分校

村の中程に小さな学校が建っている。私が小学1年生で通学した記憶があるから、築後60年以上にはなるのだろう。

村では冬は雪が深く、本校である中田小学校(現・女良「めら」小学校)へ通学が困難なために冬季分校として建てられたものだ。

1980年代には、村から通学する子供がいなくなったこともあり、今は廃校となっている。

分校は、12月から開校したと記憶している。私の頃は、それぞれの学年に4・5人の同級生がいて、村の分校だけでも20人の生徒がいた。

一つの教室を真ん中で仕切って、上級生と下級生との複式学級となっており、中央には石炭ストーブが囂々と音を立てていた。

通常、上級生は男先生が、下級生は、まだ初々しい、おなご先生の受け持ちだった。

男先生は、分校で自炊される事が多かったが、おなご先生は子供達の家に下宿することになっていて、今年は、どんな先生が来るのだろうか、誰の家に泊まるのだろうかと僕たちは、おなご先生が来るのを心待ちにし、母か姉のように慕っていたものだ。

村を挙げての家族ぐるみの付き合いをする事もあり、ついつい、おなご先生を「かあちゃん」、男先生を「とうちゃん」と呼んでしまう事も珍しいことではなかった。

おなご先生は1年毎に変わって行かれたが、男先生は数年続けて来ていただいた。

中でも、I先生は特別で、20年以上の長きにもわたって分校に来ていただいた。

その間に先生は、そろばんや習字・卓球などと本校以上の教育を村の子供達にして下さった。

冬だけの短い期間にも関わらず、そろばん1級を取得した子供も何人かイル。 僕も6年生の時だったか、習字で地元紙に入選した想い出がある。確か、(急行列車)と書いたと思う。

夕方からの2時間ほどが、それぞれの稽古時間だったが、先生は一人一人に真剣に丁寧に教えて下さった。

春になって、おなご先生の家にも何度かおじゃまさせて頂いた事もあるが、今では賀状を交換するのみで、お互いの健康を確かめ合っている。




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