石倉町延命地蔵尊の歴史
傷ひとつ無かったと言い伝えられています。
奉賛されています、昭和20年の富山空襲では本堂が消失致しましたが地蔵尊は
多所帯となっております、以来路行人、遠近、老若男女を問わず昼夜敬虔な信者に
一体の石仏を発見し、自宅に安置したのが始まりとされいつの間にか(現在)13体の
古くからお地蔵さんは病の平癒を願って信仰あつき人々に奉賛されこんにちに至った
作って生計をたててましたが大洪水によっていたち川に流されてしまいました
当時この地には石を加工する事を生業とする多くの人が住み、石仏、墓石等を
現在の富山市石屋から流れ着いたものがほとんどであろうとされてます
それらの多くは、安政5年(1858年)立山連峰の大鳶山の崩壊により
いたち川沿いに幾多の地蔵尊、水神社、不動尊が祭られていますが
現在の本堂は昭和30年に町内会、信者、有志の方によつて宮大工、酒井仁義
さて、このお地蔵さんは台座石3寸の立像の石像菩薩さまで今から150年程前
彫刻は初代南部伯雲によって全て檜造りで再建立されたものです
12支の干支が彫り刻まれています
本堂の正面彫刻には地乳飲み子に乳を与える如来像が彫刻され本堂廻りには
当時石倉町に住んでいた晒屋九郎が夢枕のお告げ通りいたち川に流されていた
当時信仰の山として崇拝されていた立山に奉納されていた地蔵尊が翌年の大洪水 によっていたち川にもたらしたものとされていますがこれらの多くのお地蔵さんは