勝するとは思っていなかったのか(?)新湊高校の校歌が放送されず、思いあまったブラスバンド部が演奏し始めて市民みんなで歌う。
家族で一緒に見れたのが何よりも嬉しかった。祐貴(8歳)は応援合戦が面白かったらしいし、未蘭(5歳)はかき氷が嬉しかったようだ。商船の一回戦も見に来て勝ったので「未蘭、自由の女神だね」と「勝利の女神」と取り違えている。
市役所の報告会には2000人が集まったという。中心商店街は準備不足ということでお祝いセールをしなかったが、この11年の間に町が大きく衰退してきたことが分かる。街の中心にあったショッピング・センターも倒産してしまった。
翌日の朝日新聞の一面に甲子園出場を決めた新湊高校野球部のカラー写真が載っていた(が、富山にいると全国版かどうか分からない)。
40軒もない小さい町内に初めて「祝甲子園出場○○君 祈健闘」の横断幕が張られた。お父さんは無口な人だが野球のこととなると話が尽きない。
僕は慌てて日本ビクターから松本恵(14)がモデルになった甲子園のポスター「拝啓、真夏のヒーロー様。」(2種類あるらしい)をもらってきた。きりっとした目が素敵だ。飾るのはもったいないのでそのまま保存した。
野球部は富山勢10年振りの初戦突破を目指して8月3日に現地入りした。4日に甲子園で練習をした。
往復の旅費はJRでもバスでも14000円(小学生13000円)というからあまり上がっていない。
5日に抽選があって2日目(8月9日)第1試合に名門・徳島商業と戦うことが決まった。「四国の王者」とも呼ばれ、負け知らず。朝日新聞の記者座談会によれば「五強に迫る」とか「底力は十分」と書かれている。ちなみに新湊は「好チーム」にまとめて書いてあるだけ。主将のコメントも新湊が「なんとか接戦に」、徳島商業が「納得できる試合を」とニュアンスが違う。
徳島商業は春の選抜で天理に1回戦で5つのエラーを重ね、さよなら負けを喫した。そして天理は優勝した(夏に連続出場できず敗退)。
1回戦が「天と地」の違いを生む。人はこの道理を「天地真理」(「あまちまり」とは読まないで下さい)というのだろうか。
考えてみれば、共に1回戦で優勝時の天理に負けて、「敵の敵は味方」という間柄だ。更に徳島商業OBには「新湊旋風」の時の覇者・池田高校を率いた蔦文也監督がいて、板東英二がいる。板東は「旋風」の間接的な名付け親であり、新湊OBの小杉善信がプロデュースしている番組「マジカル頭脳パワー」の司会をしている。これはもう、因縁の戦いとしかいえない。
町内会から町内専用の借り上げバスを出すといってくる。10日に行われる予定だった夏祭りも中止になってしまう。しかし、専用バスは老人ばかりの町になっていて実現しなかった。ホームラン列車は5本も運行された。
大笑いしたのは「選手に電報を送ろう」と例文を添えたチラシが玄関に入れられていたことだ。選手の名前を書くだけで宿舎に届けるそうだ。
9日に試合が行われるとブラスバンド部が全日本吹奏楽コンクール北陸大会に出場のために参加できないという。妻も合唱団の仕事があって行けなくなり、体調を崩したので僕らまで行けなくなった。
台風11号も心配でリハーサルが雨の中で行われた位だったが、影響はなかった。試合当日、高岡は37.3℃の暑さだった。
□
Yahoo!によれば79回大会の出場校でホームページをもっているのは11校であった。僕のは非公式だが、他校は公式のものだ(だからつまらない)。インターネットが世界にあっと言う間に発信できるメディアといわれていたが、Yahoo!に今大会の出場校のディレクトリーができたのは開会式の前日、8月7日であった。ロボット型検索エンジンのgooの方で僕のが検索できたのは作成して2週間後であった。知られなければ誰もアクセスしてこない。
このホームページを読んだ人から色々なメールがきた。北海道から九州まで卒業生、地元に限らずファンがいた。
徳島商業戦の前日に届いた次のメールがとても嬉しかったので紹介したい。
金川さん、初めまして。
突然のメールをお許しください。
私はある会社に勤めているOLです。会社でインターネットを見ていて、『新湊』という文字を見つけたので、あなたのホームページを見させて頂きました。
実は私は11年前、1986年春の選抜高校野球を、友達の家で見ていました。ちょうど私が高校生になった年で(これじゃ年齢がばれちゃう)テレビの中の高校球児達が身近に見えたものです。見ていた試合は雨でした。もう終わった所で勝ったチームの選手達がグラウンドに向かって深々と頭を下げ、じーーーーーっとしているシーンでした。『随分と長いおじぎだな。』って感じました。どこのチームかと思い、選手達が頭を上げるまで待ってみました。
そして『SINMINATO』という文字が私の目の中に入ってきたんです。私はあの長いお辞儀に心をうたれ、それから新湊の試合をかかさずみるようになったんです。そしてあの酒井投手にひかれました。高校野球の雑誌を買いまくり、ハガキとかも出しました。(編集部とかに)
とにかく大好きだったんです。BEST4にまでなって、私は感激でした。
そしてその夏、また酒井投手に会えると、ビデオまでセットして第一試合をみました。
一回戦で負けてしまって、すごく残念でした。私もあの【天理の】ユニフォームを見ると逃げたくなりましたよ。
あれ以来、毎年夏になると、新湊はどうかな?と新聞をチェックしていましたが、今年の富山の代表校を見て思わず声をあげてしまいました。すごぉ〜くうれしいです。応援してます!!楽しみにしてます!!
ちなみに私は生まれてずぅーっと千葉に住んでいます。
それでも、千葉県代表の市立船橋より、新湊高校を応援します。
初戦、徳島商らしいですね。強豪でしょうから、苦戦するかもしれないですが、是非、是非、甲子園で一勝をあげて、あの長いお辞儀をもう一度、わたし達に見せて欲しいです。祈ってます。
すごく長い文になってしまって、しかも読みづらい文章ですみません。でも、新湊の事が沢山かいてある記事を読んで思わず感激してしまったので、メールしてしまいました。
興奮のあまりの乱文をお許しください。
新しい情報等ありましたら、また書いて下さいね。
それでは。
P.S. 明日は早起きです。 ------千葉の伴さん
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□
8月9日(土)、因縁試合の徳島商業高校戦は思いもかけない非運に見舞われた。好投続ける境投手が4回表に相手の打球を左頬に受けて救急車で運ばれてしまったのだ。病院にはお母さんが駆けつけたと報道されたが、彼は4年前にお父さん(当時44歳)を亡くしている。全治3週間。
埴野投手が後を継いだが、ホームランも打たれ、5―0になった。富山大会にも投げていない四間丁(しけんちょう)投手が出てきた。隣の家の子がいきなり甲子園なので興奮した。徳島の中山投手乱調で8回に都崎に交替して3点を入れられ、元に戻って1アウト2、3塁をしのいだ。9回にエラーもあって2点を追加されたのが痛かった。
9回裏2アウトから2点を返し、ミラクルを期待させたが既に遅かった。
それでも、新湊高校の粘りを見せたのがよかった。大会に出てない主将(この大会に多かった)や3年生も出て、とてもいい試合だった。3500人の大応援団も大いに燃えた。
徳島商業高校
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3
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徳
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0
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0
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こうして97年の短い夏は終わってしまった。寄付は5000万集めたという。
帰郷報告ではどうしても出席したいという境投手も包帯姿のまま参加して、終了後そのまま高岡市民病院に入院した。
徳島商は準々決勝で屈指の左腕・川口を擁する京都平安に負けた。決勝では平安を智弁和歌山が破って初優勝。なお、この大会からアナウンスなど運営が高校生の手で行われることになった。
富山勢は平成に入ってから一勝もできないままだ(98年に富山商業が一勝)。
□
試合が終わってから再び伴さんからメールがきた。
本当に残念でした。
土曜日は私にしては珍しく、目覚ましまでセットして8時30分に起きました。テレビを見始めてすぐに1点先取されて、『あ〜やっぱり・・・。』って思いました。
境投手は大丈夫なのでしょうか?こんな風に表現したくはありませんが、悲運としか言いようがない気がします。
8、9回の反撃は11年前の夏、天理との試合を思い出しました。『ひょっとしてっ!!』って誰もが期待しましたよね。久し振りに新湊の粘りが見れて、本当に感謝、感謝です。
それとあの大応援団!!すっごい応援でしたね。私もあの中に入りたいくらいでした。テレビの前で参加してましたけど。皆さんお疲れさまでしたって伝えて下さいね。
前のメールには書かなかったんですが、私の自宅の近くにあるお寿司屋さんのマスターが新湊出身なんです。割と高いお寿司屋さんでめったに行く事はできないんですが、その11年前、新湊のファンになった事をマスターにもお話して盛り上がったものです。そして昨日もそのお寿司屋さんへ行きました。店を出る前に『残念でしたね。応援してたんですけど。』って言ったんです。そうしたら、私がまだ新湊の事を覚えていて、応援していると言う事がとてもうれしかったみたいで、大切にしていたと思われる、テレホンカードを私にくれたんです。『第58回選抜高校野球大会』の『祈 必勝』って書いた純金箔のテレホンカードです。新湊高校野球部後援会がきっと記念に出したカードなのでしょうね。
カードを見た時に、『わぁ〜すごぉ〜い、こんなのあったんですね。』ってマスターに言ったら『あげるよ、それ。』って。
信じられなくて、うれしくて、涙が溢れてしまって・・・。
なんでこんなに涙が出るのか不思議だったんですけど、すごくうれしくて。
私の宝物です。大切にします。
今回は、あんなアクシデントがあって、初戦敗退に終わってしまいましたが、1・2年生のレギュラーもいたみたいなので是非、甲子園での経験を生かして、来年もまた甲子園出場を目指して欲しいです。その時はまた必ず応援します。
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新湊高校は97年秋期大会で9月17日、四間丁が打たれて滑川高校に敗退した。森監督は「夏は実力で勝てたわけではないことを分からせる意味でいい薬になった」ときっぱり。富山商業と高岡商業が北信越に出場したが敗退。
11月に桧物元新高監督が国際大付属高校(僕のかつての勤務校)の監督に就任した。新しくできる野球部なのでゼロから始めようと決めたらしい。
□
98年の5月に千葉の松尾さんから次のようなメールがきた。インターネットの本質をついた内容でもある。そして新高野球部千葉支部を作ってもらっている。
金川さん、はじめまして。突然のメールで失礼します。
私は千葉県に住んでいるマツオと申します。先日ようやく自宅にMacを購入しまして早速インターネットをやってみたところ金川さんの新湊高校のホームページを見つけまして、いてもたってもいられなくなってこうしてメールを書いています。
私の言いたいことはホームページの中にも登場していた伴さんがすべて代弁していたというカンジです。私も1986年のいわゆる「新湊旋風」の時以来の新湊高校ファンでやっぱり毎年高校野球の季節になると新聞やTVでチェックしています。新湊の野球には技術とかそういったことよりも、なんだか人の「気」みたいなもののスゴサを身にしみて感じてしまいます。選手だけではなくて、応援合戦のあの熱気や人々の情熱っていうんでしょうか今思い出してもじぃ〜ん!ときてしまいます。きっと素敵なトコロなんでしょうね、新湊って…。
でもホントに金川さんには感謝です!インターネットってすごいなぁ!と思ってしまいました。こんなところで私の知らなかった新湊高校のお話に出会えるなんて…。ひそかに桧物監督はどうしたんだろうって思ってたんですがそうですかぁ…新しく出来た野球部でがんばっていらっしゃるときいてうれしくなってしまいました。それに、ホームページの中でも登場していた千葉の伴さん、わたし高校野球の雑誌で彼女の名前おぼえてるんですよね。
「あ、あたしと一緒の新湊ファンなんだぁ!」なんて思って…(そこには「酒井投手に彼女がいる!」なぁ〜んて書いてあって当時はものすごくショックだったのでよく覚えてるんです…。笑っちゃいますよネ。)
今でもその雑誌とってありますけど、こんなところでまた伴さんにも会えるなんて(正確には会ってないですけど…)すごくうれしいです。【…】
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沖縄のファン・渡嘉敷さんからもメールが来た。
はじめまして。
びっくりしました。新湊に関するホームページがあるなんて・・・
私はよく甲子園を見るのですが、一番心に残っている高校は新湊高校です。今でもはっきり覚えてます。雨の中の享栄戦、そして鳥肌がたったのが拓大紅陵戦。私は正直言って負けると思ったんです。それなのに大逆転して・・・
あの酒井投手の絶妙なコントロール、そしてどんなにランナーをだしても全員で守り抜く野手。本当に感動しました。
当時、中学2年生だった私は、その日から寝ても覚めても「新湊、新湊」でした。新聞や雑誌を切り抜きして、今でも大事にとってあります。本当にあの時の感動がよみがえってきます。
5年前に富山に旅行にも行きました。(ちょっと恥ずかしい話なのですが、新湊高校の校門で写真も撮らせて頂きました。)【…】
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□
98年6月には富山商業が北信越で優勝して順調に夏の甲子園県代表になり、11年ぶりに初戦突破した。この80回大会は横浜の春夏連続優勝と松坂投手の活躍で盛り上がった。
99年の選抜は沖縄尚学が沖縄初めての優勝となった。夏の大会で春夏連続優勝ができるかが話題となった。
99年というのはノストラダムスの予言の年でコソボ紛争が起きたり、国旗国家法案や盗聴法案が出されたり、ハイジャックで機長が刺殺されるなど暗いニュースばかりだった。サッチー(野村沙知代)問題も噴出。スポーツでは野村阪神の快調な出だしと低迷があった。新湊市も保守新人4人が激しく戦う市長選があった。我が家も親子で入院したり大変な年だった。
この年の予選では春の大会の不振もあり、シード(高商、魚津工、高岡一、不二越工)からも外れていて、はっきり言って期待されてなかった。高岡商業がダントツという下馬評だった。
初戦は高朋に28―0の地方大会タイ記録で勝った(その直後に高商が有磯に52―3と新記録)。滑川に4―2、そして桧物監督の付属高と森監督の新高の師弟対決があり、10―7で競り勝った。準々決勝で福岡を17―1で勝った。準決勝の高商とは3―2で押され気味だったが9回表に同点に追いつき、延長10回の表に2点を加えて勝った。ピンチの時にマウンドに集まった選手が境蓮(きょうれん)投手の帽子にガールフレンドが書いた「余裕」という文字を見つけて「これが大事だよ」と話し合ったという。
決勝では投手が素晴らしい高岡第一に4―3と勝った。9回裏の攻撃が激しく、接戦だった。高岡第一は18年ぶりの出場を逃した。「生徒は一試合ごとに成長した。こんなにたくましくなってくれるとは…」と森監督は語った。
残念ながら僕は練習船で敦賀港の「海の祭典」に行っており、試合はおろかニュースも見ることができなかった。電話で経過を聞いていたが…。
分家静男市長が誕生したばかり(初登庁直前だった)で市役所前は大いに盛り上がった。ケーブルテレビで見たが挨拶の中で後援会長が「ダークホースですらなかったのに勝った」という言葉も出てきた。
□
○小松高校戦
富山は3日連続全国一の暑さが続く。
4日に組合せ抽選会があって石川県の小松高校とぶつかることになった。北陸勢初の対決だという。昔は新潟県との間で予選があり、新潟が独自に代表を出せるようになると、石川と組んでいたことがあった。当時は星稜高校に負け続けた(名投手・村上明を擁したが、星稜は後に中日に入った剛速球投手・小松がいた)。幸い、一県一校になったために苦杯をなめることはなくなった。1回戦での隣県どうしの戦いは78年の東西分割が決まってから初めてのこと。
もともと新湊と小松は因縁がある。『義経記』によると新湊の如意の渡しで奥州に落ちのびる途中の義経が渡し守に気づかれそうになったのだが、弁慶がとっさに義経を扇で打ち叩いて義経主従であることを露見せずにすんだとされるが、謡曲『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』で舞台は小松の安宅の関になっていて、二つの場所が鬩(せめ)ぎ合っている。
個人的には大学の同級生の中で一番美人で聡明だった川島智恵子さん(小松高校出身)を思い出していた。甲子園で会えるだろうか?
小松高校は13年ぶり2度目の出場。準決勝で星稜をコールドで破っている。12年間続いた星稜、金沢の二強時代に風穴を開けた。竹田純投手は本格派右腕。13年前は初戦で高知と対戦して延長11回で負けた。新高とぶつかることが分かったら小さな拍手が出たという。どういう意味だったのだろう?
7日にいよいよ開幕!勝てば秋田と樟南の勝者と第9日目第1試合でぶつかる。3回戦は第11日目第3試合で春の優勝校・沖縄尚学を破れば優勝へ一歩近づくはず。
9日に上でメールを紹介している千葉の松尾さんと沖縄の渡嘉敷さんが応援列車で一緒に甲子園に行きたいと新湊に来る。僕に会う前に元新湊高校の先生にナンパされてアルバムなどを見せられたという。海王丸パークなどを案内してあげて、家族と一緒にお寿司屋さんに行って別れる。
僕は小学4年の祐貴を連れて片口君の家族が用意したバスに乗る。小学1年の未蘭は「(海王丸パークに来ている)キグレサーカスに行かなくていいから連れていってくれ」と懇願するが、他の人の迷惑になってはいけないので説得。途中、小松高校のバスに何度も遭遇したし、僕らが降りてから大量のバスが到着する。創立100周年の小松は72台で新湊は15台位という噂(ただし新湊は応援列車も出ている)。ある報道では小松が4000人、新湊が3500人だという。
甲子園に6時に到着した。降り出した雨は「新湊旋風」の愛知享栄戦の再来を予感させた。
10日(火)第一試合が新高―小松戦。7時に球場に入ると小松の応援団の数がすごくて応援も組織的で音もいい。初めて相手校の応援団に負けたと思った。
1回小松が1点を先取したがこの時はまだ余裕があった。しかし、2回に2点、何よりも8回に2点を追加され、境蓮は15安打と打たれた。正直いって「初めての完封か、一点でも」という気持ちの人が多くなった。学生応援団も沈黙していて観客から「みんな立ち上がって声を出さなければ」との声が強くなってきた。
この時、森監督は選手たちに「甲子園には魔物がいる。お前たちとまだ野球がしたい」と励ましたそうだ。
9回表。その魔物はいた!小松の竹田投手に抑え込まれて2安打無失点7三振だった打線に火がついた。先頭打者八島の三ゴロを三塁手が悪送球。林の投ゴロを竹田が送球ミスして無死一、三塁。これで動揺した小松に新高は5連続長短打を浴びせ、浅井が同点タイムリーを打った。投手は境蓮に代わって釣になり、コントロールがよくてストライクを連発して相手打線を抑えた。
今大会初の延長になり、10回裏の小松1死2塁のチャンスを凌いだ11回表、無死二、三塁から稲井がセンター前に勝ち越しの2点打、更に八島がダメ押しの2点を加えて突き放した。
竹田投手は負けた瞬間、泣き崩れてしまった。自分に何が起きたか分からないうちに試合が終わっていた。石川県のテレビではアナウンサーが泣いていたという。■小松高校野球部OB宮本さんからのメール
ミラクル新湊の復活に応援団のボルテージは最高潮。僕も近くにいた酒井盛政投手と握手して喜びを分かち合った。
こんな大逆転劇は61年1回戦に無得点で迎えた延長11回表に倉敷工が6点を入れたのに対して報徳学園が裏に6点を返し、12回裏に1点を取ってサヨナラにして以来である。
森監督は自身の初出場(80年)から19年かけて夏の甲子園での勝利をおさめた。これで新高は春夏甲子園4勝4敗のタイになった。
小松高校戦
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1
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2
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3
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小
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0
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5
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帰途は歩道でも高速でもサービスエリアでも小松応援団と一緒だった。隣県どうしの戦いは最初で最後にしてほしい。
「帰りのバスは盛り上がったでしょう」と家人に聞かれたが、みんな疲れ切っていて、あんな静かなバス旅行は見たことがなかった。
翌日の朝日新聞全国版にも「新湊 終盤ミラクル」、地方版でも「ミラクル新湊」の文字が踊る。スカイパーフェクTVの中邨アナウンサーは「ミラクル」を連発して「この集中力は一体何なんだ!」と叫んでいた。
阿久悠さんもスポニチの『新甲子園の詩』で次のように歌っている。
そして 始まった
伝説の人津波 アルプスの人雪崩
いやいや 流れるだけでなく
そのエナジーをグランドに伝える
人間発電所
エナジーが集まり 膨らみ
爆発してグランドに注ぐ
人間とは爆発するものだと
その瞬間に証明した
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そして「恐るべし 恐るべし、それ以外の感想が持てようか」という。
この日のNHKラジオ放送は女性初の藤井彩子アナが放送を務めたが最初から大試合で大変だったようだ(混乱して多くの間違いをしていた------暖かい目で育ててあげよう)。後に別の番組で「ミラクルだった」と回顧していた。
千葉に戻った松尾さんからのメール。
金川さん。いやいやホントに新湊高校は魅せてくれますねぇ。
なんだか家についた今でも胸がいっぱいです。
まさにミラクル!これだから新高ファンはやめられません!
それにしても、一生思い出に残る2日間でした。
憧れの新湊の街はわたしの憧れそのままでしたし、(わたしも新湊に住みたい!…くらいです)新湊の人たちも、明るくって気さくで新湊をとことん愛していて、よそからきた私達のことも快くまぜてくださって…。
夜、新高の応援にでかける人たちが、まるでお祭りにでかけるみたいに町中にあふれて、応援列車のなかのあの盛り上がり、忘れられないですね。
わざわざ千葉からきたというとメガホンやTシャツをくださったりビールをふるまってくださったり。そして、スタンドで念願だったハタキを振って大声をだせて(ホントは校歌もうたいたかったくらい!)しかも、あんなにドラマチックな試合を体験できて、今でもぼーっとしています。……
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新湊ののりきちさんからのメールも一部紹介しよう。
試合が終わったとたん、新湊のおばちゃん達の行動がはじまる。
新湊人の考えは「勝った=安い」なのだ。
市役所前の通りのショピングセンタ−”L”では、おばちゃん達が、集合していた。県大会に優勝した時は全館2割引だったためである。
ところが、その日食品は1割引その他2割引だったのである。それを知ったおばちゃんは暴動をおこしていたらしい(笑)。レジの人にむかって文句いってる人がかなり多かった。
新湊人はかなり正直だといつも思う。自分の欲求に正直だ。
そんな私も根っからの新湊人。
新高出身で関東の大学に行ったけど、新湊が忘れられず、卒業して、すぐにかえってきたのです。やっぱり東京なんかより新湊の方がおもしろいからね。
|
□
●樟南高校戦
第二試合の相手は秋田を4―0で完封した樟南(しょうなん/かつての鹿児島商工)で16日第一試合となった。エースの上野の直球は140キロ超。
新湊ケーブルテレビで最初は試合全部、ついでハイライト、最後にハイライトの豪華版が放映されたが、竹内本部長が「マナーを守ってくれ」と懇願。裸になったり、フェンスに上ったり、酔っぱらって応援したり、「あと一人、あと一球」コールをすることが問題だという。同じ内容のお願いが本部から配られている。
よほど記事がなかったのか、15日にこのホームページのことが北日本新聞の記事になるがお盆ということもあってほとんどアクセスは増えない。元々ひっそりとした感じのホームページだからどうってことはないが…。
大雨で神奈川県のキャンプで流されて多くの人が行方不明に。
樟南との試合は力の差がもろに出てしまった。上野投手が6連続三振を取り、一方、新高は境蓮が打ち込まれ、継投の高木が四球を連発して押し出しなどで大量に点を失う。8―1で何とか踏ん張れと思っていたのに9回にダメ押しの2点を失ってしまう。9回1死で「一人でも多く試合に出してやろう」と上野を引っ込めてしまう。2アウトからの失点が多かったのが、残念だった。前回完封している上野投手から1点取れただけでもよかった。
我が町だけでも5人も出場している、ということから分かるように地元だけの弱小チームでこれだけ盛り上げてくれたことに感謝したい。
ライトの八嶋君のスマイルが新高のさわやかさを表現し尽くしていたと思う。
こうして99年夏が終わる。
樟南高校戦
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1
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2
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3
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4
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5
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6
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7
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8
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9
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計
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樟
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1
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2
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0
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2
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0
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0
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0
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2
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10
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新
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1
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0
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0
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0
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0
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0
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0
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0
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0
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1
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□
沖縄尚学の春夏連覇がなるかどうかが注目されたが新高―樟南戦と同じ日にあっさりと都城に完投・完封されてしまった。樟南はこの都城を3回戦で2―1であっさり破ってしまう。樟南は勝ち進んだが準決勝で桐生第一の正田投手の前に力つきた。そして桐生第一が14―1の大差で岡山理科大付属を破って初優勝した。
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『後援会広報』が送られてきて収入は43,665,461円で余剰金14,187,021円が繰り越された。
時あたかも高岡法科大学が存在をアピールするのに野球部を強化するために不正入試と成績改ざんを行ったというニュースが流れた。卒業単位が足りないのに事務が成績を直したというのだ。高校野球が他のスポーツ全体をダメにしているというのはよく指摘されることだが、野球人気で全てを濁らせてはいけない。
野球と「世間」というものを考えなおす必要があるだろう。
こんにちは。私は大阪にすんでいる高校野球ファンです。
新湊を初めて見たのは、2年前です。
投手の顔面直撃のあの瞬間を見ていました。
夢のマウンドで血を流して退場する姿に同じ高校生だった私は自然と涙してしまい、それから新湊高校は私の中で気になるチームでした。
大阪に住んでいると、町や市が一体になって一生懸命応援することはまずなく、新湊のような一体になる甲子園での応援に羨ましく思っています。
今年の新湊の2回戦をテレビで観戦していたら、2年前のあの投手を見ました。野球を続けているのは、雑誌などで知っていましたが、実際元気そうな顔を見れて安心しました。
1回戦では9回の猛攻にやっぱり目を潤ませてしまいました。
新湊さいこー。って家で叫んでいました。(笑)
これからも応援し続けますので、いろいろ教えてくださいね。
------大阪在住 なおみ
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2000年4月に監督が交替。杉本新監督は新高出身で97年から3年間、新高野球部の部長を務め、森監督と入れ替わる形で杉本部長が監督に、森監督が部長になった。12月には国際大付属の桧物監督が健康上の理由から辞任した(部内暴力の届が遅くて日本学生野球協会から「警告」を受けていた)。
輝け!新湊高校ナイン@甲子園21世紀版に続く。
《甲子園出場校=各県1校制以降》
79桜井(初)→80新高(初・興南)→81高岡第一→82高商(初戦突破)→83桜井→84高商→85高商→86新高(天理)→87高商→88富商→89富商→90桜井→91富商→92高商【新高】→93不二越工(初)→94富商→95高商→96富商→97新高(徳島商)→98富商(初戦突破)→99新高(小松→樟南)→00富商→01滑川→
※新湊高校にはホームページがなかったので夏3回目の出場となった1997年に作った非公式サイトです。
新湊高校と同校野球部に関する質問やアンケートなどにはお答えできません。
新湊高校には消える魔球を投げるピッチャーもいるのですが、秘密兵器を書くと相手校に知られるのでこれ以上詳しく書きません。
くれぐれも僕には寄付金を送らないでください(ちっとも構いませんが返却しません)。
野球の上手な中学生以外は新高より面白い先生の多い国立富山商船高専に是非入ってくださいネ。(^0^;)
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