足で見る

公園の梅が咲きはじめたという知らせを耳にした2月末の日曜日に、新しい靴を買い求めた。

一つは外出用のもので、もう一つは4月から始める予定の、早朝散歩に履いて行く運動靴である。

以前は、靴に限らず買い物の際には、サイズやデザインなどに細かく心配りしていたものだが、光を失ってからというもの全く無頓着になってしまったようである。

自分であれこれと探せないというのもあるが、色や形やデザインなどの説明を受けても、結局はイメージが定まらないからである。

もしかすると、大ざっぱで物事にこだわらないという血液型が影響しているのかも知れない。

「まぁ この程度で良いだろう」という安易な気持ちで、シンプルなデザインのものを一つ選び、とにかく試着して感覚を足で確かめることにした。靴選びに関しては実は、この「感覚」こそが重要なのだと思っている。

歩いている時の足に感じる路面の感覚が、杖で見るそれに匹敵するほどの情報源となるからである。

歩道は意識して道端を歩くようにしている。 真ん中の方が安全だよと親切にアドバイスしてくれる人もあるが、排水路の縁や路上ブロック、住宅の塀などに杖を沿わせて進む方が歩きやすいからだ。

この際にも足からの情報は貴重だ。白線の有無や路面の材質、小さな溝やでこぼこ、僅かな傾斜などを感じながら歩くからだ。

私にとって足もまた、もう一つの目である。

次の日の朝、買い求めたばかりの靴の履き具合を早速試してみた。 風は冷たいが、気持ちの良い好天のようだ。気のせいか、新しい靴に気がはやる。

「あぁ、しまった」

家の前の歩道に出た瞬間のことである。 路面の状態が伝わってこない。 誘導ブロックさえも踏み外してしまう。

まるで国際電話で話しているかのように、足裏への感覚が遅れて伝わってくるのである。

いつもの歩き慣れた道なので、そのまま歩を進める。 しばらく歩いた頃に、はたと気がつくと、足下に誘導ブロックが感じられない。 どうやら気付かぬうちにブロックを踏み外してしまっていたようだ。

2・3歩だから、すぐ近くにあるはずと、杖を頼りに探してみても見つからない。 あるはずの物が見あたらない。こうなると、少々あせってしまう。

おかしいなと思いながらも、人に気付かれぬよう冷静を装い注意深く辺りを探って、ようやく自分が何処にいるのかが理解できた。

どうやら、歩道に隣接している駐車場の出入り口から中へ迷い込んでいたようである。

その場は何とか脱出してほっとしたのもつかの間、帰り際に再び問題発生となった。

ご存知のように、歩道に敷設されている誘導ブロックは直進を意味する線ブロックと停止を意味する点ブロックからできている。

家に向かうには点ブロックの所で左折する必要があるのだが、買ったばかりの靴では線と点の判断も容易ではなく、なかなか見つからない。

「たしかこの辺に」と思いながらも同じ道を何度もいったり来たりする事になってしまった。

近所の人に見られてはいないだろうか。 何か捜し物でもしているのではと思われていないだろうか。 などと妙な気遣いをしている自分がおかしい。

これは、家の近くの誘導ブロックも敷設してある歩道での話だ。 歩き慣れた道でさえこのような状態なのだから、数ヶ月ぶりとなる公園への散歩道は、言わずもがなであろう。 とまどい不安気に歩く自分の姿が目に浮かぶようだ。

感覚の伝わりにくい原因は、靴裏のゴムにあるようだ。 運動靴のそれは、少し分厚くて硬い作りになっている。

靴選びの際の、この辺りの重要性は十分理解しているつもりだった。 それというのも、前回にも同じ体験をしているからだ。

その思いで試着し、感覚を確かめたはずだったが店内と路上とでは足への感覚が全く違っていたのだ。 前の教訓を生かせなかった自分が腹立たしい。

素材や硬さを確かめなかったり、フロアと路面の違いに思いが至らなかったり、 靴選びを面倒に思い適当に決めてしまった自分。 そうした諸々の事柄に、細やかな思慮が欠けていたことを悔いている。

たかが運動靴、されど運動靴である。

一歩の踏み違いで迷路に、一歩のミスが大けがにつながる場合もあるのだから。


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