1年あまりの間に、つよおばあさんと義父が相次いで逝ってしまった。
つよおばあさんは100歳5ヶ月の大往生だった。
100歳人工が殖えたといっても、田舎ではまだまだ貴重な存在であり、まさに大往生だったといえる。
そこでの法要に参列して、初めて真言宗のお経を耳にして、そのユニークさに心動かされるものがあった。
我が家の宗派は福井の永平寺と同じ曹洞宗であり、また、真宗王国とも言われる土地柄では、もっぱら浄土真宗のお経を耳にする機会が多い。
もちろん、私などは、お経を習ったこともないし読めるはずもない。
仏事では、ただひたすら、足のしびれを耐えながら聞いているのみであり、百八つでは足りない程の煩悩の塊のような人間である。
改めて言うまでもないが、真言宗の開祖は弘法大師として知られる空海である。
平安時代、空海が唐に渡り、阿闍梨(けいかあじゃり)より直々に伝授され日本に伝え始まったとされている。
お経を聞いても、その意味を全く理解のできない私は、どんな声なのか、どんなハーモニーなのか、どんなメロディーだろうか…といった具合に、お経を音楽的に観察することが多い。
真言宗のお経は、耳慣れた浄土真宗や曹洞宗とはずいぶん違ったイメージがあった。
お経の知識も無く読めもせず、曹洞宗や真宗しか耳にする機会のない私には非常に珍しい音の響きに感じられた。
一般的に、お経の節は平坦なものが多いと思うのだが、真言宗では節に上がり下がりが大きく感じられる。
あーあー・と上ってみたり、おーおー・と下がってみたりと、まるで、エレベータのようなメロディーなのである。
時々は、えー え え え え え…のように、ビブラートのような響きが入ったりもする。
このように書くと宗派の人に叱られるかもしれないが、結して侮辱しているわけではない。
お経について何の知識もない私が、耳に入って来る響きを、そのまま表現しているに過ぎない。
実にメロディーがユニークというか、音楽的に魅力的なのである。
真実は知らないが、インドの言葉に、より近い音に聞こえてくるのだ。
浄土真宗や曹洞宗は日本語に聞こえるが、真言宗には異郷の音の響きが感じられるのである。
初めて耳にする響きなので、その音がより強くイメージされたのかもしれない。
それもそのはず。文献によれば、サンスクリット語で書かれた真言というものを真言宗では、そのまま読んでいるとある。
つまり、真言を読む宗派だから真言宗というらしい。なるほど、わかりやすい説明だ。
いつも思うことだが、お経を読んでいる坊さんの声は素晴らしい。
職業とはいえ、なかなかの鍛えられた咽・鍛えられた声である。
合唱をやっているものの一人として他人の声には興味を抱く。
彼らの声のほとんどはバリトンではなかろうか。
あの腹の底に染み入るような、空間に延々と広がるような音の響きに、満たされ、慰められ、癒され、安らぎを得ているように思える。
テノールのお経も聴いてみたいと思うが…錦織 健がお経を読むとどんな風になるのだろう。
きっと賛美歌のような素敵な響きになるにちがいない。
初めて耳にする異国を感じさせる音の響きとともに、チーンチーン・ジャーンジャーンと楽器も加わったりして、珍しさと音の豊富さで法要の時間は退屈することがなかった。
うちの方では、これに更に木魚が加わったりもする。
ポクポクポクと木魚をたたいてリズムを取っている。
あれもなかなか柔らかくて優しい音であり、いつの間にか眠りに引き込まれる響きがあり心地良い音である。
真宗では、南無阿弥陀仏と唱えるが、真言宗では、南無大師遍照金剛と唱える。
他の文句は記憶もないが、この「なーむだーいしへんしょーこーんごー」という響きだけは耳に残っている音だ。
何度も何度も繰り返して発せられた音だから、「どういう意味なのかな…」と思いながらも印象的な響きがあった。
文献によると、弘法大師の言葉に「死んで仏になって何になる、今この与えられた身で仏にならずしてなんになる」という言葉がある。
これは、簡単にいうと生きているうちに仏のような行いをしよう、できることならばみんなから生き仏と呼ばれるような生き方をしようではないか。というものらしい。
真言に限らず、お経には同じような言葉が記されているのだろう。
だが、残念ながら当日の私には、膝の痛みとしびれから一刻も早く解放されることしか頭に無かった。
あと何分で終わるんだろう。20分…10分…
言葉など分からなくても、意味など分からなくても良いではないか。
人間の発する声の響きを感じる事で、極楽浄土へ、眠りの世界へ私たちを導いてくれるのだろう。
お経は、そのように作られている音楽だと私は思っている。