長 棟



村人が去った後も村を見守る石仏達

所在地富山市(旧)大山町長棟
長棟 アプローチ国道41号線茂住から林道をたどる
茂住標高280m
最終到達点1310m
標高差単純1030m
沿面距離往復27Km(茂住からの車移動も含む)
登山日2020年5月8日
天 候晴れ
同行者ツヅク、ワニ、タヤ、ナカタニ、(神岡町から参加)



 


 

 神岡町のお寺さんの要請で長棟を案内することになった。当日、目的を聞くと「池ノ山に登りたい」という、登山が目的だった。石仏の探検だと思っていたので予想外の展開となったが...

 飛騨市はいまだにコロナ感染者がゼロだが富山市は感染率全国第三位。私は別の車で行った。神岡からの4人も2台の軽トラだった。山でも皆、マスクを着用。


茂住峠(地蔵峠)よりのぞむ白山

 途中、茂住谷集落跡の石仏群に寄った。和尚さんの話では、墓は禅宗も浄土宗も交じっているとのことだった。それを聞けただけでも大満足。
 茂住在住のナカタニは「おこまばばあ」のことを知っていた。家は茂住にあって、無雪季だけ茂住谷に住んでいたようだ。名字も判明した。


茂住峠(地蔵峠)の地蔵菩薩2体

2体とも地蔵様でした(前回は左を薬師如来と勘違い)

 茂住峠で旧道に寄って地蔵様を見た。旧道は林道から少し離れているので知らない人が多い。
 和尚さんからは「『地蔵峠』(茂住峠の古い名称)と呼ばれていた理由がこれで解った」とのことだった。


長棟集落跡の金比羅社

守る人もいなくなり屋根が壊れたままになっている

 父は幼少の頃に高山市から養子として長棟に送られた。何故、大きな町(高山市)から寒村(長棟)に送られたのか解らない。もう知るよしもない。
 昭和10年、長棟から分教場がなくなった年に、ほとんどの人は大津山に引っ越して廃村となった。私は大津山生まれの大津山育ち。山猿である。


狛犬は健在

建立は明治時代らしい

 私の記憶では20年ぐらい前まで毎年、長棟で祭りが行われていた。集まっていたのは10名前後だった。皆、長棟に住んでいたことがあった人ではないかと思う。
 長棟の廃村からすでに85年。長棟での生活の記憶がある人はもういないのかもしれない。


部落の入口にある不動明王と道祖神


不動明王

道祖神

 古い地図には観音堂が載っている。道路沿いで観音堂があったと思われる近くに石仏が5体祀られている。
 左の石仏は足で邪鬼を踏んでいるので「天」だと思われる。手が4本あり、剣を持っている。摩利支天?

 平成14年発刊の「ふるさと再発見Ⅴ」(大山町、大山町自治振興会連合会、ふるさと再発見パートⅤ編纂と文化遺産等の発掘調査委員会)の写真をみると石仏は10体あったようだ。(撮影時期は不明)


観音堂があったと思われるところにある石仏

10年前の写真(2009年6月19日)

 長棟集落跡からさらに車を進めて清五郎谷に入る。昔はここで会社(三井金属)のスキー大会があった。大人も子供も皆、大津山から大移動して、ここでスキーを楽しんだ。真冬にどうやってここまで来たのか記憶にない。


車で清五郎谷まで入る

まるで船のような鉱山の遺物

 清五郎谷の鉱山跡手前で車を駐めて歩いた。四駆なら上がれると思う。一番上の広場でランチをとった。


昔、小屋があった ここがその跡地だろうか?


車を降りて上へ向かったが

車で入れたかもしれない


一番上にある広場

ここから池ノ山へ取り付く(藪漕ぎ)

 快晴で遮るものなし。いつもと同じ山並みが連なる。先週登った六谷山と同じだが、乗鞍岳が見えるのがちょっとしたおまけ。


大日連山、剱岳、剱御前、剱岳の手前に鍬崎山


薬師岳


北ノ股岳、黒部五郎岳


鑓ヶ岳、穂高連峰、抜戸岳、笠ヶ岳


乗鞍岳と手前は山ノ村の森茂

 人は何故、石像を作るのだろう? 解るようで解らない。自分が、自分たちが生きた証を何かの形で残したかったのだろうか?


ドビラダン出合にあったこれは何だ?

横にいるおまえは追い出されたのか?


コロナ自粛で飛騨市(感染者ゼロ)から軽四2台と八尾町からハスラー1台の合計3台で行った

 長棟を見つけたのは亀谷銀山の大山佐平治。地図にその慰霊碑が載っているので探しに行った。


集落の下流で発見した関所跡(ヤライ五十間)

金も発掘された所だったので往来は厳しかった

 長棟集落の外れに関所があった。地図には「ヤライ50間」と書いてある。ネットで「ヤライ」を調べると『竹または丸太を組んで、人が通れない程度に粗く作った、臨時あるいは応急の柵』とあった。


この石垣の上に「ヤライ」を組んで往来者を監視していたのだろう

 ヤライ跡を超えて進むと墓が現れてきた。地図には「墓」と書いてある。墓場だったようだ。
 最初に見つけたのは日露戦争の忠魂碑。こんな山の中からも若者が戦争にかり出されていたのだ。(あなた達の命の代償で今の日本があります。ありがとう)


日露戦争の忠魂碑

こんなところからも日露戦争にかり出されていたのだ


道祖神

何かの石仏

 最初に見つけた大きな墓を見て驚いた。「池原家代々の墓」とある。家紋も我が家と同じ「丸に桔梗」だ。
 建基者は池原豊治郎とある。聞いたことがある名前なので、一瞬、ご先祖様かと思ってしまった。実際は違っていたが、昔は本家、分家ぐらいの間柄だったのではないかと思う。


見つけた10基ぐらいの墓の中で一番大きかった墓


「池原家代々の墓」とあり家紋も同じ「丸に桔梗」

昭和7年建基 建基者は池原豊治郎

 石室で囲われた中に石仏が散乱している。何だったんだろう? (後日調べたら六地蔵だと分かった)


何のためのものだったのか不明だったが


「ふるさと再発見Ⅴ」の写真を見ると6地蔵だったようだ

 旧道と長棟川の間にある大きな石を発見。大山佐平治の記念碑かと近寄ったが倒れていて確認できなかった。
 これも後日の調べで佐平治の記念碑と分かった。


倒れていたのは探していた大山佐平治碑か?

表の字が読めなくて確認できなかった

 大山佐平治は佐渡の出身で1626年に長棟の鉛山を発見。加賀藩から50石の扶持を賜るも1641年頃に長棟を去った。新参の他の山師に追い出されたとのこと。
 佐平治の慰霊碑が建ったのは1786年ということで村を去ってから145年後のことである。ちょっと信じられない話だ。


これも「ふるさと再発見Ⅴ」の写真で大山佐平治の碑と確認出来た

 墓は集中しているわけではなく点在していた。集中していたのだが、崩壊したり移転されたりしたのかもしれない。
 長棟の最盛期は戸数300軒、山小屋800軒と言われている。信じがたい軒数だが、もしそれが本当なら墓もそれなりにあってもいいことになる。


普通は同じ方向を向いているものだが...

 墓場を過ぎたところに湿地帯があり、キンコウカとミズバショウが咲いていた。墓とか石仏ばかり見ていたので、ちょっとホッとした。


墓や石仏ばかり見ていたからか、花を見て、ちょっとホッとした


リュウキンカ

ミズバショウ

 元来た道を車まで戻り、長棟を後にした。茂住で「山の神神社」に寄る。ここにも日露戦争の慰霊碑が建っている。そこで解散。次回は池ノ山に登ることを約束して富山と神岡に別れた。


 

 いつもと違う山行きとなった。お寺さんがいたので石仏のことなど、いつもと違う話が聞けて楽しかった。


池原豊治郎の名前が載っている 大山佐平治が大山佐兵衛になっている