| 預言者ノストラダムス |
史上最大の予言者として人々に知られたミッシェルド・ノストラダムス。ヒトラーやナポレオンの登場をはじめ、彼が的中させた予言は数多い。しかし、ここで一つ断っておかねばならない事がある。それは、ノストラダムスの予言はただの“予言”ではなく、“預言”であるということだ。予言とは、その名の通り“未来の出来事を予め言うこと”である。予言は不完全な人間の独断で語られるため、当然中には間違いや勘違いもたくさん含まれる。一方で、“預言”とは“神の言葉を預かること”である。
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そこには未来に関する事柄に限らず、過去の出来事や指導的な言葉、教えや諭し、祝福や呪いの言葉も含まれる。そして、預言者の語る言葉は必ず成就する。なぜなら、次元を超越した絶対神は時間と空間の束縛を受けず、自由意思のもとに歩む全ての人間の過去・現在・未来を、一瞬にして把握することができるからだ。いや、最初からすべてを知り尽くしているといったほうがいいかもしれない。預言者とは、そのような高次の存在の霊感を受け、神と人間の仲介者としての使命を与えられた偉人たちのことなのである。
我々だけの知識では何も得ることはできず、われわれの創造主なる神の奥義の働きによってこそ得られるのだ。「時期や場所は、父がご自分の権威によって定めておかれるのであって、あなたがたの知る限りではない」という通りである。(『息子セザールへの手紙』より)
預言者は、当然のことだが、出来事を人類の知識から遠く離れた高みから見ているのだ。預言者は預言についての純然たる光によって、人間(預言されたことが現れたのを見て知る)と同様にして神的事柄を知るのであり、それははるか遠くまで広がるのだ。(『息子セザールへの手紙』より)
具体的に預言者が言葉を授かる神とは『聖書』の神である。その神は古代からヘブライの人々が崇拝してきた絶対神であり、自らを『有りて有る者』と語り、またの名を『イエス・キリスト』という。ノストラダムスが示現を受けた存在も然り。彼の祖先はヘブライ人であり、系統的にはイスラエルの十二人の息子の一人、イッサカルの末裔に当たる(このことはノストラダムスの学術的研究本「ノストラダムスとルネサンス」にも明記してある)。イッサカル族を含む北朝イスラエル王国の人民は(イスラエルの10支族)は、紀元前722年にアッシリヤに捕囚として連行されて以来、歴史上から消え失せている。
しかし、エフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンの一部はヒゼキヤ王の時代に南朝ユダ王国に合流したとされ、おそらくノストラダムスの家系もその時の移民に由来するのであろう。当然ながら、ノストラダムスが崇拝した存在とは、慈悲の神イエス・キリストに他ならない。ノストラダムスは聖書に登場する歴代の預言者と同じく、聖書の奥義を徹底的に理解していた人物であり、だからこそ至高の絶対神ヤハウェ=イエス・キリストからその啓示を受けたのである。ただ、ノストラダムス自身は、自分を預言者と呼ばれるに、到底値しない器であると語っている。もっとも、これはあくまでもへりくだる心の表れであり、自らが預言者であることを否定した言葉ではない。
さあ息子よ、私はここで預言者として名を連ねたが、かの崇高なることば「かつては見る人といわれたが、今や彼は預言者と呼ばれている」は、自分にはとても当てはまらない。(『息子セザールへの手紙』より)
しかし、私は自分に預言者としての名称は望まない。私は死すべき人間にしかすぎないのだ。ただ私は自力で、地球からというより感覚的に天から遠くない存在だといえる。「私は正しいことをなし、失敗することのないように仕向けられている」。(『息子セザールへの手紙』より)
また、ノストラダムスの預言方法には、おもに二つの神秘的原因があり、究極的には両者とも天の神に帰属することが証しされている。すなわち、ノストラダムスの基本思想として、神の関与なくして預言は絶対に成り立たず、自身の有する特殊なパワーによってのみ為されるものではないことが分かるのである。その意味で、ノストラダムスはただの人間にすぎないのだ。ただ、絶対神に聖任された以上、非常に優れた資質と霊的栄光を宿した人物であることに変わりはない。預言の源泉については、いくつかの箇所で言葉を変えて語っている。
それゆえ息子よ、お前の感じやすさにも関わらず、後に起こった事柄を理解し、天の光や預言の霊によって語ってほしいのだ。
つまり、私は神秘的原因によって、神的に公言するのであリ、おもに二つの根本的原因によって、つまり霊的預言と神のうちにある悟性的理解力とによってなされるのだ。一つは超自然的光、つまり、神の恩恵による光が明らかにするものであって、惑星の運動法則によって語るのであり、他方は霊感的啓示で予測するもので、神からの、創造主たる神的永遠性に参与しているのである。
預言というものは内的な光からわき出るものであり、外的光によっても部分的にものごとが判断できるようになるのだ。(以上『息子セザールへの手紙』より)
すなわち、“天の光=神のうちにある悟性的理解力=外的光”、“預言の霊=霊的預言=内的な光”である。天の光とは絶対神イエス・キリストからの啓示であり、預言者が預かる神の言葉を意味している。それはそのまま神のうちにある知性・知力・論理的思惟能力が預言者の口を通して外界に影響を与えることを意味する。しかし、それはあくまでも外的な光であり、預言者自身の悟性によって語られる言葉ではない。一方、預言の霊とは預言者自身に宿る深遠なる知識を意味している。もっとも、預言の霊は預言者自身の学業や修行によって得られるものではなく、あくまでも絶対神から一方的に与えられる神的な奥義である。
預言者の知識とはカバラ(カッバーラ)であり、聖霊の賜物を授かることでその深みを理解する。その意味で、聖霊は内に輝く光であり、そこから湧き出る深遠なる知識と知恵によって、ノストラダムスは惑星の運動法則――すなわち、天界に表れる神の計画の予兆としての星々を読み取ったのだ。もっとも、百詩編集の各所で用いられている占星術用語は、神から示現を受けて書き記したものではなく、あくまでも預言された時期を示すための「天界の大時計」として、ノストラダムス自身が付加したものにすぎない。天界に現れる予兆は預言者のみが理解できるの神聖な神の所業であり、占星術用語だけで一般人に示すことができるレベルのものではないからだ。ノストラダムス自身、天界の予兆が聖霊から来ることを証ししている。
「その後、私はわが霊をすべての肉なる者に注ぐ、あなた方の息子と娘は預言をし、あたた方の老人は夢を見、あたた方の若者たちは幻を見る。(ヨエ2:28)」これは聖霊の口からの預言であります。その霊は至上で、永遠の力であり、天体からやってきて、偉大ですばらしい事を予告する源となるのであります。(『アンリ二世への手紙』より)
ただし、ここでいう“星を読む”という意味は、いわゆる占星術を指す言葉ではない。占星術は術者自身の判断によって、原初から定められている人の運命を星々から読み取ろうというものだ。だが、預言の一手段としての“占星”とは、術者自身が判断するものではなく、内に輝く聖霊の導きによって(聖霊は理解力を与える)、絶対神が星々に託した意味を読み取ることを指す。それは、神の“計画”の一端が天界の事物を通して予兆されたものであり、決して星そのものが人々に働きかけ、その運命を定めているのではない。実際、ノストラダムス自身は、自分が占星術師と呼ばれるのを忌み嫌っていた節がある。そのいい例が百詩編集の番外編、『愚かな批判家にささげる詩』である。
- これらの詩を読む人々
- 彼らに十分成長した心で考えさせたまえ
- 神聖をけがすことなからしめたまえ
- そして無知な人々を研究に引き寄せ
- すべての占星術者 おろかもの
- 異邦の人々を近くに引き寄せたまえ
- さもないと その行為は神聖なるものの
- 掟にしたがって 災いをくだされよう 〜おろかな批判家にささげる詩〜
ノストラダムス自身、占星術師を愚か者や異邦人(異教を信じる人々を指す)と同列に扱っている。ノストラダムスの百詩編集は「預言書」であり、神聖なる書物である。その預言を自分勝手に解釈する人々に対して、ノストラダムスは警告を与えているのだ。彼は預言者ゆえに、後の人々の勘違いによって、自分が希有稀なる占星術師として祭り上げられることを予見していたのだろう。おろかなる批判家という題名がそのことを示唆している。この詩にある「神聖なるものの掟」とは、異教の魔術的所業を禁じた古代ユダヤの律法であり、モーセが絶対神ヤハウェから授かった神聖なる掟のことを指す。
天にしるしを見る者、星によって占う者、新月によってお前の運命を告げる者などを立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし、炎の力から自分の命を救い出しえない。(『イザヤ書』第47章13節)
百詩編集を解読しようとする人々は、十分に成長した心を持ち、この詩でノストラダムスが何を言いたかったのかを熟考しなければならない。彼はイスラエル人であり、聖書の神イエス・キリストを崇拝していた。何よりも、彼自身預言者であり、太古から存在するカバラの奥義を継承した人物であった。とすれば、ノストラダムスの詩編を解釈するにあたって最も適した方法は一つしかない。聖書を研究し、聖書と調和させることである。それを理解できない愚かなる批判家たちは、結果的に神聖なる神の言葉を混乱させ人々を誤った方向へと導くことになる。ノストラダムスはそのような人々が火で焼かれぬよう警告しているのだ。
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